優の簡易修理から一週間余りが経った。 その間に啓太も退院した。リハビリは順調とは言いがたかったが、ともかく親子4人で 高崎に帰って、またやり直そうと決めた。優も学校に戻る決意を固めたようだった。 ここ四万(しま)温泉・駒乃館に一家で住み込む生活ももうすぐ終わりということになりそうだ。 今夜は、駒乃館の娘にして亜沙子の旧友でもある琴子が太郎と正式に婚約したことや、 女将の絹子が大学に合格したこと、さらに絹子と主人の隆行の結婚記念日祝いも兼ねて、 従業員総出でささやかな祝いの宴をもよおすことになっている。 祝宴が一段落して、そろそろ片づけが始まろうとした頃、琴子が優のところにやって来た。 「優ちゃん、ちょっといいかな」 「はい、何ですか」 「二人で話したいんだけど・・・私の部屋に来てくれる?」 琴子にそう言われて、優はにわかに不安がこみあげてきた。 私が太郎さんをすきだったってこと、今でも太郎さんのことをふっ切れずにいるってこ とは、琴子さんには知られていないはずなのに。どうしてだろう。・・・ 「え。でも・・・」 心細い表情でためらう優の手をとり、 「いいから、ちょっと。すぐ終わるから、ね」 と、琴子は強引に自分の部屋へと連れ出した。 「どうしたのかな、琴子さん。いきなり優と話したいなんて」 事情を知らない啓太が太郎のほうを向くと、太郎は 「さあ、どういうことでしょうね」 と、顔をこわばらせながら、決して啓太のほうを向こうとしなかった。 厨房で膳の片づけをしていた亜沙子の耳に、同僚仲居の小梅や竹子、松葉たちの無遠慮 な話し声が聞こえた。この連中は、いつも人目をはばからずに大声で人の噂話ばかりして いるので、亜沙子の耳にもいやがおうにも入ってきた。 「琴子さん、何か優ちゃんに話があるとか言ってたわね」 「何なのかしらね。もしや、太郎さんと優ちゃんに何かあったとか?」 「まっさか〜。だって、優ちゃんいくつよ」 琴子が優に?何だろう、いったい。亜沙子は思った。 亜沙子は琴子を昔から知っている。信用のおける親友だと思っている。優のこともいつ もかわいがってくれている琴子のことだから、心配は要らないはずだ。 とは言うものの、奇妙な胸騒ぎで落ち着かなくなった亜沙子は、竹子たちに、 「ごめん。後、お願いね」 とだけ言って、厨房を離れ、琴子の部屋のほうに向かった。 琴子の部屋は、普段、琴子が東京にいる間は使っていないが、かつてここに住んでいた ときのままになっており、今夜は太郎もこの部屋で寝る予定になっていた。 琴子の部屋に 「ちょっといい?」 と入る前に、亜沙子は、中から漏れてくる声を立ち聞きし、話の状況を掴もうと思って立ち止まった。 「いえ。だからね、私は別に優ちゃんを責めているわけじゃないし、もし本当にそうだか らと言ってどうこうっていうつもりはないのよ」 琴子の声だ。 「でもね。わからないことはさ、ホラ、ちゃんと確かめておきたいのよ」 何のことだろう。 「優ちゃん。あなた、人間じゃなかったのね」 琴子のセリフは、廊下の亜沙子を打ちのめし、蒼白にさせるに十分だった。 「あなた・・・本当はロボットだったのね」 亜沙子は、そのまま逃げるように自分の部屋に帰った。 どれぐらい時間が経ったのかはわからない。 音もなく、ふすまが開き、優が部屋に入ってきたようだ。 亜沙子は、つとめて明るい声を作って、 「あ、優。今日もお疲れさま。今夜は、もう早く寝ようか」 と、優の顔を見た。 案の定。 優の顔は完全に固まっていた。うつろな瞳はどこを見ているのか焦点が定まらなかった。 「どうしたの。優」 再び、いつくしむようにやさしい声を作って、亜沙子は「娘」の顔を見た。 「ね。とりあえず、座ったら」 「・・・お母さん」 優は、震える声で亜沙子を呼んだ。 「私、お母さんの何なの」 優のガラスの瞳から涙が溢れ出た。 「何よ、優。いきなり。変な子ねえ」 と、亜沙子は言ってみたものの、さすがに作り笑顔がこわばって、頬が痙攣しているのが 自分でもわかった。 「琴子さんが言ったの・・・」 「何て言ったの?」 と、亜沙子も聞き返すしかない。何を言われたかはわかっているのだが。 「私・・・ロボットなの?」 優はこぼれ落ちる涙をぬぐいもせず、亜沙子をじっと見つめて、しぼり出すように言った。 