呪わしきハムレット5




「いててて……」 
パイプ椅子から立った瞬間、突如走る鋭い痛みに俺は眉をひそめた。
「何だよ、腰痛?」
 訝しげに尋ねてくる倬弥に、俺は頷く。
「ああ……重い荷物もったからな」
「気をつけろよ。若いからといってぎっくりにならないとは限らないからな。俺なんか中学の時、運動
会の途中でなったことあったぜ」
「……ああ……そうなんだ」
 本当は重いものじゃなくて、本来なら刺すトコじゃない場所に、釘を刺されたというか……釘以上の
もん刺されたというか。
 くそっ、湊の奴。稽古があるんだから少しは加減してくれればいいのに。
 ぶっちゃけ五回は限度超えているだろ?
 最後の方なんか、俺記憶ないし。
「じゃ、紹介するぞ。この一週間は、この男がお前等の演技指導だ。こいつを俺だと思って従順に従
えよ?」
「相模ひろしです、よろしく」
 めちゃくちゃ爽やかな笑顔で挨拶をする湊。
 今日はTシャツにジーンズという、かなりラフな格好。
 舞台の稽古の時はそういう格好なんだよな、この人。
 ……にしても。
 昨日、あんだけやっといて何事もなかったかのような涼しい顔。
 一瞬、あいつの脚に回し蹴りを入れたくなる衝動に駆られたが、そこは表に出さず大人しく今さんの
話を聞く姿勢を保つ。
「へぇ、テレビで見るより格好いいじゃん」
 言いながらも目は完全にライバル視の倬弥。
「あれが相模ひろしか───
 いつになく鋭い晴沢の目。
「何、ずいぶんとシリアスな目だな」
 俺が尋ねると、晴沢は複雑な笑みを浮かべる。
「ああ……正直、怪物がやってきた心地だ」
「怪物?」
「いくら、あの織辺拓彦の弟子だからといって、たかだか二十代半ばの若手が、あの永原さんと同じ
舞台に立って対等に演じている。しかも、今度はあの今さんが、自分の劇団の演技指導を任せてい
る。とてもじゃないが、俺があと5、6年でそんな立ち位置に立てるとは思えない」
「……」
 ああ、そっか。
 やっぱこいつも同じようなこと思ってんだな。
 俺も湊に追いつきたい気持ちはあるけど、本当にそんな日が来るのか不安な気持ちもあったりす
る。
「ま、相模さんは、歳は若いけど芸歴は長いからなー。子供の頃から役者やってんだから、同じ立ち
位置にいると思わない方がいいんじゃね?」
 欠伸をしながら言う高崎を、晴沢はジトッと見つめる。
「……時々おまえの前向きな考え方が羨ましいことがあるよ」
「そりゃどうも。だって、俺たち、役者である前にアイドルだよ?役者だけが仕事じゃねーもん。役者一
筋の人間と同じように考えるのが間違っているんじゃないの」
「あのな、確かに俺たちはアイドルだけど、今ここに立っている時は一人の役者だろ?」
「もちろん、役者も大事な仕事の一つだよ。だから俺は全力投球で挑むし、そうしないと今さんに殺さ
れるし。とりあえず今日こそは、がんばって今さんからOKを貰うようにしないとな」
 そう言って両手の拳を握りしめ、腰を据える高崎。
 おお、気合い入ってるな。
 ただ、今さん今日からここにいないんだけどな。
 代わりに湊が演技指導。
 ───あいつも、今さん程怒りはしないけど、結構厳しいんだよな。
 怒らない分、高崎にとってはやりやすいかもしれないけど。





