『貴志くん。今日は寄り道しないで帰ってきてね』
朝、出がけに塔子さんがにこやかな笑顔でそう言った。
「…め…夏目!」
「っん…」
暖かな昼下がり。睡魔の誘いに引き込まれていた夏目は肩を揺すられる感触に重たいまぶたを引き上げた。
「…なに? 西村」
「何じゃないよ。お前、一体どんだけ寝るわけ?」
机の前にいるのは呆れ顔の友人たち。見れば辺りは雑然としていてすでにホームルームが終わったことを告げていた。
「担任渋ーい顔で帰っていったぜ? ったく、チョーク投げられたのに全く気づきもしないんだから」
そういって髪を叩かれれば、微かに舞う白い粉。担任である初老の教師は重い課題をだすことで有名だ。この程度で黙殺されるのはひとえに夏目の成績が常に上位にあるからに他ならない。
「ホントよく寝るよな。夜、眠れてないんじゃないのか?」
寝癖のついた髪をつまんだ北本は心配気な顔でそう尋ねる。あまりに昼間寝てばかりなので、その手の疑問はよく投げ掛けられるのだ。だが、本当のことを言えない夏目は言葉を濁すしかない。
「遠縁の家だからってへんな遠慮してんじゃねぇの? お前、妙な所で気ぃつかうから」
「そんな事ないよ。塔…藤原さんたちは親切にしてくれるよ」
夜眠れないのはそんなことが理由なのではない。友人帳を巡り名の返還を求めるモノや悪意あるモノたちが事あるごとに来襲するからだ。名の返還自体は数分で終わるものの、それはやけに体力を消耗する。元々体力がないのは自他共に認めている所だが、さすがに連続連夜来られてはこちらの身がもたなくなってしまうだろう。
『いっそ返還日でも設けるか。休日の前とかにさ』
そんな馬鹿な事を考えつつ、大きなあくびをひとつすれば、「ばっか。美形が台なしだろ」なんてからかわれた。自分が美形の部類に入るだなんてここに来るまで言われた事もなかった。どうせ生っちょろい自分が不憫に見えるからそうやって少しでも良い所を褒めてくれるのだろう。…自分では祖母、レイコにそっくりなこの顔はあまり好きではないのだが。
「そういえばさ、今日駅前の広場でイベントがあるんだって。帰り寄ってみねぇ?」
帰り支度を済ませると西村が一枚のチラシをさし出してきた。都会ではよく見かけるストリートミュージシャンたちのイベントだ。こんな田舎ではめったにお目にかかる機会はないが、今朝塔子に言われた言葉を思い出し、夏目はゴメン、と手を振った。
「今日は早く帰らないと。俺は良いから二人で行ってこいよ」
皆と行きたい気持ちはあるが今日の塔子はやけにご機嫌だった。念を押すように言われた寄り道厳禁の言葉には素直に従わねばならないだろう。
気立ての良い塔子の名をだせば、二人も納得してじゃあな、と手を振った。住人のほとんどが顔見知りというのは小さな町の良い所だ。校門の前で別れた夏目は一人帰路を急いだ。
「…あれ、ニャンコ先生」
いつもの通学路を歩いていれば、茂みの中から怪しい顔のニャンコ先生が姿を現した。何故か口には可憐な草花をくわえている。
「ぷ…なんだよそれ」
不気味にゃんこと可愛い花の組み合わせが可笑しくて夏目はつい吹き出した。似合わない。あまりにも似合わなすぎる。
「馬鹿もん! 笑うでないわ!」
本人もそれを自覚しているのだろうか。随分と量のあるそれらを夏目に突き出すと「お前が持て」と言わんばかりに先を歩きはじめた。捨てるなよ、と目だけで脅しをかけた先生は短い足でずんずんと先を行く。
「おい、まてよ先生」
「――夏目?」
と、そこに聞き慣れた声が掛かった。振り向けば自転車に跨がった田沼が驚いたように夏目と花束を見比べている。
「どうしたんだ? それ」
田沼の疑問も最もだろう。夏目は先生に無理矢理持たされた経緯を話した。
「で? 田沼はどうしてここに?」
田沼の服装は学生服のままだ。八ツ原に住む彼の家は学校の反対側にあるのだから、どう考えても帰宅途中ではないだろう。
「どこか行くのか?」
「いや、夏目に用があって」
そういうと田沼は学生かばんの中から一冊の本を取り出した。ハードカバー仕様のそれは以前夏目が見たいと言っていた代物だ。
ほらと手渡された本は保存が良かったのだろう、古いものであるにも関わらず折り目ひとつ見当たらない綺麗なものだった。
「檀家さんに詳しい人がいたんで聞いてみたんだ。そしたら蔵書の中から譲ってくれるっていうんでもらってきた。夏目にやるよ」
「え…本当?」
目を上げた夏目に田沼は「ああ」と頷いた。
「俺が持ってても仕方ないし。本当は学校で渡すつもりだったんだけど」
「それでわざわざ追い掛けてきてくれたのか。悪かったな」
