お別れ会の後は、いつも通り、帰りの会があって、それから掃除の時間だ。千裕ちゃんは 掃除当番だった。この学校に来る最後の日でも、そういうのはいつも通りらしい。 ぼくは考えた。よし、いったん急いで家に帰って、それからまた来よう、と。 うつむいた顔で黙々とホウキをさばく千裕ちゃんを横目に見ながら、ぼくはランドセルを あらっぽくつっかけて教室を飛び出した。 ぼくの家は学校から歩いて2分とかからない。ママへの帰りの挨拶もそこそこに急いで自 分の部屋に入ると、ぼくはお気に入りのぬいぐるみを掴んだ。パパが海外出張のときにお みやげに買ってきてくれたもので、パパもママも、いつも 「まったく、男の子のくせに、こんなのがすきなんだから」 と言って笑っていた。ぼくがクラスの友達を家に呼びたがらない理由の一つが、この部屋 いっぱいの人形だった。 ぼくの持っている中でも、これはいちばんお気に入りのやつだ。今までだったら、誰かに これをあげようなんて、思いもしなかった。だけど、今、千裕ちゃんに最後に何かしてあ げられたらと思うと、他のものは思いつかなかった。 「行ってきます!」 ぼくはママの顔を見ずに、また飛び出した。 「ちょっと、和彦!あんたどこに・・・」 ママの声が背中の向こうから聞こえたが、ぼくは無視して、また学校に一目散に戻った。 はあ、はあ、はあ・・・息を切らしながら、校門のところに立って、千裕ちゃんを待った。 もう先に帰っちゃってたら、どうしようと思ったが、今日同じく掃除当番だった中村やウ ッチーも今出てきたところから、きっとまだに違いない。 (あっ!) と、ぼくの胸が高鳴った。千裕ちゃんだ。やっぱり今日も一人だ。前はいつも誰か女子と 一緒に下校してたけど、最近はいつも一人で帰っていた千裕ちゃんは、やはり今日も一人 だった。よしっ。 ぼくはおもむろに千裕ちゃんのそばに歩み寄った。 「やあ」 と、無理に煮え切らない笑顔をつくって、千裕ちゃんに挨拶した。 「吉屋君・・・」 千裕ちゃんが怪訝そうな顔でぼくを見た。そりゃ、そうだろう。今日まで二人で話したこ となんて、ろくになかったぼくが待ちぶせていたのだから。 「あのさ・・・相沢さん、今日でこの学校、最後だろ」 千裕ちゃんは答えず、静かに首を縦に振った。一瞬、ぼくはその首がころっと転がったら どうしようと、あの日の光景を思い出してしまったが、顔には出さなかった。 千裕ちゃんは、あきらかに警戒している様子だった。 「あのさ・・・それで、この学校の思い出にと思って・・・その・・・これをさ、君に、 やるよ」 と言って、デパートの紙袋につめてきたぼくの大切な宝物を渡そうとした。 「えっ。だって、そんな・・・」 千裕ちゃんは戸惑っている様子だった。でも、どうしても受け取ってほしかったぼくは、 「いいから、あげるよ。大事にして、な。これからも元気でな」 と、なかば押しつけるように渡して、それから逃げるように走った。 走りながら、 (ふぅっ。これで、とにかく渡せたぞ) と、満足感を得ていたぼくだったが、同時に、千裕ちゃんと話すのはこれで最後のはずな のに、あんな中途半端な会話しかできなかったことに悔しさもこみあげてきた。 まっすぐ家に帰ったぼくは、またそのまま部屋に直行した。ひとまず机にかけて、心を落 ち着かせようとしたが、なかなか興奮が冷めなかった。 あとで思えば、ばかばかしいぐらいだ。別に手をつないだんでもないし、コクハクしたわ けでもないんだから、こんなに高揚しているなんて、変だ。だけど、それでも、ぼくの胸 はまだ高鳴っていた。 どれぐらいの時間が経ったんだろう。ずいぶん経ったように思えるけど、まだ30分ぐら いしか経っていなかったかもしれない。玄関の呼び鈴が鳴った。 (ン?もしかして・・・) ぼくは少しの間、いろいろと考えをめぐらしたが、ほとんど考えるまもなく、ママが部屋 に入ってきた。 「和彦、お友達よ」 ママはいつもの調子で言ってから、 「かわいいお嬢さんよ」 と、嬉しそうな顔をした。 ぼくの家に学校の友達が訪れてくることは滅多にないことだったし、ましてや女子が来る ことなんて、一度もなかったから、ママは驚いたんじゃなかろうか。 ぼくが玄関に向かうべく立ち上がると、 (あんたも、なかなかやるじゃない!) とでも言いたげな笑顔を見せた。 「やあ・・・」 ぼくが少し上ずったような声で玄関に迎えたのは、果たして、千裕ちゃんだった。 「あのね、吉屋君」 千裕ちゃんが、小さな声で言った。 「あのう・・・さっき帰って、圭子博士にこれを見せたんだけど・・・」 「ケイコハカセ?」 