笑う舞台
「はい、どうもこんにちはー」
「エンタ・ケイタ……でっす☆」
「しょーもないポーズすんな」
「次回から、これ俺の決めポーズにしようと思っているんだけど、どう思う?」
「どうもこうも次回どころか、今ここでしちまっただろ。その中途半端なダチョウポーズ」
「ダチョウじゃなくて鶴だよ」
「……どっちでもいいし」
「とにかくこの鶴のポーズを俺は世間にはやらせたいのよ」
「───無理だろ。第一どんな時に使うんだよ」
「たとえばデートの時に遅れちゃったとしよう。お前彼女役やれよ」
「わかった……うーん、もう30分過ぎてるのに、何やってるのかしら」
「悪い悪い、おまたせ!ここで鶴のポーズ!!」
「無理無理無理!絶対流行らない!!」
その瞬間、客はどっと笑った。
ここはまさに笑う舞台。
芸人もまた観客を笑わせる為の演じ人なのだ。
俺自身もお笑いは好きで、TVでよく見ている。
半分は、お笑い芸人が演じる演技も、学ぶ部分がたくさんある、というのもあるんだけどね。
芸人が繰り出す間や、ボケの言い回し、突っ込みの絶妙なタイミング。
それが少しでも異なると、同じコントでも全然違うものに変わるのだ。
それは、演劇でも同じこと。
感動のシーンだって一つタイミングを間違えたら、とんだ茶番と化す。
今テレビに出ている、エンタ・ケイタは最近テレビに出始めたばかりの芸歴10年の漫才師。
その内の一人、ケイタこと、湯間計太(ゆま けいた)は芸人にしてはイケメンと誉れ高く、既に俳優
として活躍している。
薄茶色のくせっ毛に、同色の目。西洋人のようなくっきりとした目鼻立ちに180センチ以上ある長
身。エンタ・ケイタの時は赤いフレームの眼鏡を掛けているけど、俳優の時は掛けていない。
誰も彼が芸人とは思わない。
芸人など止めて俳優に転職しないか、という誘いもいくつかあったらしいが、彼は頑なにそれを断っ
ていた。
自分が目指しているのは、あくまで芸人として天下を取ることのこと。
俺が、そんな湯間さんと出会ったのは、某映画の撮影の時だった。
「お前、まだ帰ってなかったのか?他の生徒たちはさっさと帰っちまったのによ」
学校の生徒役として、ちょい役を貰っていた俺は、現場の隅で邪魔にならないように見学していた
所、声を掛けられた。
確かに他の生徒役の人たちは、出番が終わったらさっさと帰ってしまった。まぁ、売れっ子のアイド
ルや子役の子もいたりするし、見学しているのは、帰ってからも暇人な俺ぐらいかもしれない。
「お前、確か浅羽とか言ってたな」
「は、はい」
「いい演技するよな。特にシーン45、お前が長台詞で教頭を言い負かすシーンはすごかったな。しか
も一度もNG出さねぇし」
「ちょい役の俺が足を引っぱるわけには行きませんから」
「本当はその台詞、高崎が言う奴だったんだ。覚えられなかったから、監督がお前に言わせることに
した、って言っていたな」
高崎とは、某アイドルグループの一人、高崎レンのこと。
俺はその高崎が演じる生徒会長を補佐する副会長役だったんだけど。
変だと思ったんだよな。
台本に新しく台詞を書き足すように指示されて、「その台詞、明日までに覚えてきて」って、言われ
たから、言われるままに覚えてきたけど。
ちょい役にしては、たくさん台詞言わせてもらえたなぁ……とは思っていたんだよな。
湯間さんは壁に背中を預け、おもむろにタバコを取り出した。
そしてその箱を俺に差し出し。
「吸う?」
と尋ねてきた。
「いいえ、禁煙中ですから」
「その若さで禁煙かよ。大した優等生だな」
はっと軽く鼻で笑われた。
ちょっとむっとするそんな表情も、何だか格好良く見えるのは、役者としての貫禄故か。
本当にお笑い芸人なのか、改めて疑いたくなる。
そこに一人の男が近づいてきた。
七三別けの髪型に黒縁眼鏡。そしてグレーのスーツを着たやせ形の男だ。でも眼鏡だけは業界人
を気取りたいのか、薄茶色のサングラスを掛けている。
湯間さんは、あからさまに嫌そうな顔をして
「ああ……あんたか」と、一言。
「何、その気のない返事。いつも私から逃げてばっかり。今日こそ、返事を聞かせてもらうわよ」
うげ、何だ、そのオネエ言葉は。
「だから、何度も言っているだろ。俺はオタクの事務所に行く気はないって。相方も一緒なら考えてや
ってもいいけどさ」
「それは駄目って言っているじゃないの。私たちは俳優としてのあなたを求めているの」
「俺は俳優である前に、芸人だ」
「あんた芸人なんかやってても、一生売れないわよ」
「……」
「コンビを組んで一〇年でしょ?これから売れる保証なんてどこにもないわよ」
「反対に言えば、売れない保証だってどこにもない。もっと言えば、俳優で生き残れる保証だってどこ
にもない」
「それなら私たちが保証してあげるわよ」
「どうなんだか。悪いけど、いくらいい条件を出されても、俺はそっちへはいかないよ。
今の会社も大概、いい給料はくれるし」
「あんな会社、ケチで有名じゃないの!」
「でもお笑いの仕事は持ってきてくれるからな。オタクと違って」
湯間さんはそう言って、タバコを傍にある灰皿にねじ込んだ。
「私は絶対諦めないわよ!あなたは、俳優として生きる人間なのよ」
男はややヒステリックに言ってから、大股でその場を立ち去った。
俺はその後ろ姿を呆気にとられながら見ていた。
「あの……今の人は」
「ムーンライト社の小賀間さんさ。なかなかのやり手でね。あの人に目を掛けられた俳優・女優は大
概頂点に昇っている」
「へぇ。良かったんですか?断っちゃって」
「ああ。俺は俳優一筋で生きるつもりはないから。芸人として、あいつと天下をとる……この夢は誰に
も譲れない」
湯間さんはまっすぐ前を見て、迷いのない口調で言い切った。
そんなこの人が、俺はすごくカッコイイと思った。
「俺、エン太・ケイ太の漫才好きですよ。特にエン太のボケが───」
言いかけて俺は、しまったと思った。
今、目の前にいるのはケイ太だ。相方の方を褒めるのはまずかったか、と思った。
ところがケイ太こと湯間さんは。
「だろ!?あいつのボケ、マジ最高だろ」
と自分のことのように嬉しそうに笑った。
そして彼は続けた。
