その後、文姫は匈奴の王の目に止まり買い上げられる。
そこでの生活はあの夜とは全くの別の、幸福ではないにしても安らぎがあるものだった。
もし、王に気に入られなかったならば性奴隷としてどうなっていたか・・その者達の行く末を
目の当たりにしてきたが、それを考えると自分は幸せなのだろうか?
そんなはずはない、家族も無くこのような地へ攫われた己を幸せだと認めることなどできようか。
そうは思うが、子を成してその寝顔を見守る内にそれも消えうせていった。
時を戻す。
文姫は変らずに筆を動かし続けている。
匈奴の地より漢の地に戻ったことは、彼女に再び自分の存在価値を見失わせる。
玉壁一枚で我が身を曹操が買い上げたのだ。 その時の使者の恩着せがましい面構えは
二度と忘れることはできそうに無い。
女として、子から離される苦しみは男などには判らぬのか。
曹操は、文姫に亡き父の書をこの世に復活させることを命じた。
曹操が用意した望みもしない縁で夫となった者に、何も想う事はできない。
我が古里は何処にある。 帰りたき日々は何時の頃か。
十と幾年過ぎようと父の言葉は色あせぬ。
ならば私は、記憶の世界を故郷としよう。
文姫は今日も書き記す。
懐かしき日々思い出すように、今の自分から目を背けるように。