真駒が衆院選に立候補したのは、それから約3年の後、31歳の時だった。
 結局、党は候補者を一本化することができず、C家の当主が引退した第2選挙区は有力候補ひしめく激戦区となった。C家の関係者たちはもちろん、他党も内紛の隙を狙って有力な候補をぶつけてくる。隣の第1選挙区が「今回も目白で決まり」という無風状態なのとは大違いだった。
 県議会議員に立候補した時から自分の秘書を務めてくれている武のサポートを受け、寝る間もない状態で走り回り、演説しまくり、頭を下げまくった。苦労は惜しまなかった。少しでも時間が空けば、ひとりでマイクやスピーカーを携え街頭演説に出かけることさえ辞さなかった。

 そんな選挙活動のさなか、妻から「あなたは本当に国会議員になりたいのね」と、感心したように言われたことがある。
 真駒は昔から、自分の気持ちを即座にうまく説明することが苦手だった。思いが強ければ強いほど、うまく言葉にできなくなるのだ。だからこの時も結局、本当のところをうまく説明することはできなかった。
 当選したいのも、国会議員になりたいのも本当だ。自分なりの考えも、目指したい方向も見えている。でも、それほど頑張っている理由は別にある。自分が頑張るのは、あの時、この道で生きていこうと決めたからだ。あれほど心から夢見た世界を捨ててきたのに、この世界で花を咲かせることができなかったら悲しすぎる。自分の頑張りが足りなくて芽が出なかったりしたら、今も研究の世界で頑張っているであろうあの人に合わせる顔がない。それならば
「…………自分が選んだ道で輝くしかないんです」
 妻はこの返事に黙って微笑した。言葉にできなかった部分がどこまで通じたのかは分からない。

 終盤まで誰にも勝敗が読めなかったこの時の選挙を、真駒は僅差ながらも堂々と制した。本家の人々も含め大勢の関係者が、この結果に驚きを隠さなかった。
 この時の当選祝いは当然ながら、人の数も贈り物の数も、県議会議員の時の比ではなかった。祝いの言葉を受け、こちらがお礼に赴く慌ただしい日々の合間に、武が小さな包みを渡してくれた。
「ああ、真駒さん、これ、内田から預かってました。お祝いやって」
「…………『内田』って……あの、R大の、内田さん?」
 突然思いがけない名前を出されて、つい言葉がぎこちなくなった。
「あれ? 真駒さんの先輩や言うてたけど、違いましたん?」
「いや、先輩です。でも、あれ、武さん、内田さん知ってらっしゃるんですか?」
「ああ、大学の時、サークル一緒やったんです。学部違うけど年一緒やし」
「ああ、そうか、それで……でも、これは……わざわざ武さん宛に郵便で?」
「いや、昨日たまたま事務所の前で会うて、渡されたんです」
「事務所の前!? いつ……あ、いえ、どうして通してくれなかったんですか?」
「本人が、邪魔になるやろからこれ真駒さんに渡してくれるだけでいい、『おめでとう』言うといてくれ言うて、さっさと帰ってしまいました」
「・・・・・・」
 他に用事があって来る土地ではない。せっかくお祝いに来てくれたのなら、一目だけでも会いたかった。
 寂しい思いを押し殺しながら、丁寧に包みを開けてみた。小さな箱に入っていたのはセルロイドの万年筆だった。
「万年筆ですか……どこのですやろ?」
 有名なブランドのものではなかったのだろう。武が横から訝しげに眺めている。しかし、真駒にとってはそんなことはどうでも良かった。
 万年筆は深い緑色をしていた。窓からの光を受けてきらめくその色は、あの場所、あの時代の空気をその場に蘇らせた。若葉を繁らせた立派な並木が陰を落とす大学の構内。ヤマザクラが咲き誇っていた林の木漏れ日。薄暗い図書館はいつも埃と長い年月の匂いがした。それぞれの夢に目を輝かせていた同級生たち。そして少しはにかんだような内田の笑顔。
 心の中で深呼吸すると、万年筆をそっと胸ポケットに収めた。自分は行ける。もっと先へと進んでいける。たとえ疲れ果てようと心がすり切れかけようと、この「お守り」がある限り、必ず元気を取り戻せる。