「……では行ってくるよ、オフィーリア」
 そう言って倬弥は工藤さんの身体をきつくと抱きしめた。名残惜しさが全身に漲った演技───
いうか、リアルに名残惜しいんだろうな。
 そして彼はオフィーリアの耳元に囁く。
「いいか、さっき言ったこと忘れるんじゃないよ」
 その演技に、俺ははっと胸を突かれる。
 そうか、そこで一息置いて囁くってのも有りか。……妹の耳元に囁くって、なんだかエロいな。
「はい、この胸の内、しっかり錠を掛けて鍵はそちらに預けておきます」
 くすりと笑って、オフィーリアが微笑む。
 うわ……なんだか、妹の眼差しも心なし色っぽい。
 つうか、倬弥ってあの子供みたいな性格とは正反対で、色気がある演技するんだなぁ。
 ちょっと倒錯的な光景に、思わず息を飲んでしまう俺だったが湊が冷めた声で。


「妹に色目使いすぎ」

 すると倬弥は倬弥で不服そうに。
「俺的には十分ドライな演技したつもりです」
 工藤さんがからむとすぐムキになるな。
 そんな倬弥に対し、湊はふっと笑みを浮かべた。
 だけど目が全然笑ってない。むしろ殺気に近い眼光。
「じゃあ、もっとドライになれ。干上がるくらいドライな演技をしろ」
───
 決して怒鳴るわけではないが、低い美声は腹に響く。
 しかも相手を容赦無く威圧する眼力───そうなんだよな、結構怖いんだよな、湊って。
 俺もこの人に怒られまくったことがあったから、大して驚きはしないが、しかし以前より迫力が増して
いるな。
 やっぱり役者として泊がついてきたからか。
 それ以上に、実力がさらに加わってきたからか。
 多分、両方なんだろうけど、
 反抗的な倬弥の眼差しが、瞬時に萎縮したそれに変わる。
 しかし、湊は次の瞬間にこっと笑って。
「だけど、良い演技だった。お前の色気がある演技は、舞台の上ではこの上ない武器だからな。ハム
レットは、うかうかしていられないかもしれないぞ」
 そう言って高崎と晴沢の方を見る。
「お前等がしっかりしないと、レアティーズに食われる可能性があるからな」
「……っ!!」
 少し意地悪そうな笑い方だけど、先生が生徒に笑いかけるそれと同じ。
 元先生だもんなぁ。
 この人、人を教えたり、人をやる気にさせるのが上手い。
 高崎は頬を紅潮させ。
「俺、色気なら絶対負けません!j−プリンスの名にかけてフェロモンむんむんなハムレットを演じてみ
せますよ!!」
「あははは、そうか。そうか。じゃ、次はお前とオフィーリア……木村とでいこうか。ハムレットの中でも
名言が詰まったシーンだからな」
「はいっ!!」
 嬉しそうに返事をする高崎。
 結構湊とは相性がいいのかもな。
 一方、倬弥はふう……っと長いため息をついて、こっちに戻ってきた。
「本当にいい演技してたな、倬弥」
「ああ、俺もそう思う」
 全然否定しねぇし。
 だけど、何だろうな。
 こいつが演じたのって初めて見たけど、本当に引きつける演技をする。
 相手が工藤さんってのもあるんだろうけど、妹を慈しむ眼差しとか、どきっとさせられる。
 きっとあんな風に見つめて欲しいと思う女性客は沢山いるだろうな。
「それよりも、あの相模ひろしって奴」
「ん?」
 倬弥は額の汗を軽くぬぐいながら、木村さんと高崎に演技指導をする湊の横顔を見つめる。
 その眼差しは、先ほどのライバル視とは一変。
 憧憬に近いそれだ。
「あんな目で見られたの初めてだぜ」
「……」
「まだ胸がドキドキする」
 倬弥の言葉に、俺はすっと目を細め一言。
「───惚れるなよ?」
