午前七時…。 火曜の朝も晴れ渡った空で、思わず、う〜んと伸びをする。 屋外に出されたおれの銀のクーペが陽に照らされ、きらきらと輝いている。 大きな荷物は昨日から積みっぱなしだし、後は乗り込むだけだ。 「ぼっちゃま」 振り返ると、今日は白のワンピースに身を包んだ巴が、細い瓶を二本差し出した。 「いつものスタミナドリンクです…今日は睡眠も不足がちですし〜…あのぅ…よろしければ」 「お、サンキュー…この時期には欠かせないぜ」 毎月恒例の『マ○ビ○ビン』という、なかなかトンデモ名だが、これで効き目が抜群の ドリンクが出て思わず笑ってしまう。 受け取るやすぐに一本を脇に抱え、もう一本の栓を開け、一気に飲み干した。 「しかし…これ、いつもどこで買ってるんだ?」 「え…と、駅前の薬局さんです〜…」 この商標名…巴が口にしてるのかなぁ…と、思い、ちょっと吹き出すが、おれの為だし、 何か健気に思えて、逆に嬉しくも申し訳なく思った。 「今度からネット通販で買ったら?」 すると巴はそっと首を振った。 「でも〜、これ、そこそこ良い値ですし…お得意さまが減ったら、お店さんが可哀想じゃ ありませんかぁ?」 思わず言葉に詰まる。 そういえば課のメンバーからの頼まれ分も含めると、毎月2ケースは買ってたっけ。 一本…○千円だから…まぁ…確かに。 「今、小売店さんって、量販店さんに押されて…結構大変なのですよ〜」 それは確かだろうが…巴も、これでうら若い乙女…恥ずかしい思いをさせるのは…。 「でも…名前が…」 思わず言ってしまうと、巴は左手に腰をあて、右手の人差し指を立ててちっちっちと舌打ちした。 …って、どこでそんな仕草を覚えたんだ? 「そういうのは〜…照れずに言うのがコツなのです〜…わたしが飲む訳ではありませんし、 …ぼっちゃまもまだまだ甘いです〜」 「そ…そうか」 「でも…お気遣いはとっても嬉しいです〜!」 にこっと笑う巴。 …まったりぽやぽやなんだけど…結構見る所は見てるし、それなりにしっかりしてるんだよな。 ま、本人がそれで良いって言ってるなら、それで良いか。 「二課の皆さんからのご依頼の分は積みました」 「じゃ…行こうか」 おれは助手席のドアを明け、素早く乗り込んだ。 「はいです」 ドアを開け、恐る恐る身を縮めて運転席に乗り込む巴。 例によってシートはぎりぎりまで後ろに下げ、リクライニングも少し倒している。 ドアを閉じ、三点式のシートベルトをつけると、おれの方を見、それから頷いた。 「ベルトも付けられましたね…行きますです」 軽やかにシフトチェンジさせて、巴はクルマを走らせた。 出し抜けに『ワンダバ』のメロディーが掛かり、おれははっとした。 ある特撮番組で防衛チームが出動する時の、勇壮さと決意を込めたような、それでいて リズムの良いテーマ曲をアレンジした着メロだ。 巴は運転中だから、当然おれが出なくてはならない。 充電器から外して、すぐにスイッチを入れて耳に当てる。 「もしもし…」 『おう…おはよう…そっちは…無事か?』 久しぶりに聞く声に、おれはほっと息をついた。 親父だ。つい敬遠がちになっていたが、今日は聞けてほっとする。 「ああ…おれも巴も無事にやってるよ」 『そうか…それは良かった。この時期だと、月次処理だな。出勤の途中か?』 「ああ…寝不足なんで、巴に運転してもらってるよ」 『ともちゃんが運転か』 親父のほっとする声が聞こえ、おれは思い切って切り出してみることにした。 「…なあ、親父……巴は…ともねえの分身だったんだな」 『…え…?』 親父の声が上ずった。 「今朝…全部聞いたよ…」 『…それは…彼女からか?』 「ああ、直接ね…まあ…色々あってさ…」 『………』 「あ、いや、誤解しないで欲しいんだが…おれ、感謝してるんだよ。