「こんにちは、田沼さま」
そういって夏目は青色の綺麗な髪を風になびかせながらにっこりと微笑んだ。
――夏目が、『アサギ』という妖怪を身にやどしてから数日が経った。
普段は夏目の奥に隠れるようにしている彼女だが、夏目の意識がない時などはこうしてふらりと表に出てくる事がある。
今日も朝から夏目の代わりに授業を受けてきたのだろう。にこにこと笑顔全開でクラスメイトと話す夏目――いや、アサギを見つけ、田沼は慌てて彼女を人気のない屋上へと連れ出したのだ。
「今日は『武家階級』というのを習いました。とてもおもしろかったです」
「…そう、よかったな」
あいづちをうちながら田沼は内心でため息をつく。妖怪が人間の歴史や言語を覚えてどうしようというのだろうか…万年睡眠不足の夏目に代わり、ここ最近は主にアサギが熱心に授業を受けているらしい。――居眠りが減った、と喜ぶ教師の声を聞くが、実はその裏で別の問題が起こっている事を田沼は知っている。
『今日の被害者は林先生か』
脳裏に浮かんだ年若い教師を思い出し、田沼は十字を切った。
遠い眼差しでため息をつく田沼の前では、訳がわからないとばかりに小首を傾げるアサギがいる。その浮かべられた表情は無邪気としか言いようが無く、見ている者を魅了する。
『この笑顔を直撃だもんな。そりゃフラフラくるだろう』
確かに元から整った作りをした容貌は男女問わず人気があった。文化祭では客寄せパンダとして受付に立たされたし、他校の女子に待ち伏せされたりということも日常茶飯事だ。だが、その表情はどことなく嘘臭く、現実味がないと囁かれていた。人気はあるが特定の人は作らない…高値の花とされていたはずなのに…
目の前に立つ夏目(正確にはアサギだが)は、本当によく笑う。楽を嗜む者らしく、仕種は優雅だし、振り撒く色気は男女を問わず脳天を直撃させる。夏目にはその気がないのは百も承知だが、花が綻ぶような笑顔を見せられて、その形よい唇から己の名を呼ばれたりなんかしたら…そりゃ生徒といわず教師だって血迷う者も出てくるだろう。事実その笑顔にやられ危うく親友の立場を失うところだった少年達を田沼は二人ばかり知っている。
「…田沼さま?」
「…あ、いや。…なんでもないよ」
物思いに耽り過ぎたのだろう、はっと我に返れば心配気に覗き込む夏目と目があった。本来は色素の薄い茶色の瞳だが、今はアサギを宿しているせいかその色は青い。空の色とも、瑠璃の色とも違う蒼はどこまでも澄んでいて綺麗だった。
「…そういえば…今日は具合はいいのか?」
思わずその瞳に見入られそうになった田沼は慌てて視線をそらした。いつもはあまり血の気のない頬をしているアサギだが、今日はどことなく血色が良いように見える。
「熱も…ないみたいだな」
「ええ。今日はとても気分が良いんです」
額に手を当ててみればにっこりと笑顔で返された。
「夏目さまのお体を借りているせいでしょうか。こんなにも気分が良いのは久しぶりです。思い切り走って、見たい物をみて…本当に幸せです」
空を見上げてそう答えたアサギは、やがて申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ありません、田沼さま」
「え?」
「私がいるせいで…されていないんじゃないですか?」
夏目さまとデート…そう呟かれて田沼は赤面する。…そういえばアサギには夏目への想いを知られているのだ。意識は違えど同じ体を共有する身、夏目の顔でそんなことを言われればさすがの田沼も言葉を詰まらせる他ない。
「本当は昨日もお約束があったのでしょう? 申し訳ありません、私のせいで」
「いや…気にしなくて良いよ」
都心で行われている展覧会に夏目を誘ったのはずいぶん前の事だ。以前から興味があったらしい夏目は楽しみにしていたのだが…さすがにこの状況では暢気に出かけることはできないだろう。申し訳なさそうにあやまりに来た夏目を励ましたのは一昨日の事だ。