「な……何言っているんだよ。俺が工藤さん以外に心傾けるわけねぇだろ」
 言いながらも少し声が上擦っている倬弥に、俺はさらに言った。
「あいつは俺の男だからな」
「は?」
「前に言っただろ?俺の恋人は男だって」
「……え……じゃあ……えええええ!?」
 驚きすぎだろ。
 周りが何事か、と言わんばかりに注目しているじゃないか。
 倬弥はくちを金魚のようにぱくぱくとさせてから、俺の肩に手を回し、小声で耳打ちする。
「おおおおお、俺、今とんだスクープ聞いた気分なんですけど」
「そうか?」
「い……いや……そりゃ俺だって、好きな相手は同性だし全然言えた義理じゃないけど。あー驚いた
……心臓が爆破するかと思った」
 ───そうか、そうだよな。
 相模ひろしといえば世間では、今や売れっ子の俳優であって、そんな人が同性と、しかもまだ無名
に近い役者と付き合っているなんて情報、新聞記者が聞いたら泣いて喜ぶだろうな。
「でも……まぁ、基本ノンケなお前が、同性でも惚れるの分かるわ。俺も自分より背が高い男は抱き
たくないけど、あの人なら有りだもんなぁ」
 ───抱く方なんだ?倬弥。
 一瞬、その映像を思い浮かべ、俺はぞわぞわっと寒気がしてしまった。
「……一応言って置くが、あいつも抱く方だぞ?」
「そりゃそうだろうな。どう考えても、お前が抱く方に回るとは思えない」
「ほっとけ」
「いや、相手に寄りけりだぞ。たとえば今オフィーリアやってる木村さんが相手だとしたら、お前は抱く
方に回ると俺は思うのよ」
 変な分析すんなよ。
 でも確かに、木村さんだったら、どっちかというと抱かれたいじゃなくて、抱きたいかもなぁ。けっこう
可愛いトコあるしな。
「何の話してるの?」
 晴沢がこっちに歩み寄ってきた。
「あ?木村さん相手なら、こいつは抱く方に回るだろって話さ」
 さらっと言うね、倬弥。
「じゃあ、俺が相手だったらどう?」
イキナリ後ろから抱きついて、耳元に囁くのは、晴沢だ。
俺は直ぐさま振り放し、振り返ると、その高い鼻に人差し指を当てて言ってやる。
「お前はどっちもナシだ!」
「例え話じゃん。そんなにムキにならなくても」
「あー、俺だったらお前は抱かれる方ね」
 にやにや笑って答える倬弥に、晴沢は口を尖らせる。
「お前に聞いてないよ。大体、俺もタチなんだからさ」
「何だよ、タチって??」
 聞き慣れない言葉に首を傾げる俺に、晴沢は目を見開く。
「お前知らないの?」
「知らない」
「簡単に言えば、同性とお付き合いする場合、男役と女役というのが出来るだろ」
「ああ……そうなるな」
「その場合、男役はタチ。女役はネコになるわけ」
「ふうん。知らなかったな」
 ───ってことは、俺はネコになるのか。
 だよな。
 だって湊の方がどう考えても男役になるわけで。
 な……なんか嫌だなぁ。ネコって呼ばれ方。
「だから俺のネコになってくれ、浅羽」
絶対嫌だ
「ぜ……絶対がつくか?お前、師匠と同じで全然なびかねぇな」
「師匠って───お前、永原さんまで口説いていたのか」
 思わず胸倉を掴む俺に、晴沢は慌てて首を横に振る。
「違う、違う!永原さんを口説いているのは、ウチの社長だよ」
「社長に伝えとけ!永原さんに手を出したら、承知しないからな」
「え!?浅羽……ひょっとして、お前、永原さんのこと」
「アホか!!お前と一緒にするな」
 最初は小声で言い合っていたのが、だんだん声が大きくなっていたのだろう。
 たまりかねたのか、湊は決して怒鳴るわけじゃないけど、かーなーり鋭い声で俺たちに言い放った
のだった。