親父とお袋に…」 『………』 「親父達が巴を選んで、おれの下へ寄越してくれた時、おれは何でこの娘なんだ…と 思った。けどさ…一年以上暮らしていくうちに…本気で惚れた」 『…おまえ…本気でって?』 「勿論、本気で惚れたんだよ…でもな…ともねえの事、ずっと引っ掛かってたんだ…」 『わたし達が…おまえに話さなかったのは…』 「おれが、巴を巴として大事にして欲しかったからじゃないのかい?」 『…そうだ…できれば…朋くんの心を受け継いだ彼女を、お前の傍に置いてあげたかった。 だが…できる事なら、巴くんとして…おまえにもまっさらな気持ちで接して欲しかったのだ』 「今ならその意味…良くわかるよ」 おれはちらと巴の横顔を見た。 巴の聴覚からすればすべて筒抜けだ。 運転に注視しているが、音声は総て聞こえているのは間違いない。 「ともねえの心は受け継がれても、記憶は受け継がれない…そういうものだったんだろ?」 『…確かにそうだが…何故、おまえはそこまで知ってるんだ?』 ふいに訝るような口調になり、おれは少し探りを入れるつもりでこう言った。 「…そうだな…オムニ・アメリカのジェニファー女史の一件…知っているかい?」 おれの逆の問いかけに、電話口の親父はかなり驚いた様子だった。 『おい…あれは…一部の者しか知らない極秘の…おまえ、何故、それを…』 「親父も関係者だったのなら…秘密は守ってくれそうだな」 『あたりまえだ!あれは…彼女の最期の大切な行為だった…口外など出来ない…』 「それなら…シンクロイド・システムはどうして、こういう歪んだものになったんだ?」 「ぼっちゃま?」 驚いた様子で、素早くクルマを脇に寄せて止めながら、巴がおれの方を向く。 今、世間を騒がさせているドロイド一斉機能不全事件が、シンクロイド・システムが原因だと いうのは、半分はアテ推量、半分は状況証拠からに他ならない。 だが、この際、はっきり知っておきたかった。 だから敢えて、はったりも交えて問い質してみる事にした。 「本来は人が生まれ変わる為のものだったんじゃないのか?」 『……電話口で話すような内容ではないが…』 親父がふっと溜めていた息をつく音が聞こえた。 『まあ良い…どうせおまえの携帯にも、重秘匿信号変換装置が付いているしな…』 「…いつ、そんなもの?」 『おまえも、まだまだ甘いな…』 ふっと親父の笑い顔が脳裏に浮かんで、おれは思わず失笑を浮かべた。 「どうせ巴を騙して、こっそり取り替えたんだろ」 『まあ…それで極秘事項のやり取りができるんだ…許せよ』 「この場合は良いけどさ…今度やったら、本当に訴えるぞ…」 『それを実証できるならな…』 「なあ…親父…ともかく、脱線してないで話を続けてくれよ」 おれは流石にイライラしてきた。 そうなのだ…親父とは、こういう得体の知れないやりとりが、いつも苦手なのだ。 だが、次の言葉は予想に反していつになく厳しい口調だった。 『シンクロイド・システムのことは誰から聞いた?それを教えてもらわない事には、 おまえと言えども、これ以上、一切話せんぞ』 これには、おれはちょっとカチンときた。 「…ちょっと待てよ!…身内の恥はバラしたくないってわけかい」 『なに!?』 「この一件、オムニ・ジャパンが資本提携している、かの有名ドロイドショップチェーンが 絡んでいるじゃないか…違法改造なんでもござれの…さ」 『…な……何故それを…』 「そこでのトラブルに、おれと巴は危うく巻き添えに遇う所だったんだよ…銃を突きつけ られてさ…しかも戦闘用ドロイドまでいてさ…。この意味…判るかい?親父」 『…そんな…馬鹿な』 「おれも口止めされていてね…これ以上は口外すると、命が危ういんだよ」 勿論半分は嘘である…が、バンたちの事は、彼らの許可を貰わなくては絶対話せない。 