『虞美人草のお話し』
項羽の最期 四面楚歌
力は山を抜き 気は世を蓋う
時に利あらず 騅(馬の名)逝かず
騅逝かざるを如何とすべき
虞(項羽の愛妾)や虞やなんじを如何とせんと
項羽は己の力だけを頼り、人材を遠ざけてしまった(結果的にかもしれませんが)。
周りの有能なブレーンも排していった為、項羽側の陣営は、徐々に長期展望も戦略も立たなくなって行きます。
最期には補給線もズタズタに切れてしまい、組織も弱体化して行きます。
何よりも、晩期には項羽から人心が離れてしまったのです(項羽は魅力的な人物であったと伝えられていますが)。
第一次世界大戦も第二次世界大戦もそうであるのだが、4年が戦争遂行の心理的限界でしょうか。
いつまでも、最大戦速で走っている訳にもいかず、さりとて、立ち止まる訳にもいかず。さてはて。
さて、劉邦は、後にいわれる、建国の三傑として、張良(参謀)、蕭何(補佐役)、韓信(将軍・元帥)を揃えています。
また、劉邦は、韓信だけではなく更に有能な部将として、鯨布(げいふ)、彭越(ほうえつ)をヘッドハンティングして自軍を補強していきます。
これらの人材を活用したことにより、劉邦を称して、将の将たる器と呼ばれているのです。
劉邦は項羽に72回負け続けた(誇張か?)そうですが、最後の”垓下(がいか)の会戦”で項羽は滅亡しました。
奇しくも、ナポレオンの最期と同じ様なものでしょうか。張良は最後の戦いに勝利する事に心を砕いたと云われています。
補足
「美人の尊称についての司馬遼太郎の文章から抜粋」
虞姫に対してこれを美人と敬称することはあまりにその存在の本質を言い当てすぎているようであったが、しかしこの敬称は容姿をさすのではなく、後宮の女の階級名であった。
美人は正夫人をのぞいては最高の位置にあり、漢代になると地方長官の食禄であるところの二千石の礼遇を受け、収入もその程度の実質をもつ。
項羽には、正夫人はいない。このため、虞美人が項羽にとって妻に等しいと言えなくもない。
更に、物語は。
項羽は常に虞姫を連れだっていましたが、
120万もの漢軍に取り囲まれ、正に四面楚歌の状態。自軍の、残るは、八百騎あまり。遂に項羽も、虞姫と別れ、決死の脱出を試みる他に道はなくなってしまいました。
虞姫は自害したのだそうです。
そしてその後、この虞美人の墓の傍らより、一輪の花が佇むように花を咲かせたといわれます。
人々は、この虞姫の死を憐れみ、この花を虞美人草と呼んだという言い伝えです。
という感じですが。