『高柳最強伝説』01▼ |
まだ夜も明けきらぬ冬の朝、高柳鶴は厠で用を足していた。 今どき珍しい汲み取り式の和式便器にまたがり、寝巻きの裾を広げて腰を下ろすとほど なくして露出した股間から尿が迸る。 「ほぅ……」 高柳の年寄りじみた吐息は冷たい外気に触れて白く濁り、底の見えない便器の穴に放た れる尿もまた真っ白な湯気を立ち昇らせる。 排尿の勢いは緩やかで線も細かったが一向に留まる気配はない。 それからたっぷりと時間をかけて小便を出し終えて、高柳が濡れた股間を拭き取ろうと 落とし紙(トイレットペーパー)に手を伸ばそうとした。その時、 「スキありーっ!」 高らかな声と共に空手着を身にまとった少女が飛び蹴りで厠の扉をぶち破り、そのまま の勢いで高柳に襲いかかってきた。 しかし、突然の乱入にも高柳が動じることなく片手を上げて足刀を受け止めると、次の 瞬間には空手着の少女は入ってきた時と同じ勢いで厠から飛び出ていった。 高柳が柔を用いて飛び蹴りの突進力をそっくり相手に返して投げ飛ばしたのだ。 「うわぁああああああああああ!」 少女の叫び声があっという間に遠ざかり、高柳は庭の池に何かが派手な音を立てて飛び 込んだのを聞いた。 冬の池水はさぞかし冷たいことだろう。 「まだまだじゃのう、風切さんや。ほっほっほ」 朗らかな笑い声が深々と降り積もる白雪に溶けていった。 「やられたっス! また師範に勝てなかったっス!」 音が聞こえそうなほどの歯軋りを残して風切が檜風呂の湯船に頭から沈んでいった。そ の様子を同じ湯に浸かった高柳は微笑を浮かべて見ていた。 日課の朝風呂に庭の池水で濡れ鼠になった風切も付き合わせると、すぐに彼女は悔しさ をにじませて自分の未熟さを嘆き始めてしまった。 しかしそれもすぐに収まることだろう。高柳はこの空手少女の気持ちの切り替えが早い ことをよく知っている。 だから高柳は慰めるわけでもなく、水面から顔を出した風切に日頃から思っていたこと を口にした。 「風切さんや、不意をつくのは大いに結構じゃがそれを大声で口にしては意味がないのう」 「不意打ちなんて卑怯っス。師範とは正々堂々と勝負して勝ちたいっスよ」 言っていることとやっていることは矛盾しているが、風切は何も考えていないのだろう。 高柳としては寝込みや食事中など、いついかなる時でも襲われたところで一向に構わな かったから、不意打ちされても決して卑怯だとは思わない。 むしろ風切こそ世界最強を目指すのならば、武道家としてもっと嫌らしさを持つべきだ った。 風切の拳は威力は凄まじいが、いつでも真っ正直に放たれるせいで読みやすいからだ。 (とはいえ、正道を貫いて最強の座に至ろうとするのもまた武道というものかもしれぬ) 学友として、師として、好敵手として風切を見守り続けているだけに、高柳にとって彼 女の成長は楽しみのひとつだった。 そして至る道は違えど最強を目指す者同士としても、いつか真に決着をつける日が来る ことを思うと胸が躍ってやまない。 普段は風にまかせて揺れる柳のように穏やかな心も、時おり吹き荒れる嵐に激しく揺さ ぶられるのだった。 「本当に楽しみじゃのう」 高柳はいつも細めている相貌を鋭く光らせると、常になく不敵な笑いを浮かべた。 と、そこで水面から顔半分を出してこちらを見つめている風切に気がついた。何故かそ の顔は赤らんでいる。 「風切さんや、どうかしたかえ?」 「な、何でもないっス!」 声をかけると慌てて風切がそっぽを向いた。が、すぐにちらちらと窺うようにして、こ ちらに振り向いては顔を背ける仕草を何度も繰り返す。 高柳は不思議に思って風切の視線を辿ると、行き着く先に自分の乳房があることに気が ついた。 手の平から少し余る程度の大きさだが、御椀型の綺麗な曲線美を描くその乳房は、以前 クラスメートたちに見られた時、敗北感でうちのめされる者が続出するほどの代物だった。 (八重田さんは『美乳』じゃと言っておったが、よくわからんのう) 高柳は別段自分の体型を気にもとめていないが、日頃から鍛錬に怠らないおかげで自然 と理想的な輪郭を全身で作り上げていた。 そんな高柳の老成した心とは正反対の瑞々しい肉体が気になるのか、風切は飽きもせず 盗み見を続けている。 高柳はその態度に思い当たることがあって口を開いた。 「ほっほっほ、風切さんも色を知る年頃かのう」 「そ、そんなじゃないっスよ! 絶対!」 図星だったのか、赤い顔をさらに真っ赤にして風切は頭を振った。 高柳がいつもまとめている黒髪を解いて水面に垂らし、湯に当てられた白皙の肌をほん のりと赤く染めている様子は楚々として美しかった。 しかも自分の貧相な身体と比べて高柳が羨ましいほどに女性的な体型をしていたから、 風切は思わず見惚れてよからぬ劣情すら抱いてしまっていた。 高柳はそういった風切の多感な心情を察すると遠い昔の自分を重ね合わせて懐かしんだ。 「隠さずともよいのじゃよ風切さん。あたしにも色事に夢中になっていた時期があったし のう」 「そうなんスか? 何だか想像がつかないっスよ」 意外そうな顔を浮かべる風切だったが高柳とて人の子には変わりなく、生まれた時から 年老いた言動をしていたわけではない。 ただ心の成長が早く、15歳にして精神年齢の方が先に81歳まで進んでしまっただけだ。 だから当然、高柳の精神年齢が15歳だった時もあり、それは実際の年齢としては7、8歳 の時のことだった。 「その頃のあたしは相当やんちゃな童(わらし)でのう。今思えば浅ましいことじゃが、 己が力に溺れて誰かれ構わず勝負をふっかけては武を誇っておったわ。何より、強くなる ために朝も昼も夜もなく女子(おなご)を喰らっておったのじゃよ」 「〜〜〜〜〜〜っ!?」 言葉もなく驚く風切を見て、無理もなかろうと高柳は思った。 飽きることなく女を貪ることで自分を高みに上げようなどと、性に芽生えたばかりであ ろう少女に理解できるかどうか。 ましてや年端も行かない子供が異常なまでに性欲を発揮して、どう女性を喰い物にして きたか思い浮かべるのも難しいはずだ。 しかし、高柳を見つめる風切の瞳は興味津々といった様子で、もっと話を聞きたそうに していた。 「ほっほっほ、風切さんや。こんなお婆(ばば)のつまらん昔話を聞いてみたいのかえ?」 「押っ忍! 聞かせて欲しいっス!」 水面に突っ込むほどの勢いで頭を下げる風切を微笑ましく見やりながら、高柳はそれな らばと姿勢を改めて、とつとつと語り始めた。 「それは、むかしむかしのことじゃった……」 (つづく)
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