こころ
−ガンバレ東日本、ガンバロウ東ニッポンの子供達!!−
先日、仙台の東北大学、宮城県庁の打ち合わせに参りました。10月を迎える「青葉城下のけやき通り」は少し肌寒く感じた。
翌日、車で気仙沼市役所を訪問し、打ち合わせの後、午後から気仙沼の被災地、そして、リヤス式海岸を南に南三陸町を通って、仙台に戻った。
気仙沼の市街地では、内陸に1km押し流された小さな漁船が、ビルの屋上で昼寝中。大きな船は、道路にいすわったまま仁王立ち。ビルの多くは、1階、2階、時には、3階まで瓦礫と化し、その奥には、流木、泥、車などが押し込まれたまま。弱い木造の家は、跡形もなく崩壊をし、基礎のみを残していた。どこが道路で、どこが街なのか。かつての町の人々が元気に働いていた姿を想像することが難しい。
車を走らせて、南三陸町へ。広々とした町全体が、音もなく、光もなく、人の温もりも失せた市街地。沿岸を見ると、「赤裸な鉄骨のみを残したビルの跡」が見えた。それが、町長が奇跡的に生き残ったという「町の防災対策庁舎の残骸」であった。
3月11日、町役場で町議会を行っていた時、大きな地震で町役場が揺れた。議場にいた約40人は机の下に身をかわした。それから、町長は、職員約30名と、町役場から500m離れた防災対策庁舎に向かった。すでに、防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が、町の住民達に「高台へ避難するように」と繰り返し、繰り返し叫び続けていた。
町長以下職員約30名は、津波の様子をみるために防災庁舎の4階の屋上に上がった。視線は、いつも美しい穏やかな三陸の大海原に向けられていた。突然、沖合に「黒い波」。屋上にいた約30名の職員達の誰もがこれまでに見たことのない現象だ。引く波は、深い海底をえぐるように見せ、そして、寄せる波は、ますます大きくなった。「大津波だ」「今更、近くの山に、近くの丘に逃げる時間はない」。あっという間に「黒い波」が迫ってきた。「このビルは、この黒い波のための防災対策のための庁舎だ」「壊れることは…まさか…ないだろう」「これを越える波は…まさか、来ないだろう」「膨れ上がる黒い波は、まさか…、このビルの屋上まで…」。全てが「まさか…」であった。
その瞬間、「巨大な黒い波」は、防災庁のビルの壁を破壊し、屋上にいた約30名の職員を一気にのみ込んだ。町長以下職員約10名は、丈夫な手すりに引っ掛かり、そして、この10人は、屋上の上の、さらに高い5mの二本のアンテナによじ登った。それでも、黒い波は瓦礫を巻き込みながら、この10人に繰り返し襲った。頭が激流にさらされ、沈み、何度もこの「黒い波」の水を飲んだ。
しばらくすると、大きな黒い波は、この10人を襲うのをやめ、少しずつ静かになった。助かったのだ。町長以下職員約10名は、奇跡的に助かったのだ。しかし、屋上にいた残りの20名は、屋上のフェンスにしがみついたように見えたが、この黒波の繰り返す圧力にフェンスとともに消えて行った。黒い波は、「防災」のために建てられた「対策庁舎」自体を破壊してしまったのである。
さらに、車で海岸に沿って、町の中心部に向かうと5階建ての「公立志津川病院」があった。大きな病院の1階、2階が瓦礫と化し、何とか4階、5階部分を維持し、建っているのであった。
3月11日15時30分頃、南三陸町の防波堤を超え、防災対策庁舎をまるのみにした波が、病院に。病院では近隣の住民も避難。最上階へ「上がれ!!」「上がれ!!」。女性の叫び声「あ〜、もうダメだ〜!!」。濁流の黒波は、巨大な波しぶきと土煙をたてながら、目の前のショッピング・センターをたたきのめし、瓦礫を巻き込みながら迫ってきた。
2階から3階、3階から4階。逃げても、逃げても、黒波の水が勢いよく追いかけてくる。4階の車椅子の患者を、医師、看護師達が必至に避難させながら、「早く!!」「早く!!」と最上階へ。
自身では動けない、立ちあがれない多くの患者。それを必死に助けようと走る医師と看護師達。私の脳内では、まるで3月11日、その場に立ち入った様な臨場感となった。