「ま、最悪にして親父たちがオムニ・ジャパンで、その昔にされた仕打ちを考えると、 そういう連中に手を貸していたとしても不思議じゃない…」 『待て!…我々がそんな事をすると本気で思っているのか? 』 「真実を話さず、実の息子が被害に遇ったってのに…その態度…信じられると思うのかい?」 『…………』 「それに…今、親父たちは何をしているんだ?街は大変な事になっているんだぞ!」 …暫くの沈黙があった。 時計を見ると…もうかなり経っている。 親父の息づかいらしきものは聞こえるが…返事は無い。 こちらが折れるのを待っているのか? 冗談じゃない…もし彼らが本当にテロリストやエージェントだったら、おれたちの命は 無いんだぞ…ましておれは、巻き込まれた一人として訳を知りたいだけなんだ。 今回の事は何故起きたのか…と。 「…わかったよ…おれは事件の当事者として真実を知りたかっただけだが…仕方ないな」 おれはついに宣告した。 「巴の件では本当に感謝するけど…おれはもう一切、貴方とは話さないよ…これっきりだ」 「ぼっちゃま…!?」 巴が悲痛な声を上げる。 「じゃあな…」 『あ、待て…』 受話器から小さくそんな声がしたが、おれは構わずスイッチを切った。 「ぼっちゃま…そんな…」 巴が狭い車内にも構わず、何度も首を振った。 「いけませんです…あれでは絶縁宣言です〜」 「確かにそうだ…でもな…あれは賭けなんだ」 おれも頭に血が上っていたとは思う。 でも、あくまで企業秘密をタテにガンとして何も言わない親父の姿勢には本気で腹が立った。 確かに、秘密を守る事の重要性はわかる。 だが、ここまで事実を知っている者を信じないのは…。 まして、家族なのだ。もっと信じてくれたってよかろう。 親父が企業秘密だと言うのなら、ある程度でも良いから情報公開すればよいのだ。 おれは、少なくとも…知っている情報の幾つは提示したのだ。 それなのに突然打ち切る辺りがあまりに腹立たしかったのだ。 しかもだんまりは決め込むわ…。 だからその為に、イチがバチかの大博打を打ったのだ。 暫くすると『ワンダバ』が鳴り、おれは暫く放っておいたが、巴の視線に仕方なく 携帯を手にしてスイッチを入れ、耳にあてた。 「…もしもし」 『…出てくれないかと思ったわ』 お袋の溜息混じりの声が聞こえた。 「かあさんか…なんだい?」 『なんだじゃないわよ…お父さん…すっかり凹んでるわよ』 「…信じられないな…息子たちが酷い目に遇ったってのに、その原因のひとつも何にも 話してくれないんじゃ、こっちから縁を切らせてもらうよ」 『…ひとつも話さない…ですって?』 お袋の声が一オクターブ上がった。 そして受話器の無効から、なにやらごそごそやっている音が聞こえてきた。 …うん…うん…それで? ということで…おれは… ばか! お袋の一喝する声が聞こえ、おれはにやりとした。 そんな事だから、信用失くすのよ…もう良いわ! 再び受話器を取る音がして、おれは人差し指と親指で丸を作って巴に見せた。 『はぁ…ごめんね…全く、お父さんったら、ヘンに堅い上に、ジらしてたみたいよ』 こういう時は、お袋の方がよっぽどさばけている。 『でも…くれぐれも口外しないでね』 「できれば、極力そう努めるけどね…最終的な判断は…おれがする」 『……まあ、命の危険に晒された位なら…その判断はできそうね』 様は最悪の場合、黙認ということだ。 『良いでしょう…では、ともちゃんも聴力の感度を上げて一緒にお聞きなさい』 「は…はい、お母さま」 思わずそう答えた巴の声が聞こえたらしく、お袋の躊躇する声が聞こえた。 『…おかあさま?』 「あ〜、そういう突っ込みはもう良いから…おれ、仕事に向かう途中だし」 慌てて言ったおれに対し、お袋がくすっと笑う声が聞こえた。 