「俺があいつの才能に惚れたんだ。高校時代に、あいつと同じクラス、隣同士の席になってな。第一
印象は根暗な奴って感じだったんだけど……」
湯間さんはそう言って言葉を一端切ると、新しくタバコを口にくわえて、火をつけた。
そうして、一度煙を吸い込んでから、ふっと息をついて再び話を始めた。
「ある日、あいつが熱心にノートに、何やら書き込んでいるのが気になってな。ちょっとのぞいてみた
んだ。そしたら漫才の脚本が書かれていたんだ。俺、思わず吹き出しちまってな。向こうは最初驚い
ていたけど、俺がウケているのを見て、嬉しそうに笑ってたよ。当時、俺は演劇部だったんだけど、だ
んだん円太の書く漫才を演じてみたいと思うようになってな」
「へぇ、そうだったんですか」
「文化祭の時、初めて円太と漫才をやったんだ。そうしたら、大受けで大成功。俺……その時、思った
んだ。あいつの才能をこの学校だけで埋めておくのは勿体ないって。こいつをメジャーにするのが俺
の役目だって」
「……」
「あいつは当時、東大の医学部を目指していたんだけどな。18歳の夏に、塾帰りのあいつを俺は連
れ出したんだ。東京にある養成所へ行こうって」
養成所というのは、もちろんお笑いの養成所、であろう。
そうか。エン太は東大の医学部目指していたんだ。俺と同じで親が敷いてくれたレールを走ろうとし
ていたのかな。
でも塾帰りのエン太を連れ出したという、湯間さんの気持ちも分かるような気がする。
確かにエン太は面白い。顔立ちは可愛らしい顔をしているんだけど、とぼけた台詞や、微妙な間の
取り方とか、しかも役者もびっくりな早台詞を長く言うことがあって、あれは本当に魔術師かと思った。
俺からすれば、何でエン太にも役者の仕事が来ないのかが不思議だ。
そのことを湯間さんに言うと、彼は苦笑して。
「あいつにも仕事がいくつか来たんだが……どうも、コント以外だとその才能が発揮されないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、ドラマの台本を渡されても一行も覚えられない有様さ。あいつにはお笑いという道しかないん
だ」
な、なんだか勿体ないなぁ。
コント仕立ての演劇とかなら出られるんじゃないのかな。
「それに俺も、ドラマや映画はそれなりに楽しいけど、やっぱりエン太と漫才やっている時が一番俺ら
しく演じられるんだよな」
「……」
湯間さんはそう言って、笑った。
曇りのないその笑顔は、なんとも魅力的で。
俳優としても十分にやっていける素質があるのに。
だけど、この人は役者である前に、やっぱり芸人なんだなと思った。
そして、そんな湯間さんだからこそカッコイイのだとも思えた。
「お、電話だ」
バイブに設定している携帯を取り出し、湯間さんはボタンを押した。
「もしもし……ああ、円太か。え……何だよ。んな、でかい声で言わなくても分かるって」
よっぽど興奮しているのだろう。
エン太の声は携帯越しからもよく聞こえた。
『スゴイよ、計ちゃん!俺、スゴイかも。超ー!!面白い漫才出来た。俺、天才かもしんない!!』
「お前がそういう何て珍しいな。どんなコントだ?」
『あー、すぐ教えたいけど!!でも計ちゃんの撮影が終わってから!あー、でもどうしようかな、俺そっ
ちへ行っちゃおうかな』
「落ち着けよ。そういう時のお前って、周りが見えなくなって危なっかしいからな。家で待ってろよ」
『でも……』
「八時には帰る。それまで待ってろよ」
子供に言い聞かせるように行ってから湯間さんは電話を切った。
しかし次の瞬間
彼の表情がその時、何とも言えないぐらいにんまりとした笑みを浮かべる。
「よっしゃ!」
ぐっとガッツポーズ。
「どうしたんですか?湯間さん」
「円太の奴、かなりの自信作が出来たらしいんだ。あいつ、普段は自分の作品に自身持ってないくせ
に、そんなあいつがわざわざ作品出来たことを報告するぐらいだからな。よっぽどのもんが出来たと俺
は見ている」
「そうなんですか?」
「ああ、これで今回のキングの座は俺たちが貰ったぜ!」
キングとは、その名の通り漫才の王者を決める決定戦。
全国ネットでもその様子は放送され、若手にとってはブレイクのきっかけともなるであろう、登竜門。
「浅羽、今回の漫才王グランプリは必見だぜ!俺たちが絶対王座を勝ち取ってやる」
撮影はそれから七時まで続いた。
現場を見学していた俺も、監督の計らいでエキストラとして参加。
喫茶店で新聞を読んでいる会社員を演じさせて貰った。
それにしても主演の湯間さんは、やっぱり旨い。
長台詞を、すらすらと言いながら、監督の指示通りのリアクションやオーバーアクションも難なくこな
す。その上、きっちりアドリブもきかせる。
小賀間サンという人が俳優として湯間さんをほしがる気持ちも分からないでもなかった。
「おい、浅羽。この後暇だったら飲みに行かないか?」
片目を閉じて誘う湯間さん。
「でも、谷澤さんが待っているんでしょ」
「ああ、もちろん円太も一緒だ。お前も誰か知り合い呼んで来いよ」
「じゃあ、俳優の友達でよかったら……」
「俳優!?女優はいねーのか、女優は」
「……」
そんな話をしている矢先、湯間さんの携帯が鳴った。ジャケットの胸ポケットから、携帯を取り出しデ
ィスプレイを確認する。
「マネージャーからだ」
すぐさま携帯に出る湯間さん。
「何、どうしたんだ?……え……何だよ、何かあったのか」
どうも急を要することらしい。
受話器越し、かすかに聞こえてくる声は慌てふためいているようだった。
「え…………待て……何言ってるの?」
湯間さんの表情がたちまち強ばる。
「だって俺、あいつに家で待ってろって───」
俺は息を飲んだ。
何だか嫌な予感がする。
湯間さんは何度も首を振っている。
その横顔は蒼白だった。
「んなことあるかよ!!ふざけんな!!」
湯間さんはそこにはいないマネージャーに食ってかかる。
そして、何度も小声で『あり得ねぇ……あり得ねぇ……』と呟く。
その電話は、谷澤さんの急死を知らせるもので。
詳しい話はこの時分からなかったけれども、交通事故だったという。
湯間さんは、谷澤さんに家で待ってろ、と言っていたのに何で……?
