「あら、今お帰りですか?」
にっこりと極上の笑顔を向けられて田沼の心臓は跳ね上がった。
「…どうぞ」
「ありがとうございます」
校内の古びた自動販売機でジュースを買った田沼は隣を歩く夏目…正確には夏目の体に取り憑ついている妖怪に手渡した。
その妖怪は名を「アサギ」と名乗った。元は琴を奏でる楽士だったのだが、病魔に体を蝕まれ姿を保っている事ができず、今は夏目の体に仮住まいをさせてもらっているのだという。
「夏目さまには本当に感謝しています。またこうして日の光を浴びられるなんて思ってもみませんでした」
まさに鈴を転がすような音色でアサギは楽しそうに笑んでみせる。その表情は本当に嬉しそうで見ているこちらまで笑顔になってしまいそうだ。
「本当は夏目さまが目を覚ますまで大人しくしていればよかったのでしょうが…疲れているご様子だったので」
話によればいつもの寝不足によるものか、屋上で横になった夏目はすっかり熟睡してしまったらしい。今朝方保護者である塔子が夏目の帰宅時間を聞いていたのを思い出し、アサギは疲れているだろう夏目を思い、自分が連れて帰ろうと考えたのだ。
「夏目さまは本当におやさしい。辛いでしょうに、私の心配ばかりしてくださって」
アサギが取り憑くことで、少なからず夏目にも影響が出ているらしい。よく見れば色の白い肌は微かに朱を帯びている。田沼を見上げる瞳もいつもより潤んで見えた。
「君は?」
「え?」
「君だって辛いんじゃないのか?」
きょとんと目を瞬かせるアサギの額に手を押し当てる。やはり少し発熱しているようだ。普段あまり体温を感じさせない体は田沼の手に異常を伝えている。
「…送っていくよ」
校門へと足を向けていたアサギの手をとり、田沼は駐輪場へと回った。愛用の自転車にまたがり、後ろに乗れと指し示せば、アサギは素直に荷台に乗り両腕を田沼の腰に回した。
「…っ!」
「…どうかなさいました?」
その瞬間体を固くした田沼に、アサギは心配そうな顔を向けた。だが、田沼はすぐに「なんでもない」と呟くと自転車を走らせた。
「…っ速い…!」
必死で自転車を漕ぐ田沼の後ろではアサギが楽しそうに声を立てて笑っている。人間の乗り物など乗ったことがないのだろう、通り過ぎる風景にいちいち無邪気な感想を伝えてくる。…だが、ぴったりと寄り添うアサギ…いや、夏目の熱を背中に感じ、田沼は平静を保つのに必死だった。
『…っやばいって…これ』
夏目ほどではないが、田沼だって妖怪を見る力はある。ふとしたはずみにダブる姿はまるで髪の長い女性版夏目だ。しかも回された腕や密着した背中からは柔らかな感触が伝わってくる。いくら元は男の体だと言い聞かせてもひそかに夏目をそういう対象で見てしまっている田沼にとって、この状況はまさに地獄である。
「…あ…」
「…え?」
何とか気づかれないうちにと漕ぎつづけていた田沼は、後ろから聞こえた声につられ頭上を見上げた。青く晴れ渡った空には、真っ白な雲と、朱に塗られた蛇の目傘が浮かんでいた。
「…傘…?」
「アサギー!」
その存在を認めた途端、その傘は明確な意志をもって頭上に降ってきた。
「なんだ! 貴様!」
地上に舞い降りた途端、その影から一人の男が飛び出してきた。包帯で顔を覆った大柄の男だ。ぞわりと背を伝う寒気にそれが力の強い妖怪であることを知る。
「アサギに触れるな! 人間風情が!」
「っと、あぶな…」
繰り出される攻撃を何とかかわし、田沼は自転車を止めた。後ろに抱き着いたままのアサギを支え逃げようとするが、男は動きが早い。
「貴様! アサギをどこに連れていく気だ!」
「っ!」
傘を振り下ろされた瞬間、触れた前髪が数本散った。己に向けられる敵意に田沼の背が緊張に強張った。まるで殺してやると言わんばかりの視線は今までに向けられたこともないほど鋭かった。
