ぼくらの情動



その夜、伸し掛かってくる熱い体に男は大いに閉口していた。
清潔な寝具の上を背中が小刻みに上下するのがくすぐったくて敵わないし、真上から降ってくる荒い息はその不快感を増長してなお余りあるほどの気色悪さを含んでいた。すでに半裸に剥かれ用途を成さないでいる夜着の合わせ目にしなやかな手が差し込まれ、素肌の上を情欲を込めて撫で回す。
男は今自分を組み敷いている自分よりやや若い男を見上げて考え込んでいる。どうして彼はこんなことを自分に対してするのだろう。男同士であるにも関わらずこういった……性行為に及ぶということは、彼が自分を特別に好いていると考えてもいいのだろうか。いやいや、そう簡単に解釈してしまっては後で泣きを見るぞ。
若い男の肩に引っかかってゆらゆらと死体のように揺れている自分の両足を熱に潤んだ目で見つめる。腰を掴んで打ち付けてみたり、せわしなく体を撫で回してみたりと覚束無い様子で一心不乱に快楽を貪る姿を、年上の男はいじらしくかわいらしいものだと思った。しかしただ本当に、ただほんの少しだけこの男の若い欲望が気持ち悪かった。それは彼が遊び半分で自分を弄んでいるのではないかという不安から生じるものでもあった。男は若者の気紛れさを恐れていた。

「き、君…ちょっと……あっ、く…なんで、さっきからぁ……! 」
行為を始めてから長らく続く前後運動に先に音をあげたのは年上の男だった。それに応じて組み敷く男は口元に半月を形作り、身を捩って何かを訴えようとしている男の顔を覗き込む。
お互い服は中途半端に身につけたまま下半身のみを露出した状態で交わっている。そのことからこの行為自体が完全なる合意の上に為された微笑ましいものではなく、半ば強姦ともいえる状況の元で始まったことが窺える。
事実、組み敷かれている男は最初明らかにこの行為を嫌がっていた。しかし段階が進んでいくにつれ体が「気持ちいい」ものを欲して動いていったとしても、しかたがなかった。生理的なものだ。男はいつ恥を捨てて乱れ狂おうか、もはやそれしか考えていなかった。

「どう、したんですか? 気持ちよすぎて我慢できなくなってきましたか……? 」
「それはっ、君がっ、君のせい、で…。ヒッ!? 」
肩に掛けていた足を横に押し広げ、繋がった部分をこれ見よがしに指でなぞる。性器の形に丸く押し広げられた入り口をぐるりと一周すると年上の男はか細い悲鳴をあげて僅かな抵抗を示した。
ねちっこく擦り上げられ続け、かといって決定的な衝撃を与えられないまま捏ねくり回された場所はさらなる快楽を待ちわびてはしたなくひくついている。
「やっぱり、アンタ変態なんですね。はは。こんな気持ち悪い男がよくもまぁ、君主だなどと……」

年下の男はいつも彼がそうしているように自分の主を罵倒する。しかし絶え絶えな息遣い、爛々と光る獰猛な瞳が彼の余裕のなさをはっきりと示していた。
男は怯える主と目を合わせ下品な笑みを浮かべると、膝裏を掴み上げ根本まで埋まっていたものをゆっくりと引き抜いていく。気泡が弾けるような嫌な音と共に抜き去られた場所から先走りと腸液と潤滑剤として注ぎ込んだ唾液とが一時に漏れ出してきて、主はその不快感に身震いした。
糸を引いて繋がっている箇所を黙って二人で見つめる。なんかいやらしいですね。部下の感慨深げな声にさっと顔を赤らめ目を逸らす。
これからという時に放り出された体を持て余し、ともすればいくらでも漏れてしまいそうになる喘ぎ声を枕に顔を押しつけて殺す。その様子に部下は満足げに鼻を鳴らし、まじまじと主の局部を観察し始める。

