羽毛も積み重なれば、船を沈めることがある。
長江から分かれた頼りない支流も、何れ万倍も広大な大海へと変る。
人は些細な出来事を見落としがちになるが、それこそが大過への門である。
幸福に漬かりきっている者は、己が幸福であることに気付かない。
人が命在る事を当然と思うように。
それが人生の悲しさか、無がなければ有も無くその間に在るものも無い。
それは人生の優しさか、愛が永遠に続くことも無いが苦もそのうちに溶けて消える。
大切なものこそ失わなければ、解らない。
最初から、不自由なく生きてきたものは特にそうであろう。
つまらないものかどうかは手に入れなければ解らない。
それが人であるか、物であるかは関係は無い。 万物は無常である。
有無。
それが古代より繰り返されてきた悲喜劇の原因の一つであることは事実である。
「たあぁっ!!」
本人は精一杯なのだろうが、入りも何も無いただ竹の棒を振っただけの打撃は、相手の全く力が
入っていないように見えて実際は無駄な加減がない動きで受け流された。
いなされた体は、勢いのまま地に伏せる。 その衝撃に竹棒を手放してしまう。
顔が汚れてしまったことが気に障るのだろう、涙を浮かべ相手を睨む。
「ちょっとは手加減しなさいよ!!」
「してるわよ。」
と、あっさり返された。
先ほどから、何度も打ち込むが一度たりとも届いてはいない。 それ以前に打ち込みとも言えない動きだが。
「董白、貴女は私の言うことをちゃんと聞いているの?」
情けない弟子の少女を董白と呼ぶ者は呂姫といった。
お互いの共通点は、美貌であり、正反対なのは強さである。
「こんなことやる意味ないじゃない!」
董白は、かつてこの世の悪名を一手に引き受けた男、董卓の孫娘である。
董卓は、董白に考えられる全てを与えていた。
美、食、楽、虐、それらは董卓の力で得たもの。
そして董卓の力は董白の力であった。
「武の意味は、武を志す者が各々考えるもの。 まずは、身に着けなさい。」
呂姫はそういって、董白に稽古をつけようとしていた。
董白は、今や華奢な体相応の力しかない。 祖父、董卓が死んだとき全ては失われていたのだから。
「そんなものいらないわ!」
董白は、今まで自分の力で何事かを成したことが無かった。 やってきた事と言えば、董卓の名を借りた命令ぐらいである。
それで十分だった。 己の生まれが、全てを約束してくれていた。
「あなたが私を守ってくれればいいじゃないの?」
そして、何者かに依存して生きてきたものは、それが失われても代わりになるものを求めてしまう。
他者は己のために存在しているのだと疑わない。 素直にそう思っているのだから、救われない。
「勘違いしないでね。」
「え・・。」
呂姫は、竹棒を構え直す。 その姿は、山猫のしなやかさを思わせる。
「立ちなさい。 立たなければ・・。」
一呼吸、その感に考える時間を与えるように。
「一人で死になさい。」
董白という存在は、一人では立てない。
だからこそ、呂姫はあえてこのように言った。 この乱世、まず頼りにすべきは己なのだから。
それは不器用な優しさであった。 呂姫自身、無意識なのかもしれないが案外世話好きの体がある。
董卓在命中は、その配下として董白の身辺護衛をしていたこともあり、放ってもおけないのだろう。
「なんで! わたしがこんなことしなくちゃならないのよ!」
親の心、子知らずとでも言うべきか。 我侭放題に生きてきたこの少女には伝わらない優しさであった。
先日、己一人では無力故に虜にされた身であったことも忘れているのかもしれない。
「立ちなさい。」
「嫌よ!」
董白には彼女なりの言い分がある。
彼女は呂姫という存在を心の底から頼りにしている。
彼女は、呂姫に我が身を救ってもらったことは忘れてはいない。
卵からかえった雛鳥は、始めに目にしたものを親と思うように、董白もまたその時に呂姫に心を奪われていた。
だからこそ、自分は絶対の被保護者でありたいのだ。 自分より強く美しいものに守ってもらいたいのだ。
これが董白という存在の性なのだから仕方が無い、では誰も納得するはずもない。
「なら、ずっとそこに座っていなさい。」
呂姫はそう言い残して董白を一瞥もせずに、立ち去った。
その動きがあまりにも躊躇いがないために、呆気に取られたまま一人取り残される。
「な・・なによ・・。 なんで優しくしてくれないのよ・・・!」
一度失って分ったはずなのに、満たされればそれを忘れてしまう。
なぜそのようになってしまうのか、今の彼女には理解できないことであった。