そういえば田沼のクラスはHRが長引いているようだった。廊下を通り過ぎて行った自分を慌てて追い掛けて来てくれたのだろう。
「ありがとう。もう半分諦めていたやつだったからうれしいよ」
少し埃臭い本を抱きしめ夏目はにこりと笑った。以前から興味はあったのだが、何分古いものですでに絶版状態だったのだ。まさか手に入るとは思ってもみなかった。
「帰ったらさっそく読ませてもらうよ」
そういって鞄に本を仕舞っていると、側を通り過ぎる女子学生にクスリと笑われた。そういえば先生が持ってきた花を持たされっぱなしだ。不気味にゃんこが花をくわえているのも笑えるが、男子学生がこんな花束を持っていればさらに好奇の目にさらされて当然だろう。今更ながらに恥ずかしさが込み上げて夏目は頬を赤らめた。
「…乗るか?」
「え?」
「送ってくよ。その方が早い」
そう言うと田沼は自転車に跨がった。乗れと指し示されたのは後ろの荷台。まだ家まではかなりあるのだ。このまま好奇の目に晒されることを考えれば田沼の提案はとても有り難い。
…だが、良いのだろうか? 田沼の家はまったくの逆方向だ。わざわざ本を持ってきてくれただけでも悪いと思っているのに、そのうえ家にまで送ってもらうなんて図々しいにも程があるだろう。
「良いから。夏目が乗ってくれないと俺も恥ずかしい」
どうすればいいのかと迷っていれば、強引に手を引かれた。肩越しに見れば先程の女生徒がこちらを振り向きまだ笑っている。たしかにこのままでは田沼も妙な噂を立てられてしまうだろう。
「じゃ、じゃあ…お言葉に甘えて」
緊張しながら荷台に腰を下ろせば、捕まってろよと一言言われた。恐る恐る差し出した片手を捕まれて腰に回される。ぐんと勢いのある一漕ぎは二人乗りとはとても思えないくらいスピードが乗っていた。
歩けば十数分の距離も自転車ならばあっという間だ。見慣れた家がすぐ側まで来ると手入れのよく施された自転車は軽いブレーキ音を響かせて柔らかく停車した。
「――ありがとう、田沼」
音も無く地面に降り立った夏目は、じゃあ、と言って方向転換した田沼の腕を思わず引き止めていた。
「――夏目?」
不思議そうに振り返る漆黒の目に、夏目は思わず口ごもる。今まで「友人」をここまで連れて来たことはなかった。――ここは「ありがとう」、「また明日」…言葉はこれで良いのだろうか?。…それとも「お茶でもどうだ?」ろうか…。悩む夏目は無言で田沼を見つめることしかできない。
「…あの…」
「あらー。おかえり、貴志くん」
やっと一言を紡ぎだそうとした所に、明るい声が響きわたる。見れば玄関前に塔子が顔を覗かせている。その奥にはいつも遅いはずの滋の姿。その腕の中にはすでにニャンコ先生が収まっていた。
「あらあら、貴志くんのお友達?」
サンダルをつっかけて出てきた塔子は田沼の姿を認めてうれしそうな声を上げた。
「ちょうど良かったわ。いっぱい夕飯を作りすぎてとても私たちだけでは食べ切れない所だったの。ぜひ寄っていってちょうだいな」
「え…?」
挨拶もそこそこに家の中へと引き入れられた田沼は戸惑ったように夏目を見る。だが、台所へと案内された二人は用意されていた食卓を見て目を丸くした。
「うわぁ…」
いつもの机いっぱいに並べられているのは色とり取りのごちそうだった。元々和洋関係なく料理のうまい塔子だったが、今日並んでいるのはどれも手の込んだものばかり。おそらく朝から仕上げなければ間に合わなかったものもあるはずだ。
「塔子さん? 一体…今日はなにが?」
ここまできたら何かあるとしか思えない。二人の結婚記念日とかだったらどうしよう、何も用意していないなと考えた夏目の前には目を丸くする塔子の姿。横にいた滋はおやおや、というように微苦笑を浮かべている。
「まいったね。まだ気づいてないみたいだ」
「やだもう、貴志くんったら」
笑いを堪えきれない滋とは反対に塔子は何故わからないのかとご立腹だ。宥めようにもそこまで言われても夏目に思い当たる節がない。助けを求めるように滋を見れば、「今日は何日だい?」と問いただされる。
「何日って…あ…」
つられるようにカレンダーを見れば、大きく花丸に囲まれた日付。その下に書かれた文字は『貴志くんbirthday』…だ。
「…そうか…今日は」
ここまできてようやく思い出した。たしかに今日は自分の誕生日だ。…教えられるまでまったくその事に気づかなかった。
「さぁさ、早く席についてちょうだい」
このままではいつまでたっても食べられないと思ったのか、塔子はにこやかにそう言って二人の背を押した。席につくと、温かな湯気を立てる茶碗を手渡された。田沼と共に四人ではとても食べ切れない量の食事に舌鼓を打つ。少しだけだぞと勧められたビールを一口呑んですっかり気分が良くなった夏目は、最後には布団に行き着く前に沈没した。