「そこ、煩いから廊下へ出てろ」


「……」
「……」
「……」
 廊下へ出ろ……って流石元教師。
 ───などと感心している場合じゃない。
 本当に稽古場で、くだらないこと言い合ってしまった。
 ここは反省して、ちゃんと稽古しなきゃな。
 今度稽古する台本を見直す俺の横で、倬弥はじろりと晴沢を睨み。
「あーあ、お前のせいで怒られたじゃん」
 心外、と言わんばかり晴沢は目を丸くする。
「お、俺の所為!?」
「浅羽にべたべたしすぎなんだよ。外野から見てもお前うざい」
「何だよ、それ!?」
「ましてや役柄では、お前はハムレット、こいつはレアティーズだ。普段からそんな仲良くしてたら、演
技にそれが出てくるぞ」
「そこは割り切ればいいだろ。スイッチ入れればさ───生か死か、それが問題だ」
「全然入ってない」
 間髪入れず容赦無い倬弥の一言。
「うそ、俺結構真面目顔だったぞ!?」
「深刻さが伝わるか。そこはもっと溜めて言うトコだろう」
「……あ、それもそうだな。じゃあ」
 すっと晴沢は息をついた。
 俺は僅かに目を見開く。
 僅かに俯き、どこか憂いをたたえた眼差しをする。
 まるで手鏡を見るかのように、己の掌を見つめる。
 わずかに震える指先。
 何かに怯えるような……あるいは怒りに震えるような……どっちともつかない、あるいは両方なの
か。
 先程のお気楽極楽な空気が一瞬にして緊迫した空気に変わる。
 言葉通り、ハムレットのスイッチが入ったのだ。


「生か死か……それが問題だ」

ハムレットにおける名台詞。
苦悩に溢れたその声に、俺は胸が鷲づかみにされそうな思いになる。
思わず、台本を握りしめていた。
その台詞は、本来なら俺が言うはずだった台詞。
高校の時。
親に言われるまま医者を目指していなかったら。
誰に何を言われようと、演劇部に居続けたら。
あの台詞は俺のものだった───
今の名台詞を舞台で言うことが出来たというのに。
急にあの時の悔しさが突き上げ、一瞬俺は目の前にいる晴沢をぶん殴りたくなってしまった。
正直、羨ましいと思った。
もちろんレアティーズの役が出来るのだって喜ばしいことだ。
だけど、学生の時に演じられなかったハムレット。
俺は、あの時何をやっていたんだ。
何で演じる事を諦めようとしてしまったのだろう?
「浅羽?」
 倬弥に声を掛けられ、俺は我に返る。
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「相模さんに怒られてショックだったとか?」
「いや、それは全然。あんなの怒られたウチじゃないよ」
 俺は努めて笑ってみせるけど───まずいな。正直、いらっと来た。
 ハムレット演じている高崎や晴沢に嫉妬しているというのもあるけど、何より演じることを放棄してし
まった過去の自分が腹立たしかった。
「浅羽、今度は真面目に台詞合わせしようか」
 いつもなら有り難い晴沢の申し出も、正直今は受け入れることができなかった。
「ごめん……俺、屋上で空気吸ってくる」
「じゃ、俺も」
 と続こうとする晴沢に、俺は敢えて笑いかけた。