『ま、仲良くおやんなさい…そうそう、ちょっと確かめさせてもらうわね』 おれたちはちらと顔を見合わせ、思わずふっと苦笑しながらも次の言葉を待った。 『あのね…あなたたちがドロイドショップで遇ったっていうトラブルの事だけどね、実は ここ最近幾つかあって、どれだか特定できないんだけど』 カチャカチャという音は、多分、キーボードかマウスを操作しているものだろう。 おれは小さく頷いた。 「それは…たぶん、ある人が、おれたちの入場記録を抹消してくれたんだろう…一昨日… 新聞沙汰にはなっていないが、警察に通報された事件で、戦闘用ドロイドの残骸が 見つかったものがあったはずだ」 『ん…これね……○○駅前店にて…』 暫し読み上げる声がした。 『確かに…あんたのうちからは一番近いわ』 「これで信じてくれるかい?」 『もちろんよ。そっか…その何者かは、データを消して貴方達の身を守ってくれたのね…』 流石はお袋…目の付け所が違う。 だが…少し気になるぞ。 「ちょっと待った…瞬時にそこまで判ったってことは…」 『もちろん…どのショップが怪しい動きをしているかは、だいたい掴んでいるのよ』 「…驚いたな…良くそんなシステムを持っているな」 『このところ、ドロイドの違法改造とか、武器を内蔵化して密売とか問題になっているからね。 それで念のために、チェーンショップの開店時には、必ずセキュリティ・システムを導入の上、 こちらで確認できるようオンラインを整備するよう、条項が加えてあるのよ。それでももちろん、 表向きは、普通のセキュリティが目的だけどね』 「…そのシステムには、警察も加わっているみたいだな」 『良いカンしてるわね。警察としても、非合法改造ドロイドや、武装化の取り締まりに苦労して いる訳。だから、専門の部署があってこっそり対処してくれているのよ。 …正直言ってしまえば、貴方が言うように、これはウチの資本下のショップ…身内の恥。 むしろ、わたし個人としては、世間一般の社会問題として、膿を出す為にも、むしろオープンに した方が良いのではないかと思ってはいるのよ』 お袋のこういうところは、政治的な駆け引きをしがちな親父より、ずっとすっきりしている。 『ただ、今は敢えて、表立ってそういうショップの事を明かさない事で「敵」に焦りを与え、 プレッシャーをかけて、様子を見ているのよ。じわじわと追い詰めて行こうってね…』 「…かあさんは…関係会社のセキュリティまで担当していたのかい?」 まるで警備主任のような、歯切れの良いお袋の解説には、さすがにちょっと驚いた。 『違うわよ…正確には情報処理、伝達、保存技術研究部部長…まあAIが主務なんだけど、 こういう事態が発生したときは、情報が絡んでくるでしょ?で、内密に監査もやっているわけ』 「…秘密と言った訳が判ったよ…様はそれが知られるとマズイんだな」 お袋の悪戯っぽい声が返ってきた。 『ま、そういうこと…わたしたちは本来、正規の監査役ではないからね、さしずめ隠密監査』 おれはちらと巴を見、それから思い切って重大事項のひとつを尋ねてみた、 「それで、その違法ショップの正体は判っているのかい?」 淀みない回答が返ってきた。 『テログループ・新人民解放連合の下部組織…様は武器売買と組織の資金調達をする連中』 「それは…警察に伝えてあるのかい?」 『もちろん…内密に処理しようなんて思ってないし、出来ないわよ』 「じゃ、シンクロイド・システムのことは?」 『これについては…最新技術だからね…』 流石のお袋も、少しためらった様だが、思い切った口調でこう言った。 『最悪な状況の場合…手を貸してくれるなら…話しても良いけど』 何をもってして、最悪な状況なのかは判らない…。 だが、お袋の言葉に駆け引きは感じられず、むしろ助けを求めているニュアンスが感じられた。 とはいえ、おれの立場もあるし…。 