俺は、成り行きで湯間さんと共に病院に行くことになった。
事情を知ったプロデューサーが、相方の急死を受け入れられず、未だ首を横に振っている湯間さん
を見かね、俺に病院まで付き添うよう言ったのだ。
一緒にタクシーに乗っている間も、湯間さんは頭を抱え「嘘だ……嘘だ……」と呟いていた。
俺は、そんな湯間さんを見守ることしかできなかった。
病院に駆けつけた時には、既に谷澤さんの顔には白い布がかけられていた。
ベッドの周囲には、悄然と項垂れる年配の女性。
あと年若い女性と子供がいた。
湯間さんはふらふらとした足取りで、谷澤さんが横たわるベッドに歩み寄る。
そして恐る恐る布をめくり……それが紛れもなく相方の顔であることを認めた。
「えんた……えんたぁ……」
湯間さんの長い指が、谷澤さんの頬や鼻筋、輪郭をなぞる。
両手で何度も、何度も顔をさする。
そうしたら生き返るかもしれない……あり得ない希望を抱いているようにも見えた。
「嘘だろ……嘘だって言ってくれよ!!」
谷澤さんの胸に顔を埋め、掠れるほど叫ぶ湯間さん。
一体どうしてこんなことになったのだろう?
谷澤さんはどうして───
その時、ベッドの傍らにいた母子が、湯間さんに歩み寄った。
「ごめんなさい……」
まだ年若い母親が深々と頭を下げる。
訝る湯間さんに、彼女は目から大粒の涙をこぼしながら言った。
「この子……谷澤さんのファンだったんです。谷澤さんが向かいの道路に歩いているのを見たこの子
が車が走っている道路に飛び出して……それを見た谷澤さんが駆けつけて、車に轢かれそうになっ
たこの子を庇って───」
母親はそれ以上言葉にすることができなかった。
代わりに口を開いたのは年配の女性だった。
「この子は昔から、優しい子だったから。嬉しそうに自分の元に駆け寄る子供を見て、放っておけなか
ったのね」
「……」
目元が谷澤さんに似ている……それに“この子”と呼んでいる処からして、彼女は谷澤さんの母親
なのであろう。
若い頃は凄くキレイな人だったんだろうな。今でも十分にキレイだけど。銀縁メガネとスーツ姿がど
こか知的な雰囲気を漂わせている。
彼女は谷澤さんの顔を見つめながら、淡々とした口調で言った。
「湯間君……あなたがこの子をこんな世界に誘わなかったら、この子はこんな処で死ぬことはなかっ
たのかもしれない」
「───」
湯間さんの目がゆっくり見開かれる。
「正直、あなたを恨んでいるわ」
「……」
永遠の眠りについた息子を見つめたまま、彼女は湯間さんにそう告げた。
三日後
その日は雨の中での撮影だった。
今回のロケ地は、某市の市民会館前。
暑い日は中央の噴水がとても涼しげな、人々の憩いの広場。
この日はぱらぱらと雨が降っていた。
ただドラマでは土砂降りという設定なので、人工の雨も降らせての撮影になった。
俺はちょい役である副会長役の出待ち。
隅っこで他の生徒役の子たちと共に見学していた。
会館のエントランスから、一人の女生徒が雨の中飛び出す。
トップアイドルの伊野麻衣子だ。
今までふわふわの長い栗毛の髪が自慢だった彼女だが、このドラマの撮影では男勝りな女の子と
いう設定なので、髪をばっさりと切り、ベリーショットにしている。色白の肌、大きな茶色い目。まるで
人形のように可愛らしい顔だ。
彼女は噴水の側にあるベンチによろよろもたれかかり、空を仰いで号泣する。
その後を追いかけて湯間さんも豪雨の中飛び出す。
雨の中、むせび泣く生徒に近づき、そっと抱きしめる。
いとおしそうに女生徒を見つめ、囁くように言った。
「よく頑張ったな……」
「何だよ、先生。先生が褒めるなんて気持ち悪いな」
男勝りな設定だけに、言葉使いも男の子っぽい。
泣きながら、にっと笑う顔はトップアイドルと言われるだけにかなり可愛い。
「俺だって褒めることはある」
ややむっとしながらも、嬉しさを隠せないのか目は嬉しそうに笑っている……うわぁ、あんな表情、な
かなか出せないぞ。
「ほんとに優勝したんだな」
伊野麻衣子の役所は、現役の高校生でありながら天才ピアニスト。交通事故で利き手を負傷し、そ
の後遺症により指が思うように動かず、ピアノが弾けなくなってしまった。
「……あいつがいなかったら、ピアノ諦めていた」
「……あいつ……鈴木のことか」
「うん……みずほがいなかったら私は駄目になっていた……あいつに聞いて欲しかったな……私の
ピアノ」
「……」
「何で逝っちゃったんだよぉ。みずほ」
「……」
湯間さんはきつく伊野麻衣子を抱きしめた。
彼もまた悲痛な表情を浮かべている。
伊藤麻衣子演じる天才ピアニストには、病気がちな親友がいて。
彼女が再びピアノが弾けるようになる日を心待ちにしていたけれども、コンクールの前日容態が悪
化して亡くなってしまう。
今の湯間さんの表情は、相方の死という現実を目の当たりにした後だけに、余計にリアルに見え
た。
「カット!……良かったよ!麻衣ちゃん。それに湯間君も」
監督は伊野麻衣子に、にこっと笑いかけて、それからちらりと湯間さんの方を見た。
湯間さんはスタッフからタオルを受け取り、顔を拭くとすぐにテントの下のベンチに腰掛けた。
その横顔はどこか翳りがあり、周囲も声を掛けづらい雰囲気があった。
俺は意を決し、そんな湯間さんに歩み寄る。
「あの、湯間さん」
「浅羽か。この前は悪かったな」
「そんなことは……湯間さんは大丈夫ですか?」
すると湯間さんは肩をすくめて。
「全然大丈夫じゃねえ」
と、おどけるような口調で言った。
胸ポケットから煙草の箱を取り出すが、中身が空であるのを知り、ぐしゃりと握りつぶした。
そして額に手を当てて、くすりと自嘲する。
「油断したら泣きそうになる」
「……」
「伊野の台詞聞いてたら、ホント……俺が泣きたくなっちまった」
「湯間さん……」