「ごめん、一人でいさせてくれる?」


 俺の笑顔を“圧力”と受け取ったのだろう。
 晴沢は顔を引きつらせ、素直に頷いたのだった。


 KONの稽古場の屋上は、決して開放的なものじゃなかった。
 周囲はもっと高いビル群に囲まれ、空も何だか狭く感じて、しかも日当たりも悪いから寒い。
だけど風は冷たくて、苛立ちで頭にのぼりかけていた血もサァッと引いたみたいだった。
俺はため息を一つ着いた。
やべぇ……煙草吸いたい。
もう何ヶ月禁煙してるんだっけ?
最近そこまで吸いたいと思わなかったのに、何か急に吸いたくなってきた。
あれが一本あれば落ち着くのにな。
「……」
俺は首を横に振る。
駄目だ、駄目だ。
湊だって禁煙しているのに、そこで俺がくじけたら……あいつもくじける可能性がある。喫煙歴が長い
分、あいつの方が止めるのが辛い筈。未だにストローを煙草みたいに銜えてしまう事があるぐらいだ
からな。
あー、せめてコーヒーでも飲もうか。
でも自販機って、一階にあるし、晴沢と倬弥がいる前通らなきゃいけないし、どっちにしても買えやし
ない。
俺が深いため息をついた時だった。
突然、頬にひやりとした感触。
「わ!?」
びくっと肩を上下させる俺に。
「あははは、ごめんごめん。そこまで驚くとは思わなかった」
振り返ると、そこには缶コーヒーを持った工藤さんが立っていた。
「……何でここに?」
「うん?まぁ、僕も君と同じ気持ちだったからかな」
「……?」
 コーヒーを受け取りながら、首を傾げる俺に工藤さんはくすり、と笑った。
「ちょっと君とセリフあわせしたくて、廊下出たら君の姿がなかったから」
「す、すいません」
「ううん倬弥君から、晴沢君のハムレットを見た後に、屋上へ行ったって話を聞いた時、ちょっとピンっ
と来ちゃったんだよね」
「それは、どういう」
「以前、君が親の都合で演劇部を辞めなきゃならなくなった話を、相模君から聞いたことがあるんだ」
「……っ!」
 な、何でそんな話、工藤さんにするわけ!?
 かなり恥ずかしいんですけど!!
 後で湊の奴、ど突いてやる。
 知らず知らず顔が赤くなっている俺の心の中を読んだのか、工藤さんは言った。
「相模君のこと怒らないでね。彼が君のことを僕に話したのは、実はワケがあるんだ」
「え……」
 目を瞠る俺に、工藤さんは次の瞬間、ふっと不敵な笑みを浮かべる。
 どこか挑戦的な笑顔。
 どきっと胸が高鳴る。
 そんな男らしい表情が出来るんだよな、この人。
 はっきり言って無茶苦茶格好いい。
 工藤さんは俺と少し距離をとるように後ろへ下がり、離れた位置に立った。
 そしておもむろに両手をぎゅっと握りしめ、天を見上げた。
 まるで神にすがるかのような眼差し。
 その眼差しは強くありながら、どこか絶望をたたえているような。
 引き込まれる。
 彼の唇から、絞り出すような声が出る。
 力強い、腹に響くような───

「生か死か、それが疑問だ……っっ」
ハムレットの名言。
それは天に問いかけていると見せかけ、自身の問いかけだ。
「残酷な運命を耐え忍ぶか、それとも苦難に立ち向かって死んでしまうか……死とは眠り。それだけ
のことだ。眠れば苦しみが消える───いや、眠れば夢を見る。それが気になる……死んで人はど
んな夢を見るのか? それを思うと、つい弱気になり、辛い人生にも執着してしまう。でなければ、だ
れが世間の非難に耐えられるか・・・権力者の横暴、尊大な者の傲慢、かなわない恋の苦しみ、役人
の横柄な態度、相手の寛容につけこみ、のさばりかえるクズども! そんなことに耐えるより、死んだ
ほうがましだ。人はなぜ不平たらたら、汗水たらして、辛い人生を生きるのか? 死後の世界に不安
があるからだ。だれもそこから戻ってきたことがないからだ。死の恐怖を体験するより、現在の苦しみ
のほうがまし。この判断が人を臆病にしてしまう。そのために確固とした決意が揺らぎ、のるか、そる
かの大事業も実行できずに終わってしまうのだ」
 次から次へと工藤さんの口から溢れるハムレットの台詞。
 その台詞には一切の淀みなく、苦悩から生まれた重苦しさと悲哀が心を締め付けてくる。
 すごい……あんな可愛らしいオフィーリアを演じていた工藤さんが、今全力でハムレットを演じたん
だ。
 俺は思わず感動して泣きそうになった。
 すごい……この人、やっぱり凄い。
 一瞬で、人の心を突き動かした。
 工藤さんは深く息をついてから、俺の方を見て言った。