「…そうだ、田沼さま。これからお時間はありますか?」
「え?」
なにかを思い付いたのか、瞳を伏せていたアサギが宙に向かって声をあげる。
「アカガネ、いますか?」
そう一言告げると、すぐに赤い蛇の目傘が落下してくる。それは地面につく前に男の姿を吐き出した。
「何だアサギ。またこの男なぞに関わっているのか」
憎々し気にそう言った男はぎょろりとした目で田沼を睨みつけた。アサギの供をしているというこの男とは初対面で言い争った経験がある。アサギ大事なのは十分理解できるが、同化した夏目にまでも馴れ馴れしくて田沼は好きになれなかった。…それは多分この男も同じだろうが。
「あの高台へ連れていってくださいな。田沼さまも一緒に」
「ああ? なんでこいつを…」
睨み合いを続ける二人の間に割り込んだアサギはねだるように男の腕をとった。そんな簡単な接触でもピクリと眉が寄ってしまうのは仕方がないだろう。田沼だって独占欲くらいはあるのだ。その手を奪い返そうと引き寄せれば、途端に男の眉がしかめられた。
「…アサギを離さんか。人間風情が」
「夏目、だ。そっちこそ手を離せ」
互いにアサギ(夏目)を挟んだまま睨みあう二人にアサギはクスクスと笑みを浮かべる。顔を会わせればいつも同じような争いをする二人をみて仕方のない人たちだと呆れているのだろうか。まるで年上のお姉さんに子供扱いされたような気恥ずかしさが込み上げて言葉を詰まらせる。
「アカガネ。お願い」
「…わかった。おい、掴まれ」
それはこの男もそうなのだろうか…。アサギに請われ舌打ちした男は乱暴に田沼の襟首を掴むと傘に歩み寄った。
「っ!?」
ぐにゃりと視界が歪む不快さに田沼は目を閉じた。一瞬の浮遊感の後、足に感じていたコンクリートの感触が柔らかな地面へと変わる。恐る恐る目を開けた田沼は、己のいる場所がいつの間にか変化していたことに驚いた。
「ここは…」
目の前に広がるのはのどかな田園風景。草木が優しく風に舞うその高台は温かく心地良い場所だった。
「気持ち良い場所でしょう? お天気も晴れてよかった」
にこりと笑ったアサギはそう言って田沼に寄り添った。視界の隅で苦虫をかみつぶす男の姿が写るがそこは見えないふりをした。そういえばこうして夏目と学校以外で会うのは久しぶりだ。
「ここは私たちの住んでいた磯月の森に繋がった場所。…聞こえますか?楽の音が」
「…あ…」
耳を澄ましてみれば、鳥のさえずりに重なるように涼やかな音色が耳朶を擽った。
「…微かだけど…ああ、聞こえるよ」
それは聞いたこともないような美しい調べだった。琴や三弦の音に似たそれは恐らく夏目ならもっと鮮明に聞き取れるのだろう。だが、ほんの微かでもその音は極上と言われる物であることは理解できた。
「うん…綺麗な音色だ」
目を閉じれば、脳裏に雅やかな楽士の姿が浮かび上がる。見たことのない衣装を纏い、優雅に楽を奏でる姿は多分幻ではない。この世界に少しだけ寄り添った、別の世界で現実に行われている風景なのだろう。淡い華が咲き乱れた美しい森のなか。一人の男を取り囲み楽を奏でる者たちの中に、長い蒼の髪を風に揺らせた美しい女性の姿があった。
「君も…弾きたいんだろう?」
己の肩に頭をもたせかけたアサギに、田沼は遠慮がちに問うた。
蒼琴ひきだったというアサギは病に侵され森を追われたのだという。大好きな楽が急に奏でられなくなり、とても辛い思いをしたはずだ。
「怖くないのか? …全てを怨もうとか、何故自分がとか…そう考えたことはないのか?」
徐々に進行する奇病など、自分などとても堪えられそうにない。いつ息絶えるのかと日々怯えながら生きて行くなんて…考えただけでも気が遠くなってしまう。
…なのに…
「怖くはありませんわ。私にはアカガネや、夏目様が側にいてくださいますから」
そういって、この目の前の麗人は微笑んだのだ。それはもう、見る者全てを魅了させる、美しい双眸を煌めかせて。