「かっこ悪いよな」
「……」
俺は首を横に振る。
大事な人が亡くなった……それで涙が出るのは自然なことだ。
俺がもし湯間さんの立場だったら。
例えば湊が死んでしまったとしたら。
きっと最初は泣くことすら出来なくて、呆然としているかもしれない。
だけど、だんだん時間が経って。
大事な人を失ってしまった実感が湧きだしたらきっと───
その時になってみないと分からないことだけど。
「浅羽君」
監督がこっちに歩み寄り、俺に声をかけてきた。
そして台本を俺に見せて。
「また言って貰いたい台詞があるんだ。これがちょっと難しくてね。レン君じゃ無理だろうって」
「どんな台詞です?」
「長台詞の上に、できるだけ早口で言って貰いたいんだ。ちょっと言ってみてくれるかな」
「いいですよ」
俺は台本を受け取り、ざっと台詞を読む。
言う程長台詞でもないけどな。シェークスピアと比べたら。
一度咳払いをしてから息を整え、覚え立ての台詞を声にする。
「いいですか、先生。俺たちは来年受験なんです。1年2年は、そりゃ青春を謳歌しましたけどね、3年
になったらさすがにそうもいかない。いや、本来なら2年生から本腰を入れるべきだと僕はおもいます
けどね。偉人が何を思っていたのかなんてどうでもいいんです。紙面のテスト問題は偉人の感情なん
か問題にしませんから。何年の何月何日に何が起こったのか事実を知っておくことが重要なんです。
ちなみに俺は受験では社会科は受けませんから、この時間帯は数学の自習をさせてもらいますよ」
この台詞は湯間さん演じる社会教師に対し、優秀だけどどこか偏屈な生徒がくってかかるシーン
だ。
監督は小さく拍手をして何度も頷いた。
「流石だね。流石だね〜、浅羽君。でも、もっと早めに言って欲しいんだよね。うん。
視聴者が聞き取りづらいくらいでいいんだよ。相手を押し切るぐらい勢いが欲しいから」
「何だったら俺も付き合ってやるよ」
湯間さんが椅子から立ち上がり……あ、少し笑った。
「ホントに?悪いね、湯間君」
監督もそんな湯間さんの表情を見て、少しほっとした表情になる。
何も言わないけど、心配なんだろうな、やっぱし。
俺は頷いて、今度は教師役の湯間さんと向き合う。
この教師は、ひょうきんでいて、やる時はやる熱血教師だ。元々警察官という特殊な肩書きをもっ
ており、ガキが少し悪さをしたぐらいでは動じない。大人に噛みつく優等生に対しても面白そうににや
にや笑っている。
そんな大人の余裕というヤツをモノの見事に演じる湯間さん。
俺はびしっと指さし。
「いいですか、先生」
鋭い口調で教師に言い放つ。
「俺たちは来年受験なんです。1年2年は、そりゃ青春を謳歌しましたけどね、3年になったらさすがに
そうもいかない。いや、本来なら2年生から本腰を入れるべきだと僕はおもいますけどね」
「だからといって俺の授業で他の教科を勉強するっていかがなものかな」
「偉人が何を思っていたのかなんてどうでもいいんです。紙面のテスト問題は偉人の感情なんか問
題にしませんから。何年の何月何日に何が起こったのか事実を知っておくことが重要なんです。ちな
みに俺は受験では社会科は受けませんから、この時間帯は数学の自習をさせてもらいますよ」
さっきが二倍速ならば、今度は五倍速ぐらいのスピードで言ってやったぜ。
湯間さんは相手の勢いに、目をまん丸くする。
台本ではそれからすぐに余裕の笑みに戻るのだけど。
目を丸くしたまま、俺を凝視していた。
「湯間さん?」
俺は訝るように首を傾げる。
湯間さんはまじまじと俺を上から下まで見てから、がしっと俺の両肩を掴み。
「浅羽、お前このドラマの他に仕事はあるか?」
と尋ねてきた。
俺はびっくりしながらも首を横に振る。
「いえ特には……」
「じゃあ、問題はねぇな」
「え、何が?」
何度か瞬きをする俺に対し、湯間さんは突如その両肩をがしっと掴んで言った。
「俺と一緒に漫才王グランプリに出てくれ!」
「は!?」
と言ったのは俺だけじゃない。たまたまそこに居合わせた監督も素っ頓狂な声を上げていた。
「湯間君、君、頭どうかしちゃったんじゃないの?浅羽君は芸人じゃないんだよ?」
「んなの分かってる!」
「じゃあ、どうして……頼むのなら他の芸人でもいいじゃない?ホラ君の友達で、物まね芸人のイトマ
キ君とか」
「イトちゃんは無理。エンタのような長台詞を言えるよーな脳ミソ持ってねーし。それに物まねじゃ駄目
なんだ。」
湯間さんは俺の両肩をますます強く掴んだ。
「浅羽、俺はお前に谷澤エンタを演じて欲しいんだ!」
「俺が谷澤さんを」
「今の早台詞で確信した。お前なら絶対エンタを演じることが出来る!」
「湯間さん」
「幸いお前は背格好もエンタと同じぐらいだし、それにメガネを掛けてエンタと同じ髪型にすれば──
─いける……絶対にいける!!」
「……」
俺は。
もう、ただ、ただ、目を輝かせる湯間さんに圧倒されて、その時は何も言えなかった。
「頼む!浅羽」
湯間さんは深々と頭を下げた。
お笑い芸人を演じる。
それがどういうものなのか分からないまま、俺は首を縦に振っていた。
「しょーもないポーズすんな」
「次回から、これ俺の決めポーズにしようと思っているんだけど、どう思う?」
「どうもこうも次回どころか、今ここでしちまっただろ。その中途半端なダチョウポーズ」
「ダチョウじゃなくて鶴だよ」
「……どっちでもいいし」
「とにかくこの鶴のポーズを俺は世間にはやらせたいのよ」
「───無理だろ。第一どんな時に使うんだよ」
「たとえばデートの時に遅れちゃったとしよう。お前彼女役やれよ」
「わかった……うーん、もう30分過ぎてるのに、何やってるのかしら」
「悪い悪い、おまたせ!ここで鶴のポーズ!!」
「無理無理無理!絶対流行らない!!」