しかし、懸命の避難誘導にもかかわらず、病室には多くの患者が取り残され、入院患者107人のうち72人もの人が行方不明・死亡となり、看護師と助手の3人も波にのまれた。
科学技術の粋を集めて創られた沿岸の巨大な防波堤。町並みに張り巡らされた電柱と発電。新しいデザインの学校や病院のビルディング。三陸の町と町を結ぶ鉄道。日本の水産業を担う漁船群。そして、現代の人々の足である自動車など、科学技術立国ニッポンの英知を尽くして創られた近代産業の粋が木端微塵に破壊された。ニッポンの高度成長を担った「科学技術の力(ちから) 」も「地球という巨大なエネルギー」に比べれば、ひ弱な科学でしかなかった。これが人間の力(ちから)なのである。
夕方、私達は、現場で、遠くを、そして、近くを傍観していた。瓦礫となった「公立志津川病院」の割れた3階の窓ガラスの奥を覗き込むと、そこは暗い暗い闇であった。その暗い暗い闇の中で、誰か?人が私達に叫んでいるようであった。「助けてくれ!!」「日本よ‼助けてくれ」「俺はもっと生きるんだ…」「私も生きたいの…」「どうしてほっておくのだ!!」「どうして助けてくれないの?」と、私はそのように感じ、身の毛が弥立った。
一瞬にして、2万人もの命が失われた。そして、一方、数十万人、いや、数百万人の人かもしれない人々は、この「一瞬の死の世界」から「脱出」し、生き延びた。これも人間の力(ちから)なのである。
この「死」と「生」の境、誰が決めたのだろうか?「死」の苦しみ。「生きる」苦しみ。特にこの被災地の子供達は、今、どう生きているのだろうか?どうしているのだろうか?
私も、そう遠くなく「死」を迎えるであろう。「何が恐ろしいのだ」「何を怖がっているのだろうか」と、私は自分に言い聞かせた。「死」はいずれ、すべての人にやってくる……。
被災地は、7ヶ月を迎えているが、まだ、瓦礫の山、道路は寸断、満潮になると海の流れが静かに町を覆っている。声が聞こえない。先が見えない。人の肌のぬくもりが感じられない。再び、ここに、人々は、帰ってくるのであろうか?再び、ここが、かつてのように活気のあるニッポンの気仙沼、南三陸町にもどることができるのであろうか?
突然、背後にいた赤松教授が「久米さん、ここは夜に来る所ではないですね」と言った。夕闇迫る廃墟を背に、逃げるように、私はレンタカーに飛び乗り、ライトのスイッチを入れ、右足のアクセルを強く踏みこんだ。すっかり、陽が落ちた三陸の街道。すでに復興されている仙台の都会の光に向かいながら、私は秘かにつぶやいた。「もっと元気に」「もっと強く」「もっと生きるんだ」「もっと生きなけ…」。
「ガンバレ東日本!!」「ガンバロ!!東ニッポンの子供達!!」。そして、「ふるさとの夢」「ニッポンの夢」に向かってガンバレ。
久米 潤
(ペンネーム)
気仙沼・南三陸町訪問写真


9月29日15時頃 気仙沼市訪問(被災後7カ月でも、まだ、復興のめどが立たず。) 9月29日15時頃 気仙沼市訪問(津波で破壊された「ホテル気仙沼ほてい」)


9月29日15時頃 気仙沼市訪問(港の様子) 9月29日15時頃 気仙沼市訪問(津波で跡形もなく流された街)


9月29日15時頃 気仙沼市訪問(跡形もなく津波によって流された建物の跡) 9月29日15時頃 気仙沼市訪問(陸に押し流された船)


9月29日15時頃 気仙沼市訪問(大型船が道路に) 9月29日15時頃 気仙沼市訪問(今なお、撤去されずに残っている大型船)


9月29日 17時頃
南三陸町訪問(被災後7カ月でも、まだ、復興のめどが立たず。) 9月29日 17時頃
南三陸町訪問(寸断された鉄道)


9月29日 17時頃
南三陸町訪問(津波によって破壊された車) 9月29日 17時頃
南三陸町訪問(公立志津川病院前もがれきの山)
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