「あ・・・え〜と、その、うちのお母さんにこれを見せたんだけど・・・」 そうか、お母さんのこと、博士って呼ぶのか。ぼくは変なことに感心してしまった。 「そしたら、これはすごくいいもので、きっと高いものだって。こんなもの、簡単に貰う わけにはいかないから、向こうのお母さんに、確認して、もしいいって言ったら、よーく お礼を言ってきなさいって」 と、千裕ちゃんはさっきのぬいぐるみを袋こと掲げて、ぼくと後ろにいるママに見せよう とした。 ぼくは慌てて、 「ち・・・ちひ・・・じゃなかった、相沢さん、あの、え〜と、ここじゃナンだから、ち ょっと外へ」 と、千裕ちゃんを回れ右させると、そのまま押し出すように、玄関の外に出させた。 おそるおそる後ろを振り向くと、ママが不審そうな顔で覗き込んでいた。まずいまずい、 大事にするって約束したのに、人にあげちゃいけないもんな。 とりあえず、ぼくは家の裏手にある児童公園に行くことにした。ここは狭いけど、木に囲 まれていて静かだし、球技や何かができないから、クラスのやつらが放課後に来る心配も まずない。事実、そのときも小さな子どもが何人かいただけだった。 ぼくはどうしたらいいかわからなくて、ともかく目についたブランコに腰を下ろした。 すると、千裕ちゃんもぼくの隣のブランコに静かに腰をおろした。 しばらくの間、ぼくも千裕ちゃんも無言だった。先に口を開いたのは千裕ちゃんのほうだ。 「吉屋君、さっきの話なんだけど、これ・・・」 と、もう一度、ぬいぐるみの入った袋を挙げた。 「いいんだよ、あげたんだから。転校前の記念なんだから」 ぼくは、ややぶっきらぼうに言って、視線をそらした。 「だって・・・吉屋君にこんな高そうなもの貰う理由なんて・・・」 千裕ちゃんが、まだ納得いかなそうな声で言うから、ぼくは、 「いいから、受け取ってよ。だって・・・」 “ぼく、千裕ちゃんのことがすきなんだもん。”・・・言え。言うんだ。今、言わないで どうするんだ。 「その・・・・ぼくらの学校にいた思い出になれば、いいじゃん、ねえ」 ああ、何を言ってるんだ、ぼく。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。 「お母さんはいいって?」 千裕ちゃんが角度を変えて質問してきたから、結局、ぼくはコクハクする機会を逃してし まった。 「うん、転校する友達がいるって言ったら、何か大切にしているものでもあげなさいって ね」 ぼくは不自然なウソを言って、ため息をついた。 「だから、大事にしてくれよな」 ぼくだと思って・・・なんて大胆なことはとても言えない。 「うん・・・わかった」 千裕ちゃんがうなずいた。 用事はそれで終わりだったから、千裕ちゃんはブランコから立ち上がろうとした。ぼくは あせったように 「あ・・・あのさ・・・」 急いで何か話題を見つけて、千裕ちゃんを引きとめようとした。 「え・・・と、その・・・相沢さんは、ママのこと、博士って呼ぶんだね」 ああ、何を言ってるんだ、ぼく。そんな話をしてどうするんだよ。 「うん・・・相沢博士と圭子博士は、20代で博士号をとったんだって」 ふうん。それってすごいのかな。 「わたしの設計から制作まで、ほとんど二人だけで手がけて完成したの」 セッケイ?セイサク?ああ、つまり、その・・・ 「本当はね、わたしの正体は誰にも知られちゃいけなかったの。相沢博士と圭子博士は、 わたしが人間の学校の中で、どれだけ違和感なく受けいれられるかを調べるために、わた しをあの学校に通わせることにしたんだって」 千裕ちゃんは落ち着いた調子で説明し、 「だけど・・・もうそれもできなくなっちゃったから・・・」 と、寂しげにうつむいた。 ぼくは、実は自分がたっちゃんの「計画」を前もって聞いてきたこと、だけど防げなかっ た−いや、防がなかったことを正直に言って、謝ろうと思った。 だけど、いざとなると、どうしても言えなかった。言えば、千裕ちゃんにぼくのお気に入 りをあげた意味が「罪ほろぼし」だと思われてしまうかもしれないし、言う勇気も出なか った。 「また、どこかの学校に行くんだろ」 ぼくが言うと、千裕ちゃんは首を横に振って、 「ううん。もう社会性の実験はどうせ終わったからいいって。あとは、耐久テストと燃費 テストを重ねるんだって」 と、また寂しそうに言った。 そうか、千裕ちゃんは、もう人間の学校には通わないのか。ぼくがちゃんと気をつけてあ げてれば、もっとずっと通えたかもしれないのに。