その瞬間、客はどっと笑った。
ここはまさに笑う舞台。
芸人もまた観客を笑わせる為の演じ人なのだ。
俺自身もお笑いは好きで、TVでよく見ている。
半分は、お笑い芸人が演じる演技も、学ぶ部分がたくさんある、というのもあるんだけどね。
芸人が繰り出す間や、ボケの言い回し、突っ込みの絶妙なタイミング。
それが少しでも異なると、同じコントでも全然違うものに変わるのだ。
それは、演劇でも同じこと。
感動のシーンだって一つタイミングを間違えたら、とんだ茶番と化す。
今テレビに出ている、エンタ・ケイタは最近テレビに出始めたばかりの芸歴10年の漫才師。
その内の一人、ケイタこと、湯間計太(ゆま けいた)は芸人にしてはイケメンと誉れ高く、既に俳優
として活躍している。
薄茶色のくせっ毛に、同色の目。西洋人のようなくっきりとした目鼻立ちに180センチ以上ある長
身。エンタ・ケイタの時は赤いフレームの眼鏡を掛けているけど、俳優の時は掛けていない。
誰も彼が芸人とは思わない。
芸人など止めて俳優に転職しないか、という誘いもいくつかあったらしいが、彼は頑なにそれを断っ
ていた。
自分が目指しているのは、あくまで芸人として天下を取ることのこと。
俺が、そんな湯間さんと出会ったのは、某映画の撮影の時だった。
「お前、まだ帰ってなかったのか?他の生徒たちはさっさと帰っちまったのによ」
学校の生徒役として、ちょい役を貰っていた俺は、現場の隅で邪魔にならないように見学していた
所、声を掛けられた。
確かに他の生徒役の人たちは、出番が終わったらさっさと帰ってしまった。まぁ、売れっ子のアイド
ルや子役の子もいたりするし、見学しているのは、帰ってからも暇人な俺ぐらいかもしれない。
「お前、確か浅羽とか言ってたな」
「は、はい」
「いい演技するよな。特にシーン45、お前が長台詞で教頭を言い負かすシーンはすごかったな。しか
も一度もNG出さねぇし」
「ちょい役の俺が足を引っぱるわけには行きませんから」
「本当はその台詞、高崎が言う奴だったんだ。覚えられなかったから、監督がお前に言わせることに
した、って言っていたな」
高崎とは、某アイドルグループの一人、高崎レンのこと。
俺はその高崎が演じる生徒会長を補佐する副会長役だったんだけど。
変だと思ったんだよな。
台本に新しく台詞を書き足すように指示されて、「その台詞、明日までに覚えてきて」って、言われ
たから、言われるままに覚えてきたけど。
ちょい役にしては、たくさん台詞言わせてもらえたなぁ……とは思っていたんだよな。
湯間さんは壁に背中を預け、おもむろにタバコを取り出した。
そしてその箱を俺に差し出し。
「吸う?」
と尋ねてきた。
「いいえ、禁煙中ですから」
「その若さで禁煙かよ。大した優等生だな」
はっと軽く鼻で笑われた。
ちょっとむっとするそんな表情も、何だか格好良く見えるのは、役者としての貫禄故か。
本当にお笑い芸人なのか、改めて疑いたくなる。
そこに一人の男が近づいてきた。
七三別けの髪型に黒縁眼鏡。そしてグレーのスーツを着たやせ形の男だ。でも眼鏡だけは業界人
を気取りたいのか、薄茶色のサングラスを掛けている。
湯間さんは、あからさまに嫌そうな顔をして
「ああ……あんたか」と、一言。
「何、その気のない返事。いつも私から逃げてばっかり。今日こそ、返事を聞かせてもらうわよ」
うげ、何だ、そのオネエ言葉は。
「だから、何度も言っているだろ。俺はオタクの事務所に行く気はないって。相方も一緒なら考えてや
ってもいいけどさ」
「それは駄目って言っているじゃないの。私たちは俳優としてのあなたを求めているの」
「俺は俳優である前に、芸人だ」
「あんた芸人なんかやってても、一生売れないわよ」
「……」
「コンビを組んで一〇年でしょ?これから売れる保証なんてどこにもないわよ」
「反対に言えば、売れない保証だってどこにもない。もっと言えば、俳優で生き残れる保証だってどこ
にもない」
「それなら私たちが保証してあげるわよ」
「どうなんだか。悪いけど、いくらいい条件を出されても、俺はそっちへはいかないよ。
今の会社も大概、いい給料はくれるし」
「あんな会社、ケチで有名じゃないの!」
「でもお笑いの仕事は持ってきてくれるからな。オタクと違って」
湯間さんはそう言って、タバコを傍にある灰皿にねじ込んだ。
「私は絶対諦めないわよ!あなたは、俳優として生きる人間なのよ」
男はややヒステリックに言ってから、大股でその場を立ち去った。
俺はその後ろ姿を呆気にとられながら見ていた。
「あの……今の人は」
「ムーンライト社の小賀間さんさ。なかなかのやり手でね。あの人に目を掛けられた俳優・女優は大
概頂点に昇っている」
「へぇ。良かったんですか?断っちゃって」
「ああ。俺は俳優一筋で生きるつもりはないから。芸人として、あいつと天下をとる……この夢は誰に
も譲れない」
湯間さんはまっすぐ前を見て、迷いのない口調で言い切った。
そんなこの人が、俺はすごくカッコイイと思った。
「俺、エン太・ケイ太の漫才好きですよ。特にエン太のボケが───」
言いかけて俺は、しまったと思った。
今、目の前にいるのはケイ太だ。相方の方を褒めるのはまずかったか、と思った。
ところがケイ太こと湯間さんは。
「だろ!?あいつのボケ、マジ最高だろ」
と自分のことのように嬉しそうに笑った。
そして彼は続けた。
「俺があいつの才能に惚れたんだ。高校時代に、あいつと同じクラス、隣同士の席になってな。第一
印象は根暗な奴って感じだったんだけど……」
湯間さんはそう言って言葉を一端切ると、新しくタバコを口にくわえて、火をつけた。
そうして、一度煙を吸い込んでから、ふっと息をついて再び話を始めた。
「ある日、あいつが熱心にノートに、何やら書き込んでいるのが気になってな。ちょっとのぞいてみた