「確かに、琴をこの手に抱くことが出来なくなった時は怨みもしました。壬生様…私のお慕い申し上げた方の前で醜い姿を曝してしまった時は消えて無くなってしまいたいとも思いました。…でも…」
そっと横をうかがったアサギの先には、言葉もなく佇む男の姿がある。
「泣いて、泣いて…顔を上げた時。私は一人きりではなかったのです。どんなに姿が変わっても、変わらず私を『アサギ』と呼んでくれる友人が側にいるのだと気づきました」
それは間違いなくアカガネと呼ばれるこの男だろう。眉を寄せなにかに耐えるように口を引き結んだ男は、何も言わず少し離れた場所で傘を差し向けていた。
「今回のことも、強引ではありますが私を思ってくれての事。夏目さまにはご迷惑をおかけしてしまいましたが、もう一度弾けるなら…」
そういって掲げられた手を田沼はそっと握った。白い、繊細な手。本来のアサギの指は恐らくもっと女性らしいものだったろうが…それでも今はこの手がアサギの夢を叶えてくれるのだ。
「琴が完成したら…田沼さまも聞いてくださいますか?」
「…ああ。必ず」
しっかりと頷いて見せれば、ふわりと暖かな笑みを返された。取られた手をそのままに、アサギは田沼の肩に身を寄せた。一瞬かかる重みにアサギが夏目に意識を返した事を知る。
「…あれ? 田沼?」
やがて聞こえたのは少し寝ぼけたような掠れ声。うっすらと開かれた茶色の瞳を瞬かせながら夏目は辺りを見回した。
「…俺…確か学校にいたはずだけど…」
「ああ、いたよ。さっきまでな」
田沼の腕に抱かれたまま夏目は訳が分からず首を傾げている。どうやって移動したのか…それを説明しろと言われても困る。田沼だってどう移動したのか分からないのだから。
「それは後であの傘の人に聞いてくれ。…それよりも」
せっかくだ、とつぶやいて田沼は夏目を押し倒した。柔らかな青草がベッドがわりになり、昼寝には最高のロケーションだ。しかもBGMには美しい楽の音が聞こえてくる。お天気も良いし、目を閉じればすぐに睡魔は二人を眠りへと引き込んでくれる。
「友人…か」
「え?」
とろんとした眼差しを向けた夏目は殆ど意識はなさそうだ。田沼の腕の中でもぞもぞと収まりの良い場所を探すとそのまま吸い込まれるように眠りについてしまった。…きっと目を覚ました時はパニックになるだろうな、と思いつつも田沼もあくびをひとつ噛み殺した。
『いいのだろうか。アカガネは…『友人』のままで』
アサギの口から紡がれた二人の関係…友人と言い切った時のアサギの目はどこか辛そうだった。
『…嫌われるのが怖い? 拒まれるくらいなら…一生友人のままで側にいることを選んだのだろうか』
あの無骨な男ならばありえるだろう。確か彼は傘もちと言っていた。身分違いの恋だと己を律し、アサギを護る事でその思いを秘め続けようというのだろう。
…だとしたら馬鹿だ。アカガネは大事な事に気づいていない。
『アサギのあの表情…思いは多分同じなのに』
護り守られる二人の思いは、恐らく双方とも同じ。互いに恋情であると自覚しつつもあと一歩が踏み出せないでいるのだ。
いつかあの二人も手を取り合える時が来ればいい。主従ではなく…掛け替えのない相手として。
…そう。そして自分達も。
『好きだよ、夏目』
アサギの琴が完成したら、夏目に思いを伝えよう。彼の事だ。びっくりするかもしれないが、多分嫌悪はされないはずだ。同じ物を見、感じる事のできる自分たちは互いに足りない物を埋められるはずだから。
「おやすみ、夏目」
柔らかな薄茶の髪にキスを落し、田沼は目を閉じた。
完全に意識が途絶える瞬間、どこかで鈴を転がすような笑い声を聞いたような気がした。
アサギシリーズ第三弾。出来上がってるようで出来上がってない2カップルです。
アサギの琴は原作もアニメも大好きです。意外と尻に敷かれてるっぽいアカガネさん素敵。
アカガネ×アサギのお話ももっと書いて見たいです。