「 あらあら、眠っちゃったの? 貴志くんったら」
畳に寝かされた夏目は、ふわふわとした意識の中で塔子の声を聞いた。
「今日はもう遅いわ。田沼くんも客間にお布団敷いたから泊まっていってね」
「――すみません、ありがとうございます」
枕元で聞こえるのは少し畏まった様子の田沼の声。ああ、この心地良い膝は田沼のかと理解するが一度沈みかけた意識はなかなか浮上することができなかった。
「ねぇ、田沼くん。――貴志くんをよろしくね?」
「え?」
細い小さな手に髪を梳かれたと思ったら、そんな言葉が耳に入ってきた。
「こんなに安心しきった貴志くんをみるのは初めてなの。いつも、貴志くんは私たちに迷惑をかけないようにって我慢ばかりして」
塔子の言葉にそれは違うと反論したかった。我慢なんかしていない。藤原家に引き取られて、ここに来られてこんなにも幸せなのに…
「それは違うと思いますよ」
言いたかった言葉が、すぐ側で返される。
「夏目は我慢しているんじゃないと思います。藤原さんたちが大事だから…ずっとここにいたいから『いい子』でいようとするんじゃないですか?」
髪を梳く手は田沼のものだ。目を閉じているせいか聞こえてくる声はいつもより低く感じた。
「俺も片親がいないんです。だから甘えるっていう感覚があまりよく解らなくて」
前に少しだけ聞いたことがある。もの心つくまえに田沼の母親も亡くなったのだと。何度か再婚の声も上がったらしいが、田沼の父は頑なに首を横にふりつづけているらしい。…亡くなった妻を想い、残された子供の微妙な心を察してのことだ。
「父の仕事柄住む所も点々として。友達を作ってもすぐに別れなくちゃならないと悟ってからは極力他人と親しくならないようにしていました。…夏目に会うまでは」
低く、心地良い声で名を呼ばれた瞬間、かすかに肩が揺れてしまった。…気づいただろうか、田沼は…
「大丈夫ですよ。今、夏目は幸せだと思います」
それに答えたように握られていた手に力が込められた。
「――これでいいんだろ? 夏目」
襖が閉まり、辺りは静かになった。覗き込むようにそう告げた田沼に、夏目はきまずそうに目を開けた。
「いい人たちだな。夏目の事を本当に大事に思ってる」
「ああ…」
親戚中をたらいまわしにされてきた薄気味悪い子供を引き取ってくれた心優しい夫婦。何故自分はあの人達を父母と呼べないのだろうか。ここに生まれきていれば、きっと今までの人生は変わっていただろう。
…だが、同時に思うこともある。自分が「見る」者だということを知られた時、二人の反応はどうなるのだろうか。変わらず温かく見守ってくれるのだろうか。
「…夏目」
一人悩む夏目の耳に、微かな吐息のような声が聞こえてくる。顔をあげれば田沼の精悍な顔がすぐそばまでやってきていた。
「…た…」
少し強引な、でも温かなキス。宥めるように啄まれて夏目は顔を真っ赤にさせた。
「また悪い方に考えてる。夏目の悪い癖だ」
「田沼…」
赤いぞとからかわれ夏目は慌ててそっぽを向く。二人きりが急に恥ずかしくなって身をよじるが、田沼の腕からは逃れることができなかった。
「言ってるだろう? 俺は夏目が好きだって」
耳元にそっと囁かれるつぶやき。それは塔子や滋を考慮しての事だろう。…だが、一度上がってしまった動悸は密着した体から否応なしに相手に伝わってしまう。
「一人で悩むなよ。辛かったら俺に相談してくれ」
役立たずなのは分かってるけど…と苦笑いを浮かべる田沼に夏目は慌てて首を振った。
「―――馬鹿だな。何言ってるんだよ。」
何を言っているのだろうか。役にたたないなど、そんなわけないだろうに。
一人で平気だと強がっていた自分を支えてくれたのは田沼なのだ。この手を知ってしまったらもう一人には戻れない。
「俺も田沼が好きだよ。こんな思い、生まれて初めてだからどう言ったらいいのか分からないけど…」
目を瞬かせる田沼の唇にそっと己のそれを重ね合わせた。技巧もへったくれもない拙いキス。でも自分の思いだけは伝えたくて。
「ありがとう、田沼。俺…嬉しいよ」
「夏目…」
甘えるように田沼の肩口に頬を寄せる。笑うことも、寄り添うことも此処にきてから教えてもらった。こんな幸せがあるなんて去年までの自分は知らなかった。
ずっと、ずっと一人で迎えてきた誕生日。
だけど、これからはもう笑顔で迎えることができるだろう。
田沼という最上の理解者を得たのだから。
夏目さん誕生日ネタで。
田沼さんの家庭事情は完全なオリジナルです。
書き直す前はにゃんこ先生が二人の間に割り込み夏目のちゅうを奪ってました。