んだ。そしたら漫才の脚本が書かれていたんだ。俺、思わず吹き出しちまってな。向こうは最初驚い
ていたけど、俺がウケているのを見て、嬉しそうに笑ってたよ。当時、俺は演劇部だったんだけど、だ
んだん円太の書く漫才を演じてみたいと思うようになってな」
「へぇ、そうだったんですか」
「文化祭の時、初めて円太と漫才をやったんだ。そうしたら、大受けで大成功。俺……その時、思った
んだ。あいつの才能をこの学校だけで埋めておくのは勿体ないって。こいつをメジャーにするのが俺
の役目だって」
「……」
「あいつは当時、東大の医学部を目指していたんだけどな。18歳の夏に、塾帰りのあいつを俺は連
れ出したんだ。東京にある養成所へ行こうって」
養成所というのは、もちろんお笑いの養成所、であろう。
そうか。エン太は東大の医学部目指していたんだ。俺と同じで親が敷いてくれたレールを走ろうとし
ていたのかな。
でも塾帰りのエン太を連れ出したという、湯間さんの気持ちも分かるような気がする。
確かにエン太は面白い。顔立ちは可愛らしい顔をしているんだけど、とぼけた台詞や、微妙な間の
取り方とか、しかも役者もびっくりな早台詞を長く言うことがあって、あれは本当に魔術師かと思った。
俺からすれば、何でエン太にも役者の仕事が来ないのかが不思議だ。
そのことを湯間さんに言うと、彼は苦笑して。
「あいつにも仕事がいくつか来たんだが……どうも、コント以外だとその才能が発揮されないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、ドラマの台本を渡されても一行も覚えられない有様さ。あいつにはお笑いという道しかないん
だ」
な、なんだか勿体ないなぁ。
コント仕立ての演劇とかなら出られるんじゃないのかな。
「それに俺も、ドラマや映画はそれなりに楽しいけど、やっぱりエン太と漫才やっている時が一番俺ら
しく演じられるんだよな」
「……」
湯間さんはそう言って、笑った。
曇りのないその笑顔は、なんとも魅力的で。
俳優としても十分にやっていける素質があるのに。
だけど、この人は役者である前に、やっぱり芸人なんだなと思った。
そして、そんな湯間さんだからこそカッコイイのだとも思えた。
「お、電話だ」
バイブに設定している携帯を取り出し、湯間さんはボタンを押した。
「もしもし……ああ、円太か。え……何だよ。んな、でかい声で言わなくても分かるって」
よっぽど興奮しているのだろう。
エン太の声は携帯越しからもよく聞こえた。
『スゴイよ、計ちゃん!俺、スゴイかも。超ー!!面白い漫才出来た。俺、天才かもしんない!!』
「お前がそういう何て珍しいな。どんなコントだ?」
『あー、すぐ教えたいけど!!でも計ちゃんの撮影が終わってから!あー、でもどうしようかな、俺そっ
ちへ行っちゃおうかな』
「落ち着けよ。そういう時のお前って、周りが見えなくなって危なっかしいからな。家で待ってろよ」
『でも……』
「八時には帰る。それまで待ってろよ」
子供に言い聞かせるように行ってから湯間さんは電話を切った。
しかし次の瞬間
彼の表情がその時、何とも言えないぐらいにんまりとした笑みを浮かべる。
「よっしゃ!」
ぐっとガッツポーズ。
「どうしたんですか?湯間さん」
「円太の奴、かなりの自信作が出来たらしいんだ。あいつ、普段は自分の作品に自身持ってないくせ
に、そんなあいつがわざわざ作品出来たことを報告するぐらいだからな。よっぽどのもんが出来たと俺
は見ている」
「そうなんですか?」
「ああ、これで今回のキングの座は俺たちが貰ったぜ!」
キングとは、その名の通り漫才の王者を決める決定戦。
全国ネットでもその様子は放送され、若手にとってはブレイクのきっかけともなるであろう、登竜門。
「浅羽、今回の漫才王グランプリは必見だぜ!俺たちが絶対王座を勝ち取ってやる」
撮影はそれから七時まで続いた。
現場を見学していた俺も、監督の計らいでエキストラとして参加。
喫茶店で新聞を読んでいる会社員を演じさせて貰った。
それにしても主演の湯間さんは、やっぱり旨い。
長台詞を、すらすらと言いながら、監督の指示通りのリアクションやオーバーアクションも難なくこな
す。その上、きっちりアドリブもきかせる。
小賀間サンという人が俳優として湯間さんをほしがる気持ちも分からないでもなかった。
「おい、浅羽。この後暇だったら飲みに行かないか?」
片目を閉じて誘う湯間さん。
「でも、谷澤さんが待っているんでしょ」
「ああ、もちろん円太も一緒だ。お前も誰か知り合い呼んで来いよ」
「じゃあ、俳優の友達でよかったら……」
「俳優!?女優はいねーのか、女優は」
「……」
そんな話をしている矢先、湯間さんの携帯が鳴った。ジャケットの胸ポケットから、携帯を取り出しデ
ィスプレイを確認する。
「マネージャーからだ」
すぐさま携帯に出る湯間さん。
「何、どうしたんだ?……え……何だよ、何かあったのか」
どうも急を要することらしい。
受話器越し、かすかに聞こえてくる声は慌てふためいているようだった。
「え…………待て……何言ってるの?」
湯間さんの表情がたちまち強ばる。
「だって俺、あいつに家で待ってろって───」
俺は息を飲んだ。
何だか嫌な予感がする。
湯間さんは何度も首を振っている。
その横顔は蒼白だった。
「んなことあるかよ!!ふざけんな!!」
湯間さんはそこにはいないマネージャーに食ってかかる。
そして、何度も小声で『あり得ねぇ……あり得ねぇ……』と呟く。
その電話は、谷澤さんの急死を知らせるもので。
詳しい話はこの時分からなかったけれども、交通事故だったという。
湯間さんは、谷澤さんに家で待ってろ、と言っていたのに何で……?