「おやめなさい! アカガネ!」
今度こそやられる、と繰り出される拳に目を閉じた田沼の耳に、凜とした声が響き渡った。
「この方は夏目さまの大事な方です。傷付けることはゆるしません」
「…アサギ…」
恐る恐る目を開ければ、いつのまに回ったのだろうか、己よりも小さい夏目の背が視界に入った。その向こうにいる男は、まるで叱られた子供のように情けない顔で立っている。
「お、おまえが悪いのだぞ。急にいなくなるから心配して…」
呆気にとられた田沼の体を突き飛ばした男はアサギの身を案じるように己の腕のなかに囲った。
「おまえ一人の体じゃないんだ。なにかあったらどうする!」
その姿はまるで夏目が自分のモノだと主張しているようだ。こちらを睨みつけてくる男の態度に、普段温厚な田沼とて平然と構えていられるわけがない。
「その手を離せ」
殺されそうになった恐怖などそっちのけで田沼は夏目の体を取り返した。ぎゅっと己の胸に納めれば鋭い視線に射抜かれる。
「貴様…」
「なんだよ。夏目に触れるな」
いくら内にアサギを宿していようとも、体は夏目だ。他の男に触れさせてたまるかと精一杯睨み返してやれば腕の中の存在にくすくすと笑われた。
「申し訳ありません、田沼さま。お返しいたしますわ」
「…え…」
アサギはひとしきり笑うと目を閉じた。途端アサギの体がかくりと傾ぎ田沼は慌ててその体を支え直す。
「…田沼?」
時をおかずしてもぞりと身をよじったのは困惑した様子の夏目だった。起きぬけなのだろう、ぼんやりした頭で何故ここにいるのだろうかと考えているにちがいない。
「あれ? 俺…確か屋上で寝てたはず…」
アサギが主導権を握っていたときの事は記憶にないのだろう。自分がいつのまにか帰途についている事に目を丸くし、すぐに手元の時計に目をやった。
「まずい、早く帰らないと…」
アサギが言っていた用事というやつか。慌てて走り出そうとする夏目の手をとり自転車を示す。訳が解らないなりにも礼を言って荷台に腰掛けた夏目を連れて田沼は自転車を漕ぎ出した。
「…手…」
「え?」
「手、回せ。危ないから」
睨みつづける男の視線がようやく無くなった所で田沼は夏目に目を向けた。その両手の先にあるのは荷台にある出っ張りだ。普段野郎同士で相乗りする場合、腰に手を回す奴はそう多くない。例に漏れず夏目も立ち乗りが多く自分から手を延ばすことは無かった。
「具合、良くないんだろ? 良いから寄り掛かれ」
片手で夏目の手をとると己の腰に回させる。微かに逡巡した夏目だがやがて恐る恐る両手を伸ばし田沼の背に寄り掛かった。
「あ…そうだ。田沼は? 具合悪くないか?」
自分が今アサギを宿していることを思い出したのだろう。心配そうに問いかける夏目に平気だと笑ってみせる。事実これだけ側にいても頭痛を感じる事は無かった。…包帯男が側にいた時は、夏目を取り返すので必死でそこまで頭が回らなかったし。
『…強く…なっているのだろうか?』
最近の己を思い返し田沼は考える。以前は妖怪を否定することで無理が生じ体に異変を起こしていたのではないだろうか。夏目に出会い、その異形の存在を認めはじめてからは体調を崩すことが減ったように感じられる。
「なぁ、夏目」
「ん?」
風に乗り声が聞こえないと聞き返す夏目に、田沼は構わず言葉を続けた。
「強くなるよ。だから…」
「なに? 聞こえない」
身を乗り出した夏目の耳には聞こえないように、そっと田沼は誓いの言葉をつぶやいた。
いつか、必ず夏目を守れるような男になってみせる。
だから、この手を離さないで…と。
アサギシリーズ第二段。自転車相乗りは高校生必須アイテムで。
書き終わってからコミックスを読み返しました。
夏目さん、普通に北本くんの腰に手を回していました。
田沼さん相手には照れているということで!(無理やり)