「一介のサラリーマンであるおれに、手助けができるようなものかい?」 まずは様子を伺ってみるか。 『…サラリーマンか…そうねえ…貴方の立場は確かにあるから、呼び出すのは難しいかな… でもね、貴方の傍には、今、ともちゃんがいるでしょ?これって結構、大事な切り札になり得るのよ』 巴の名が出たことにおれは驚き、巴もぱちぱちとまばたきしてこちらを見守っている。 「…シンクロイド・システムの実験を受けたからかい?」 『そういうこと。そうね…じゃ、まずひとつだけ教えてあげるわ』 「あまり焦らされている時間も無いんだがな…」 『判ったわ。じゃ手短に…あれはね…テロリストに奪われて起動されたシステムが、今、周囲に存在する ドロイド総てを、完全に思考的に自分と同化しようと躍起になっているのよ』 「思考的に同化…ってどういう意味だよ」 『つまり、自分と同じ意識に書き換えようとしてるの…すべてを自分の一部に…ってね』 「それって…なんだっけ…ほら…外国のSFであった…<抵抗は無意味だ>っていう」 『あたり!意識共同体ね…つまり総てをひとつの意思としてコントロールしようとしてる訳』 「……シンクロイド・システムって、人がドロイドの身体に意識を移して生まれ変わる…それが本来の 目的じゃなかったのか?そんな弊害があったのか?」 『もちろん、そんな事は想定していなかったし、本来あり得なかったはずよ』 「じゃ…どうして」 『…良く考えてごらんなさい。元々、シンクロイド・システムには被験者が必要なはずでしょ?今回の 騒ぎはテロリストからの声明も無いし、被害に遇っているのはドロイドたちばかり』 「…ということは…まさか」 『ドロイドが、シンクロイド・システムを使って暴走させている可能性が高いのよ』 「…そんな事、あるのかい?」 『証明はされていないわ。でも、その可能性が一番高いと思うのよ』 「…ドロイドたちには、どうして影響が出たり出なかったりしているんだ?」 お袋の苦笑いする声が聞こえ、おれははっとした。 気が付くと、かなり突っ込んだ内容を聞いてしまっていたのだ。 『結果的に…あんたの誘導尋問に引っ掛かったみたいね』 「あ…いや、そういうつもりじゃ無かったんだが」 『いいわ…貴方の熱意に負けて、はじめから総て話しましょう』 かなり時間が経っていたが、この際、仕方ない。 「たのむよ、かあさん」 『…シンクロイド・システムは、多分、貴方も知っていると思うけど、本来は被験者とそれに コントロールされる、本人に、より近いドロイドと特別なユニットによって成されるものなの』 「でも、わたしは…違いますけど」 巴の声が聞こえたらしく、お袋は嬉しそうに鼻声で言った。 『ふふ…ともちゃんね…?…そうね。一次実験の時は、まだ素体が完成していなかったのと、 実験データがあまりに少なかったから…でも結果は悪くなかったの…記憶面を除けばね』 「マルチリンクがかかっている間のみ、記憶も共有できていたようです」 『正解…でも、巴ちゃんの中の、朋ちゃんの記憶はリンクが絶たれると消えてしまう…それでは いくらなんでも可哀想だから…というので一次実験は中止になったの』 「それで通常のAIのシステムで記憶部分を構成し直して、今の巴になったんだな」 『そう。で、シンクロイド・システムの第二次試験では、より突っ込んだ研究が成されたの。 たぶん…巴ちゃんが覚えているのはそっちじゃないかな?』 そういえば、巴は確かに『臨床実験は一度だった』と言っていた。 …ともねえとリンクしていた時の記憶が欠落しているのなら、合点もいく。 『それは完成度の高いもので、朋ちゃんと、そっくりなドロイドの娘が完全にマルチリンクするばかりか、 アクセスが切り離されても記憶障害の無いものだったわ』 「じゃ…完成したのか」 『…完成したわ。