俺は、成り行きで湯間さんと共に病院に行くことになった。
事情を知ったプロデューサーが、相方の急死を受け入れられず、未だ首を横に振っている湯間さん
を見かね、俺に病院まで付き添うよう言ったのだ。
一緒にタクシーに乗っている間も、湯間さんは頭を抱え「嘘だ……嘘だ……」と呟いていた。
俺は、そんな湯間さんを見守ることしかできなかった。
病院に駆けつけた時には、既に谷澤さんの顔には白い布がかけられていた。
ベッドの周囲には、悄然と項垂れる年配の女性。
あと年若い女性と子供がいた。
湯間さんはふらふらとした足取りで、谷澤さんが横たわるベッドに歩み寄る。
そして恐る恐る布をめくり……それが紛れもなく相方の顔であることを認めた。
「えんた……えんたぁ……」
湯間さんの長い指が、谷澤さんの頬や鼻筋、輪郭をなぞる。
両手で何度も、何度も顔をさする。
そうしたら生き返るかもしれない……あり得ない希望を抱いているようにも見えた。
「嘘だろ……嘘だって言ってくれよ!!」
谷澤さんの胸に顔を埋め、掠れるほど叫ぶ湯間さん。
一体どうしてこんなことになったのだろう?
谷澤さんはどうして───
その時、ベッドの傍らにいた母子が、湯間さんに歩み寄った。
「ごめんなさい……」
まだ年若い母親が深々と頭を下げる。
訝る湯間さんに、彼女は目から大粒の涙をこぼしながら言った。
「この子……谷澤さんのファンだったんです。谷澤さんが向かいの道路に歩いているのを見たこの子
が車が走っている道路に飛び出して……それを見た谷澤さんが駆けつけて、車に轢かれそうになっ
たこの子を庇って───」
母親はそれ以上言葉にすることができなかった。
代わりに口を開いたのは年配の女性だった。
「この子は昔から、優しい子だったから。嬉しそうに自分の元に駆け寄る子供を見て、放っておけなか
ったのね」
「……」
目元が谷澤さんに似ている……それに“この子”と呼んでいる処からして、彼女は谷澤さんの母親
なのであろう。
若い頃は凄くキレイな人だったんだろうな。今でも十分にキレイだけど。銀縁メガネとスーツ姿がど
こか知的な雰囲気を漂わせている。
彼女は谷澤さんの顔を見つめながら、淡々とした口調で言った。
「湯間君……あなたがこの子をこんな世界に誘わなかったら、この子はこんな処で死ぬことはなかっ
たのかもしれない」
「───」
湯間さんの目がゆっくり見開かれる。
「正直、あなたを恨んでいるわ」
「……」
永遠の眠りについた息子を見つめたまま、彼女は湯間さんにそう告げた。
三日後
その日は雨の中での撮影だった。
今回のロケ地は、某市の市民会館前。
暑い日は中央の噴水がとても涼しげな、人々の憩いの広場。
この日はぱらぱらと雨が降っていた。
ただドラマでは土砂降りという設定なので、人工の雨も降らせての撮影になった。
俺はちょい役である副会長役の出待ち。
隅っこで他の生徒役の子たちと共に見学していた。
会館のエントランスから、一人の女生徒が雨の中飛び出す。
トップアイドルの伊野麻衣子だ。
今までふわふわの長い栗毛の髪が自慢だった彼女だが、このドラマの撮影では男勝りな女の子と
いう設定なので、髪をばっさりと切り、ベリーショットにしている。色白の肌、大きな茶色い目。まるで
人形のように可愛らしい顔だ。
彼女は噴水の側にあるベンチによろよろもたれかかり、空を仰いで号泣する。
その後を追いかけて湯間さんも豪雨の中飛び出す。
雨の中、むせび泣く生徒に近づき、そっと抱きしめる。
いとおしそうに女生徒を見つめ、囁くように言った。
「よく頑張ったな……」
「何だよ、先生。先生が褒めるなんて気持ち悪いな」
男勝りな設定だけに、言葉使いも男の子っぽい。
泣きながら、にっと笑う顔はトップアイドルと言われるだけにかなり可愛い。
「俺だって褒めることはある」
ややむっとしながらも、嬉しさを隠せないのか目は嬉しそうに笑っている……うわぁ、あんな表情、な
かなか出せないぞ。
「ほんとに優勝したんだな」
伊野麻衣子の役所は、現役の高校生でありながら天才ピアニスト。交通事故で利き手を負傷し、そ
の後遺症により指が思うように動かず、ピアノが弾けなくなってしまった。
「……あいつがいなかったら、ピアノ諦めていた」
「……あいつ……鈴木のことか」
「うん……みずほがいなかったら私は駄目になっていた……あいつに聞いて欲しかったな……私の
ピアノ」
「……」
「何で逝っちゃったんだよぉ。みずほ」
「……」
湯間さんはきつく伊野麻衣子を抱きしめた。
彼もまた悲痛な表情を浮かべている。
伊藤麻衣子演じる天才ピアニストには、病気がちな親友がいて。
彼女が再びピアノが弾けるようになる日を心待ちにしていたけれども、コンクールの前日容態が悪
化して亡くなってしまう。
今の湯間さんの表情は、相方の死という現実を目の当たりにした後だけに、余計にリアルに見え
た。
「カット!……良かったよ!麻衣ちゃん。それに湯間君も」
監督は伊野麻衣子に、にこっと笑いかけて、それからちらりと湯間さんの方を見た。
湯間さんはスタッフからタオルを受け取り、顔を拭くとすぐにテントの下のベンチに腰掛けた。
その横顔はどこか翳りがあり、周囲も声を掛けづらい雰囲気があった。
俺は意を決し、そんな湯間さんに歩み寄る。
「あの、湯間さん」
「浅羽か。この前は悪かったな」
「そんなことは……湯間さんは大丈夫ですか?」
すると湯間さんは肩をすくめて。
「全然大丈夫じゃねえ」
と、おどけるような口調で言った。