「ここ、真っ赤でぐしゅぐしゅで随分と恥ずかしいことになってますよ。先っぽも、どろどろだ」
「う、わっ……あぁあ……」
怒張して反り返ったままの先からたらたらと流れ落ちるもので、開ききった場所がさらに潤いを増す。部下は新しく買った調度品でも点検するかのような軽い手付きですばやくその潤んだ箇所に指を挿入する。目だけは枕の上を右に左に動く主の顔を見据えながら、細い中指を激しく抜き差しし始めた。浅く深く出入りする動きに合わせて背を仰け反らせ足を鯱張らせるのを楽しげに、しかし大いに馬鹿にした目付きで見下ろす。それこそ、お前は犬畜生にも劣る浅ましい男なんだとでも言わんばかりに。

「どうですか? さっきよりよくなってきたでしょう。我慢できないでしょう。安心してください。これからもっといいことしてあげますから」
「いっ、いいよ、もう……。もう、いいか、らっ、ゆるしてぇ! 」
今にも死ぬとでも言いたげな切羽詰まった調子で息を詰まらせ、部下を見上げる。
涎の糸を頬に張り付けたまま虚ろな目で懇願する主人をこの上なく汚らしいものを前にしたように見下し笑う。笑いながら空いている手を汚れた頬に伸ばし、愛おしげに指を這わす。
主は下半身にさらに集まる熱を気にしながらその優しい手付きにもじもじとしている。
「もっと楽しいことをしましょう。そうすれば変態の貴方もきっと満足できる所までいけますよ」
ゆっくりと迫ってくる整った顔に息が上がる。主はその顔をこの世の物とも思えないほど美しいと思う。細められた目で熱っぽく見つめられれば視線を逸らすことも叶わない。
部下は息を荒くする主の耳元に口を寄せ囁く。

「自分でしてみてください」

低く有無を言わせぬ声にさらに下半身が重くなるのを感じた。
もはや発情した犬の如く息を荒げる主の顔は蕩けきり、指先は熱を持った場所に這わそうと腹の辺りを右往左往し始める。
「自分で、するんですよ。恥ずかしがる必要はありません」
「うん」
「素直でいい子ですね」
「うん」
「そうです。貴方はそうやって私の言うことだけ聞いてればいいんです。そうすればもうなにも心配することなんてないんですよ」
「うん」
「貴方は頭が悪いんですから。私がいなきゃなにもできないんですから」
「う……」
最後の罵倒がさすがに堪えたのか一瞬顔をしかめて先端に触れようとしていた手を止める。
それでも休まず内側をぐりぐりと抉ってくる指の動きには耐えきれず、意を決して濡れそぼった中心を握り込んだ。

「はッ、は、あっ……あ、いぃ、う、っんうぅ……」
せわしなく手を上下させ、走り抜ける甘い痺れに身を捩って感じ入る。先を中心に緩急を付けて揉みしだけば僅かに腰がその熱の解放を求めて揺らめき始めた。にちゅにちゅと音がするのが恥ずかしくて赤面がさらにひどくなるのが自分でもわかったが、だからといって今更止めるわけにもいかずやけくそ気味に動きを激しくする。
「不器用な貴方にしてはなかなかお上手ですね」
慣れてるんですか。好色そうな問いに頭を掻き乱され正常な判断力はもはや消えた。粘着質な音が耳にこびりつく。
「これが、好きなんですよね? 」
指一本でなぶられる物足りなさに呻きながらガクガクと頭を縦に振る。
そうです。好きなんです。
降り注ぐくぐもった笑い声に体が芯から溶けていくのを感じた。熱の籠もった鋭い眼差しを浴びながら演じる嬌態に自らすっかり酔わされてしまった主は咽び泣きながら体を小刻みに揺すり始める。