「私、ロボットだったの?お父さんとお母さんの子どもじゃなかったの?私の体の中は機械なの?」 「そんなこと・・・」 ないわ、と言うべきだったのだろう。だが、あまりの想定外の事態に、亜沙子は話の接 ぎ穂を見失った。だから、優のほうがしゃべらざるを得ない。 「さっき、そう言われて・・・何で琴子さんがそんなこと言うのか全然わからなかったんだけど・・・」 「そうよね。変よね、琴子が急にそんなことを言うなんてね」 亜沙子は、優の「ケガ」を目撃した人物が太郎であるとは知らない。優も太郎が何を見 たのか知らない。太郎が琴子に話したとも、もちろん知らない。 「ほら、琴子も仕事のこととか今回の結婚のこととかでいろいろあって、それで忙しかっ たから、ついわけのわからないことを言っちゃったんでしょ」 強引に話を終わらせようとしたが、優はまだ終わらせるつもりはないらしい。 「それで・・・私は、そんなことありませんって言ったんだけど・・・・・・でも、たし かに思い当たることばっかりなような気がして・・・」 「どんなこと?」 とは亜沙子は言わなかったが、優は、 「こないだもそうだったけど、ときどき記憶がいきなり飛んで、気がついたらいつも寝か せれているなんてこと、他の人にはないでしょ」 と、涙声で言った。 「勉強だって、みんなが覚えられないって言ってることが、なぜか私だけいっぺんで暗記 できちゃうし、体育の授業とか運動会だって、練習とか全然しなくても、小さいときから、 一番足が速かったし」 「でも・・・」 と、亜沙子は打ち消そうとしたが、うまい言葉が浮かばなかった。 「それなのに、泳ぎだけはどんなにやろうとしてもできなかったのも、もし私がロボット だったんなら・・・」 しまいのほうは嗚咽まじりだったので、亜沙子には聞き取れなかった。 「ねえ、優」 亜沙子は、両手で優の肩を掴み、優を座らせながら、 「そんなことない。そんなことない。でも」 と、声を落ち着かせ、まるで自分自身に言い聞かせるように言った。 「もしも・・・もしも、よ」 と、優の眼を見つけて、 「もし仮に、本当にそうだったとしても、そんなこと関係ないわ」 と強い調子で断定した。 「万一、あなたがロボットだったとしても。あなたの体の中が機械だったとしても。それ が何だと言うのよ」 「・・・・・・」 優は何も言わずに、眼に涙をためたまま、亜沙子を見つめている。 「たとえ、もし本当にあなたが人間じゃなくても・・・」 亜沙子は、躊躇することなく言った。 「あなたは私たちの娘よ」 と。 「私と、啓太さんの大事な大事な娘よ。檀(だん)にとっては、だいすきなお姉ちゃん。 おばあちゃんにとっては、目の中に入れても痛くないかわいい孫よ。そうでしょう」 何らのレトリックもなく、何らの婉曲表現もなく、ただ強くそう言い切るだけで、言っ ている亜沙子のほうが力が出てくる気がした。 「ずっと前から。そしてこれからもずっと」 もう一度力をこめ、諭すように言い聞かせた。 「あなたは、私たちの娘よ」 さっきまで思いつめたような顔で亜沙子を見つめていた優は、今度は顔をゆがめ、声を 上げ、しゃくりあげて泣いた。 「お母さん・・・・・・お母さぁん・・・・・・」 亜沙子の着物を掴んで泣きじゃくる「娘」に、亜沙子は、 「バカねえ。泣くことなんてないじゃない。当たり前のことじゃないの」 と言いながら、袂からハンカチを出し、優のガラスの瞳に溢れた涙をそっとぬぐってやった。 気がついたら、亜沙子の頬も濡れていた。 「お母さん・・・」 「まあ。変ね。私まで泣くなんて、ね」 亜沙子は笑って自分の涙を拭いた。 「・・・そうだよね」 優が涙の跡の残る頬を輝かせ、ようやく笑った。 亜沙子は、もう一度、最愛の「娘」を力強く抱きしめた。 「優・・・」 「お母さん・・・」 金属をコーティングしたボディが、少しも硬いとは感じなかった。冷たいとは思わなかっ た。やわらかい。あたたかい。いとおしいわが子の体なのだから。 (あなたは、私の娘よ) 今度は、声に出さずに、もう一度反芻した。これからも、何があっても、私があなたを 守るわ。・・・ 廊下から竹子や小梅たちのけたたましい話し声がまた聞こえてきた。今夜の祝宴も終わっ たらしい。冬の夜風が古いガラス戸を揺らした。