でもね、オムニ・アメリカ本社に伝えた所、当時のプレジデントが、これは危険だから これ以上の開発はやめるよう言ってきたの』 「テロリストの親玉の分身が何人もボコボコ出てくるのは困る…ってね」 『でも、勝手なものよね、その後のプレジデントが…自分の身代わりを考えて改めて開発を命じて… それなのに、やっぱりまたボツにしたりして』 なるほど…バンたちが関わったのはその辺りだな…と、おれは気付いた。 『でも、朋ちゃんは、その考えに納得して、総てをオムニ・ジャパンに封印したの。…だけど』 「テロで重症を負い…そのまま」 『そう…シンクロイド・システムのオリジナルの存在を嗅ぎつけた連中の為に…ね』 巴がおれの瞳をじっと見つめる。 おれは大丈夫と言う様に頷き、そっと巴の頬に右手を添えた。 『巴ちゃんに一時休眠してもらったのは、その為だったの…その時は、まだリンクは切れて いなかったから、もしかすると朋ちゃんとしての記憶が蘇る可能性がある。もしそれが 知られたら…』 「………」 『朋ちゃんは…その危険性を感じて、亡くなる直前、分身の一人である巴ちゃんにそれを頼んだの』 「だから…ずっと眠っていたんだな」 『時が経てば、シンクロイド・システムの事は忘れられ、巴ちゃんも単なる実験に携わった一人に 過ぎなくなる…そんな時、貴方が家を出ると言った…』 「それで…巴を再起動して目覚めさせたんだな」 『………』 「かあさん…」 おれは…いつに無く精一杯の感謝の気持ちを込めて…電話口ではあったが頭を下げて言った。 「ありがとう!…おれに巴を託してくれて…ともねえの心を蘇らせてくれて…」 暫くの沈黙があった。 だがそのうち、微かにしゃくり上げる音が聞こえ、鼻をすすりながらのお袋の声が返ってきた。 『…本当は…貴方が事実を知ったら… どうだろうと…とても心配だったのよ…』 「かあさん」 『父さんも言っていたけど…朋ちゃんの心は貴方に託したい。でもね、巴ちゃんは巴ちゃんとして 真っ直ぐに見てあげてほしかったの』 「今なら…多分…誰よりもそれを…おれが一番良く判る…そう思うよ」 『憎いこと言うじゃないの、我が息子殿』 お袋の泣きながらの冷やかし声が、胸にじ〜んと響いていた。 巴は目を閉じ、頬に添えられたおれの手を、そっと握り締めてくれた。 『…ごめん…先を続けるわ』 お袋が気を取り直して、少しだけ早口で続けた。 『それから暫くして、ある研究者から、本来のシンクロイド・システムは人間用だけど、これをドロイドが 使ったらどうなるのか…という提案があったの。もし可能なら、一体をコントロール用のメインサーバー として一斉に命令を伝えて、様々な人海戦術を要する業務に応用出来ないか…ってね』 「…それは当初の目的と違うじゃないか」 『明らかに違うわ…でも、過去の研究結果を無駄にするべきでは無いという意見が出たのよ…』 「本来の目的以外なんて…人海戦術なんて…兵器転用だって…あり得るじゃないか」 『それに…ここが重要なんだけど…本来は、被験者の意識を新しいドロイドが得て、それから共有する ものの筈でしょう?…それを…もし、それをまっさらでない、既に心を持ったドロイドたちに使ったら…?』 おれは愕然とし、目を開けた巴も顔色を変えた。 「…そうか…今のこの現象は…」 『わかった?…例えて言えば、ひとつのデバイスを使うのに、ドライバがふたつ以上あって干渉しあい、 動作不能に陥っているような状態なのよ…まあ、実際は『心』の部分だから、単純な話ではないの たけどね』 そう言ってお袋は一旦言葉を切り、そして口惜しげに言った。 『で、ともかく実験してね、これは使えないって言っていた直後に、奪われてしまったのよ!』 「そいつはひどい…。……でも、一体、どうやってリンクを…」 言いかけて、おれは再びある事に思い当たった。 