・・・ 「じゃ、わたし、そろそろ戻るね」 と、千裕ちゃんは、ブランコから立ち上がろうとした。 「あ・・・ま・・・待って!」 ぼくが場違いに大きな声で言ったら、千裕ちゃんは、また不審そうに眉を下げてぼくの顔 を見た。千裕ちゃんの大きな瞳に見つめられ、緊張してしまったぼくは、 「あのさ・・・その・・・できれば、なんだけどさ・・・」 頭の中の混乱を必至に抑えながら、言葉をさがした。何を言ったらいいんだろう。 「ぼくにも・・・何か記念になるもの、くれないかな」 声を抑えたつもりが、緊張のせいか、かえって素っ頓狂な大声が出てしまった。 「え・・・だって、今、わたし・・・何も・・・」 千裕ちゃんは困ったように両のてのひらをほほにあてて、ぼくを見た。 「き、き、君の・・・部品を一つ、記念に、もらえないかな」 意外だった。自分で自分の台詞が意外だった。すきだ、とも言えないぼくが、こんな変な ことを口走るなんて。まるでヘンタイみたいだ、と、そのときのぼくですら思った。おカ メあたりだったら、 「キモい!」 とでも叫んだに違いない。顔からのどのあたりが焼けるように熱く感じ、ぼくはついまた 下を向いてしまった。 真っ赤になりながら、おそるおそる千裕ちゃんの顔を見上げると、千裕ちゃんは少し首を かしげて、考えている様子だったが、冷静な声で、 「うん。わかった」 と言った。 「え?いいのかい?」 「うん・・・博士がいつも、人間のひとに何か頼まれたら、こころよく引き受けなさいっ て言ってるし」 そう言って、千裕ちゃんは、ブランコに座ったまま、鎖をねじって反対を向いた。 何をしているんだろう、と、ぼくが覗き込もうとすると、 「あ。いや!恥ずかしいから見ないで!」 と慌てたように言って、ガチャガチャと音をたてていた。どうやら、おなかを開けて中を いじってるようだ。ぼくは見たくてたまらなかったが、さすがに我慢して、千裕ちゃんの 作業が終わるのを待った。 千裕ちゃんはブランコをこっちに向けて、 「はい」 と、両てのひらを出した。 てのひらには、ピカピカの銀色のネジがのっていた。見たところ、どこにでもある普通の ネジみたいだ。長さは4センチぐらいだろうか。千裕ちゃんの細い体のイメージとは逆に、 けっこう太くてしっかりしたネジだ。 「もっとほしい、とか言わないでね。これ以上はずすと、バラバラになっちゃうから」 と、恥ずかしそうに言って、千裕ちゃんはようやっとかすかに笑顔を見せた。 「うん・・・ありがとう。ごめんね」 ぼくが小声で言うと、千裕ちゃんも 「ううん。わたしのほうこそ、どうもありがとう。大切にするからね」 と、ぬいぐるみをなでた。 「元気でね。もう人間にいじめられないようにね」 ぼくの言葉に、千裕ちゃんはやわらかい笑顔で、 「うん・・・」 とうなずいた。 ぼくがそっと右手を出したら、やさしく握りかえしてくれた。はじめて触れる千裕ちゃん の肌は、気のせいか少し冷たく、ひんやりとしていた。 それから、千裕ちゃんは 「じゃあ・・・」 と立ち上がって、しゃっきりとした足取りで帰って行った。なぜだろう、ぼくは、何とな く立ち上がりかねて、ブランコに座ったまま、呆然と見送ってしまった。 いつも通りの白い清潔そうなカーディガンと薄い水色のスカートがだんだんとぼくの視界 の中で小さくなっていった。 「待って!ぼく・・・ぼく・・・実は・・・ずっと前から、千裕ちゃんのことがすきだっ たんだ!」 その言葉をのみこんだままのぼくはもう一度、手にしたネジをにぎりしめた。なぜだかわ からないけど、無性に涙がこみあげてきた。 あれから千裕ちゃんがどうなったのか、どこに行ってしまったのかは、わからない。 クラス名簿に載っていた家は、もう数日後には誰か別の人の家になっていた。 クラスの中には、実験に失敗したからカイタイされちゃったんじゃないかとか、タイキュ ーリョクを試すテストで壊れちゃったらしいなんて、無責任な噂をしているやつらもいた が、本当のところはわからない。 はっきりしていることは、結局、ぼくは千裕ちゃんを守ってあげることも、思いを告げる ことも、両方できずじまいになってしまったということ。・・・ 7年が経って、大学受験のために今夜も半徹夜で勉強しているぼくの机のすみっこに、布 にくるまれたあの日のネジがある。 ぼくが舐めたものだから、だいぶサビてしまったネジは、今もぼくの机にあり、鈍い光を 放っている。そして、勉強に疲れたとき、たまに手にとるぼくに、あの日の後悔を想い起 こさせている。・・・