 結局、この時に制した第2選挙区を、真駒は終生手放すことはなかった。
 人気の点でこそ、華があって弁舌さわやかな本家の頼安らに最後まで及ばなかったものの、所属する派閥にとどまらず広く人望を集めて党内の役職、のちには大臣を歴任した。そしてとうとう周囲に押される形で党首、そして首相に就任、約6年間、無事にその職をつとめ上げた。独特の気品ある言動と誠実でクリーンな雰囲気、そして真面目でそつのない仕事ぶりは、「面白みがない」という評価こそあったものの、おおむね多くの国民にも海外の首脳にも支持され続けた。
 もちろん、首相に就任する前にも就任後にも、幾度か仕事でイギリスを訪問する機会があった。会う人々には「まるでオックスフォード出のような雰囲気と学識のある人だ」と歓迎されたが、憧れの地への訪問を心から楽しむことはできなかった。何を見ても何を聞いてもこう思わずにいられないのだ。ああ、内田さんにも見せたい。そして話したい。あの人はこれを見たらなんと言うだろう。
 そっと胸ポケットに触れながら思っていた。今度こそなんの肩書きもつかない立場で来よう、あの人と一緒に。

 2期目を終えたところで、真駒はあっさり党首の座を降りた。
 周囲には、「これだけの人気があれば続投できる」とさんざん勧められたが、もうトップとしての自分の仕事は終えたと思った。後はもっと有能な若い人々に活躍してもらえばいいのだ。この時、真駒は60になっていた。
 真駒にとって、もう政治家としてやるべきことはひとつしかなかった。生まれとは無関係に、優秀な後継者を見出し育て上げること。それが最後に残った仕事であり、夢だった。
 妻には「素直にうちの子の誰かに継がせればいいのに」と嫌味を言われたが、真駒に言わせれば、継がせるほどこの仕事に向いていそうな息子はいなかった。むしろ高校生の末息子が語ってくれた「お父さん、いろいろ調べてみたんだけど、社会学ってすごい面白そうなんだ。僕、学者を目指そうかな」という夢の方がずっと好もしかった。
 しかし実際に「政治家希望の若者」を集めてみても、真駒の眼鏡にかなう候補者はなかなか現れなかった。ただ『権力』に憧れるだけの男、ある特定の利益団体の権化、机上の理論にばかり熱心な男─────
 最初から優れた人間は滅多にいない。そう思ってたくさんの希望者を指導してきたが、手応えは乏しかった。いや、必ずいい後継者を育て上げて引き継ぐのだ。
 真駒は65歳で政界を引退するつもりだと宣言していた。頂点まで登りつめ、多くのサラリーマンが定年を迎える年まで頑張れば、もう十分だろう。そしてそこから先はもう、自分の好きなように生きさせてもらおう。遅ればせながら研究の、歴史の世界へ帰るのだ。
 内田とはあれから30年以上も会っていない。割ける時間はほとんどなかったし、結果的に記者たちを引き連れる形で会いに行くのも嫌だった。年賀状のやり取りだけは細々と続いていたものの、実際に会いに行って歓迎される自信はなかった。内田は自分を覚えているだろうか。彼を捨てていった自分を許して、暖かく迎えてくれるだろうか。
 しかし、晴れて引退するためにはその前にどうしても、しかるべき後継者が必要だった。疲れている暇はない。なんとか良い候補を絞り込んで、席を譲る道筋をつけなくては……
 ひとりで休んでいた書斎のソファから立ち上がり、事務所に向かおうとしたところで、真駒は突如、激しい胸の痛みに襲われた。声が出ない。息ができない。その場に崩れて倒れ込んだ。
 そしてそのまま二度と立ち上がることはなかった。








次へ / 前へ /トップページへ

《 禁無断転載 》
Copyright (C) KemuriSuishou 2009











楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル