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その日は珍しく娘は街に出かけていた。 大規模な行商がやってきたのだという。
夏の照り付ける日差しの中でよくもあれほどはしゃげるものだと感心するが、自分も毎日それにつき合わされているのである。
娘が居ない屋敷で筆を取るが、やけに一人で書く事が虚しく感じてしまう。
「わたし・・・なんの為に書いてたんだっけな・・・。」
深く暗い水底に潜む蛍の子は、夏の季節に自らを縛っていた殻を破り、夜空を照らす翼を手に入れる。
絶望の底にあった文姫の心に差す光は今はまだ弱弱しくても、確実に希望の方向へ登りつつあった。
蛍が何時の日か、自らの翼で飛翔することを夢見るように、文姫も過去を飛び越えようとしている。
夕暮れ、娘達が帰ってきた。
自慢ではないが文姫は料理ができない。 故郷の味を蘇らせようとして、毒物を作ってしまったこともあったとか。
良い材料が手に入ったと、従者は意気込んで厨房へ向かった。
娘と仲良く並んで、ご飯が出来るのを待つ。 年齢は三十離れてはいるが二人は仲睦まじい姉妹といった様子である。
「今日は楽しかった?」
「うん!おねえちゃんもくればもっとたのしかったのに。」
その言葉は自分の存在が意味あるものと認識させる。
「さあさ、お待ちかね。 今日の膳は一味どころか四味は違いますぞ!」
相変わらず物言いが、くどい男である。
だが、確かに美味しい。 今までこんな美味しいものを食べたことはあっただろうか。
「文姫様は、いつもお一人で食べてらっしゃいますから、たまにはこうやって囲うのも善いものでしょう。」
その通りだった。
自らを認めてくれる人が居る。 自らも認める人が居る。
これは何時か見た日、そう父が生きていた頃のようだ。
「おねえちゃん。」
娘が、いつの間にかその手に箱を持っていた。
「あけてみて。」
「いいの?」
促されて、文姫はその箱の封を解いた。
「これ・・きれい・・・。」
中に入れられていたもの、それはここ、漢の地は魏国で今一番の流行とされる
真紅に染め上げられた極上の一張羅。
「いやははは、娘が絶対似合うって言って聞きませんでなぁ。 思い切って買ってしまいました!」
はははと思い切り笑うが、なけなしの金を叩いたことはすぐに判る。
二人の心配りは、真のものであった。
今の文姫は、それを純粋に感じ取ることが出来た。
「だいじに・・するから・・。ぜったいに・・ぐすっ・・だいじにするから・・・。」
歓喜の涙、それは今を受け入れた証。 心が未来へと舵をとる。
「おねえちゃん、あたしもみてよ!」
娘は、言うが早いか舞を始めた。
見るものを颯爽とした気分にするような、躍動感溢れる流れるような舞。
飛天の如く、眩いその舞。
文姫も合わせて踊ろうとする。 うまくいくはずもないが、体は動いてしまう。
蛍の蛹が、殻を破ろうと一所懸命に命を躍動させるように、文姫も過去を捨て去ろうと踊った。
*
それから数日。
街の往来で、天女が舞っていた。
真紅の着物を身にまとい、戦に疲れた人々と励まそうと玉壁のような汗を飛ばしながら
空を翔るように舞う。
「おねえちゃん、もうあたしよりじょうずだね。」
少し寂しそうに娘は言った。
文姫が舞を修得してしまい、もうおねえちゃん気分が味わえないからであるが。
「そんなことないよ。 まだまだ、教えてもらうことはあるんだから。」
そう、文姫はどの書を読むことよりも大切なことを娘に教えてもらったのだ。
夏の夜空照らす蛍のように、文姫は人々の心を励まさんと一心に舞う。
見ているだけで、心が躍り体も軽くようなその舞は、何時しか飛天の舞と呼ばれるようになった。
父よ、私は己が居場所を見つけました。
子供達よ、すくすくと育ってくれることが母の望みです。
過去の私よ、さようなら。 貴女が居たからこそ私があることは忘れません。
今、文姫は翼を持った。 乗り越えたものが大きい程に、力強くはためく翼を。
蔡エン、字は文姫。 悲しみを知るからこそ、そこ抜けた明るさで世界を照らした飛天よ。
彼女は今日も舞う。 一人でもいいから、誰かを救いあげるために。