胸ポケットから煙草の箱を取り出すが、中身が空であるのを知り、ぐしゃりと握りつぶした。
そして額に手を当てて、くすりと自嘲する。
「油断したら泣きそうになる」
「……」
「伊野の台詞聞いてたら、ホント……俺が泣きたくなっちまった」
「湯間さん……」
「かっこ悪いよな」
「……」
俺は首を横に振る。
大事な人が亡くなった……それで涙が出るのは自然なことだ。
俺がもし湯間さんの立場だったら。
例えば湊が死んでしまったとしたら。
きっと最初は泣くことすら出来なくて、呆然としているかもしれない。
だけど、だんだん時間が経って。
大事な人を失ってしまった実感が湧きだしたらきっと───
その時になってみないと分からないことだけど。
「浅羽君」
監督がこっちに歩み寄り、俺に声をかけてきた。
そして台本を俺に見せて。
「また言って貰いたい台詞があるんだ。これがちょっと難しくてね。レン君じゃ無理だろうって」
「どんな台詞です?」
「長台詞の上に、できるだけ早口で言って貰いたいんだ。ちょっと言ってみてくれるかな」
「いいですよ」
俺は台本を受け取り、ざっと台詞を読む。
言う程長台詞でもないけどな。シェークスピアと比べたら。
一度咳払いをしてから息を整え、覚え立ての台詞を声にする。
「いいですか、先生。俺たちは来年受験なんです。1年2年は、そりゃ青春を謳歌しましたけどね、3年
になったらさすがにそうもいかない。いや、本来なら2年生から本腰を入れるべきだと僕はおもいます
けどね。偉人が何を思っていたのかなんてどうでもいいんです。紙面のテスト問題は偉人の感情なん
か問題にしませんから。何年の何月何日に何が起こったのか事実を知っておくことが重要なんです。
ちなみに俺は受験では社会科は受けませんから、この時間帯は数学の自習をさせてもらいますよ」
この台詞は湯間さん演じる社会教師に対し、優秀だけどどこか偏屈な生徒がくってかかるシーン
だ。
監督は小さく拍手をして何度も頷いた。
「流石だね。流石だね〜、浅羽君。でも、もっと早めに言って欲しいんだよね。うん。
視聴者が聞き取りづらいくらいでいいんだよ。相手を押し切るぐらい勢いが欲しいから」
「何だったら俺も付き合ってやるよ」
湯間さんが椅子から立ち上がり……あ、少し笑った。
「ホントに?悪いね、湯間君」
監督もそんな湯間さんの表情を見て、少しほっとした表情になる。
何も言わないけど、心配なんだろうな、やっぱし。
俺は頷いて、今度は教師役の湯間さんと向き合う。
この教師は、ひょうきんでいて、やる時はやる熱血教師だ。元々警察官という特殊な肩書きをもっ
ており、ガキが少し悪さをしたぐらいでは動じない。大人に噛みつく優等生に対しても面白そうににや
にや笑っている。
そんな大人の余裕というヤツをモノの見事に演じる湯間さん。
俺はびしっと指さし。
「いいですか、先生」
鋭い口調で教師に言い放つ。
「俺たちは来年受験なんです。1年2年は、そりゃ青春を謳歌しましたけどね、3年になったらさすがに
そうもいかない。いや、本来なら2年生から本腰を入れるべきだと僕はおもいますけどね」
「だからといって俺の授業で他の教科を勉強するっていかがなものかな」
「偉人が何を思っていたのかなんてどうでもいいんです。紙面のテスト問題は偉人の感情なんか問
題にしませんから。何年の何月何日に何が起こったのか事実を知っておくことが重要なんです。ちな
みに俺は受験では社会科は受けませんから、この時間帯は数学の自習をさせてもらいますよ」
さっきが二倍速ならば、今度は五倍速ぐらいのスピードで言ってやったぜ。
湯間さんは相手の勢いに、目をまん丸くする。
台本ではそれからすぐに余裕の笑みに戻るのだけど。
目を丸くしたまま、俺を凝視していた。
「湯間さん?」
俺は訝るように首を傾げる。
湯間さんはまじまじと俺を上から下まで見てから、がしっと俺の両肩を掴み。
「浅羽、お前このドラマの他に仕事はあるか?」
と尋ねてきた。
俺はびっくりしながらも首を横に振る。
「いえ特には……」
「じゃあ、問題はねぇな」
「え、何が?」
何度か瞬きをする俺に対し、湯間さんは突如その両肩をがしっと掴んで言った。
「俺と一緒に漫才王グランプリに出てくれ!」
「は!?」
と言ったのは俺だけじゃない。たまたまそこに居合わせた監督も素っ頓狂な声を上げていた。
「湯間君、君、頭どうかしちゃったんじゃないの?浅羽君は芸人じゃないんだよ?」
「んなの分かってる!」
「じゃあ、どうして……頼むのなら他の芸人でもいいじゃない?ホラ君の友達で、物まね芸人のイトマ
キ君とか」
「イトちゃんは無理。エンタのような長台詞を言えるよーな脳ミソ持ってねーし。それに物まねじゃ駄目
なんだ。」
湯間さんは俺の両肩をますます強く掴んだ。
「浅羽、俺はお前に谷澤エンタを演じて欲しいんだ!」
「俺が谷澤さんを」
「今の早台詞で確信した。お前なら絶対エンタを演じることが出来る!」
「湯間さん」
「幸いお前は背格好もエンタと同じぐらいだし、それにメガネを掛けてエンタと同じ髪型にすれば──
─いける……絶対にいける!!」
「……」
俺は。
もう、ただ、ただ、目を輝かせる湯間さんに圧倒されて、その時は何も言えなかった。
「頼む!浅羽」
湯間さんは深々と頭を下げた。
お笑い芸人を演じる。
それがどういうものなのか分からないまま、俺は首を縦に振っていた。
つづく
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