「…マルチリンク…システムですね。ぼっちゃま」 流石にこういう時の巴は頭が切れる。 「そうだ。常時、各種のデータをやりとりして、情報や経験値を集めるシステムだ…」 『その通りよ。あれに…シンクロイド波を情報データに変換して乗せたから…軒並み皆やられたのよ』 「…ともねえたちが心血注いで作ったシステムなのに…くそっ…」 『幸い、心ある、市井で人間達と暮らしているドロイドたちは、自我と意識を守るために、システムを シャットダウンして、今は強制スリープモードに移行して、『待機』しているけど…社会生活は知っての 通りボロボロ。その上、まっさらな状態の、まだ心の無かったドロイド達が工場やショールームとかで 破壊活動を行っているという情報も入っているわ…』 「そうか…だからマルチリンク・システムを使っていないドロイドは無事だったんだな」 だが、そう言い掛けて、おれはふと疑問に思った。 「ネネやチャチャたちはそれで説明できるけど…どうして巴は無事だったんだ?ここ数日の様子から すると、記憶が少し戻ったりで、多少は影響が出ているみたいだぜ…まあ、実害は無いけどさ」 巴も心配そうにこくこくと頷く。 『…その理由は…ちょっと言いずらいんだけど…』 お袋が少し苦しげな、言い難そうな口調で言った。 『たぶん…相手のドロイドは…巴ちゃんを自分と対等か、それ以上の存在と認識しているからだと思うのよ』 「対等か…それ以上って…どういう意味だよ」 『奪われたシステムは完成機…そして巴ちゃんのかつてのデータが残っていたとしたら…?』 「…そうか…」 おれはやっと理解できた。 「…改めてデータを送るのでなく、巴の事を、既に自分の一部と認識している可能性があるんだな」 『そう。ただ、問題の…今シンクロイド・システムを操っているドロイドがね…』 「ドロイドが…?」 お袋は一旦言葉を切り、それから一気に言った。 『…かつての朋ちゃんそのものの姿だったとしたら…貴方、どうする?』 「な…なんだってっ!?」 おれは、携帯を離し、改めて巴を見つめた。 黒く澄んだ瞳がじっとおれを見つめ返す。 確かに…考えてみれば、シンクロイド・システムは被験者の他、本人そっくりなドロイドが最低一人は 存在する筈…しかし…しかし、こんな形で利用…しかも悪用されているなんて…。 だけど…それって…本当なら、ともねえの完全な分身では無いのか? もしそうなら…何とかして解放してあげたい。 そして、それから…できることなら…。 …そこまで、一瞬考えかけたが…おれは、目の前の巴が、精一杯元気そうに笑顔を浮かべようと している事に気付いて、改めて巴の髪に手を触れ、大きく頷いて見せた。 やっぱり黒く澄み切った瞳が潤んでいる。泣き虫だな…でも…おれの為にだもんなぁ。 あ〜!畜生…やっぱり可愛いじゃないか! 誰よりもおれを気遣い、おれを愛し、信じ…そして…そして、そして…。 それに、この娘にだって「ともねえ」の心が生きている。 そうだ…もう迷うまい。 おれにとって、今、一番大事なのは巴なのだ。 一年以上、共に一緒に生きてきた、この娘なんだ。 問題のドロイドの解放はしてあげたい。 でも、それまで、昔のともねえの姿に騙されてはいけないのだ…。 この混乱を招いている現況である以上、あくまで、ともねえの姿を借りた亡霊だと思わなくては…。 決して惑わされてはならないぞ。 そんな言葉を自分自身に言い聞かせる。 「ぼっちゃま…」 巴が再びおれの手をぎゅっと握り締める。 「おれは、巴と居る…だから心配するな」 「は…はいです!」 巴が涙混じりの瞳で頷く。 おれも、しっかりともう一度頷いて返し、携帯を改めて耳にあて、それからひとつ、大きく深呼吸 してから、きっぱりと言った。 「わかった。その、最悪の状況を何とかする時は…手伝わせてもらうよ」