「ハムレットは本来は僕が演じる役の筈だった」

───
それは、どういうことだ?
この舞台は前々から主役はKON以外の人間が演じるって決まっていたことだよな?
疑問を口に出す前に、工藤さんは苦笑して言った。
「今のこの舞台の話じゃないよ。それこそ大昔……高校生の時の話だよ」
「え───
「高校二年の時だったよ。ハムレットの稽古中、僕は交通事故に遭って演じる事ができなくなったん
だ」
 高校二年。
 俺と、同じ年の時に工藤さんも?
「代役が本番を演じる事になったって知った時は、悔しくて、悔しくて涙が出た。正直、あいつよりも僕
の方が上手く演じられるのにって、歯ぎしりをしたよ」
「……」
 うわ、俺と同じだ。
 俺も演劇部を辞めて、俺の先輩が演じることになった時、凄く悔しかった。
 演劇部の稽古風景を見て、その人の演技を見た時、俺ならこうするのにって歯がゆく、そして悔しい
思いをして。
「正直、高崎君や晴沢君の演技を見る度に、僕はあの時の記憶が蘇って、しんどい気持ちになってい
た。特に高崎君……台詞覚えは置いておいて、あの子の演技は天才的だね。きっと魅力的なハムレ
ットを演じるに違いない。それはKONにとっては凄く喜ばしいことだけど、僕にとってはどうしても妬ま
しい気持ちがあってさ」
「全然そんなそぶり……」
「もちろん大人だから、そんな気持ちは表に出さないよ。それにオフィーリアを演じるのも楽しいしね。
だけど、あの子達が魅力的なハムレットを演じれば演じるほど、それを超えた演技をしたい欲求にか
られてしまう。僕はその瞬間急に、高校生に戻ってしまうんだよね」
「……」
 そうか。
 俺だけじゃないんだ。
 この人にもそんな過去が。
 しかも自ら辞めた俺なんかと違って、この人は凄く不本意で辞めさせられた状況だ。
 きっと俺よりも悔しかったに違いない。
「お酒に酔った時、相模君にその話をした時に、君のことを教えてくれたんだ」
「そうだったんですか」
「なんかさ、不思議だよね。ハムレット演じ損ねた役者がここに二人もいるって」
 可笑しそうに笑い出す工藤さんに釣られて、俺も思わず吹き出してしまった。
 本当にその通りだ。
 ふたりしてハムレットには縁がなかった。
 なんというかハムレットに呪われているというか、こっちがハムレットを呪いたいというか。

「呪わしき、ハムレットか……」

 ふと呟く俺に、工藤さんは腹を抱えて笑い出す。
「あははは、本当にそうだね。僕達ハムレットに呪われているのかも」
「でも工藤さんの演技見て、俺もハムレット演じてみたくなりましたよ」
 俺の言葉に工藤さんは嬉しそうに笑った。
「うん、今演じたけど、すっごくすっきりしたよ。君もやってみなよ!」
「はい、そうしてみます」
 俺はコーヒーの缶をどっかに置こうと周囲を見回したが、屋上にそんな場所はない。
 仕方がない、地面に置くか───と思い、それを起きかけて俺はふとその動きを止める。
 あ、コレ小道具に使ってもいいかも。
 俺は一度深呼吸をしてから、コーヒーの缶を胸の前に当て、空を見上げる。
 父親への復讐に苦悩するハムレット。
 狂気を演じながらも、その眼差しは復讐心と憎悪をたたえ……けれども、それにより栗しむ大事な
人々たちのことを思うと、どこか迷いも生じる。
 俺はコーヒー缶を右手に、それを軽く頬に当てる。
 そして沈鬱な、どこか虚ろな眼差しを地面に向け、静かな……それでいて鋭い声で己に問いかけ
る。





「生か死か……それが疑問だっ」




      




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呪わしきハムレット6

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