「こ、うめい……、はッ、はぁ……、こう、めぇ……! 」
「なんです? 」
「こうめいっ……、こうめい、ぼくはッ……ぁ、君が……」
覆い被さる男に体全体を、特に下半身を押しつけ性急に快楽を得ようとねだる。
すぐ目の前でにやついている男に君が、君が、と苦しげに繰り返す姿。その健気な姿に胸がいっぱいになった部下は主のために、と増やした指で中を満足いくまで掻き混ぜてやる。
「わかってますよ」
そうだ。好きなんだ。
「こうめいッ、あっ、あぁはッぁ……こ、お」
「ちゃんとわかってますから。だから、泣かないでください」
「い、やだ……はぁああ! いくッ、いっちゃ……」
「どう、ぞ。いってください。受け止めます」
身を素早く起こし主の手の上に自らの手を添える。驚き叫ぶのも無視して力任せ掻いてやれば背を反らせ、長く尾を引く悲鳴を上げ他人の掌に精をしこたま吐き出した。
埋めていた指を引き抜き布団に擦り付けつつ手を汚した白濁を空気と混ぜ弄ぶ。
「ほら」
間抜けな呻き声を上げながらぐったりとしている主の鼻先に掌を突き出す。指先でにちゃにちゃと音をさせながら擦り、糸を引かせる。しばらくの間はそうして遊ぶ。そうしつつ、口を半開きにしてその戯れ事を不思議そうに見上げている主と視線を交わす。情交の相手に見せるとしては自分でも上出来と思えるほど柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと手を自らの口元に近づけた。あっと声を上げる間もなく、赤い舌が汚物を舐め取っていくのを主はただ呆然と眺めるしかない。
指先から指の股まで丁寧に舌を這わせると青臭い味が口いっぱいに広がり身に興奮が満ちていく。ただ美味しい、とだけ思う。全て綺麗にしてしまってから最後の残りを口の中で転がしよく味わう。
なんでそんなことをするんだ、と言いたげに顔をしかめている主に今度は一転して底意地の悪そうな笑みを見せつけ、より一層自らの興奮を煽ろうとする。
「今、直接舐めて欲しいと思ったでしょ」
体液で滑る下肢に掌を這わせ詰ってやれば、欲が少しずつ満たされていく。首を弱々しく振って否定する主人の顔を見下ろしている今なら尚のこと、心地よい。
「素直じゃない子は嫌いです」
顎を掴み戦慄く唇の端に食らいついた。力が抜けきっていて碌な抵抗もできないでいるのをいいことに一方的に舌を差し入れ互いの唾液を絡ませる。
主は自分の分泌物が放つ生臭さに目を白黒させるが、力強く押さえつけてくる男を押し返すこともできず唾液を素直に飲み下すことしかできない。
暗がりの中で衣擦れの音と唇を吸う音だけが響く。
はだけた衣の合間から覗く互いの胸を、腹を、両足を重ね合わせ熱を溶かし合う。
主は男の熱烈な口づけをうっとりと瞳を潤ませながら次第に受け入れ始めていた。顔にかかる荒い息ももう気持ち悪いとは思っていない。それどころか、ぴったりと合わせた体のその右腿辺りに感じる堅い感触でさえ今は快いものだと思っている。不快感はない。もし今気持ちが悪いのは誰かと言ったら、それは事もあろうに部下に組み敷かれて悦んでいるこの自分なんだろうな、と朦朧とした意識の端で自省する。

くちゃくちゃと派手な音を鳴らして交わされた長々しい接吻の後、起き上がり向かい合って互いの興奮しきった箇所を確認し合う。
部下はこんな面白いことはないとばかりに笑い、主人は消え入りそうなほどに身を縮込ませながらも、これから起こる事への期待を隠せないでいる。
主人は次の命令を待っている。従順に。卑屈に。でもしっかり愛情を持って。とろけるような笑顔を向けてくれる男の、その形の良い唇が開かれるのを待つ。
今度はどんな恥ずかしいことをするんだろう。考えるだけで下半身に熱が集結し始める。
線の細い白い体の中心で場違いなほどに屹立しているものに目が釘付けになる。気持ちいい。気持ちがいい。たまらない。
弓なりになった唇が開かれるのを恍惚としながら眺める。

「それじゃあ、次は四つん這いになってください。犬みたいに」

喜びに弛んだ口元から長々と切なげな吐息が漏れた。
プライドも何もかも投げ出した結果自分が真実、犬になってしまったような錯覚を覚える。頭全体に霞がかかり目の前の笑顔が歪み始める。
もういいんだ。どうでも。どうせこいつには逆らえないんだ。それなら今この気持ちいいのを楽しめるだけ楽しんでおこう。情けない。情けない。
主は与えられたばかりの命令を遂行しようとゆっくりと腰を浮かせながら枕に手を突く。




「君はなんでいつもいきなりこういうことをしたがるの? 」
「というか、なんで君が常に突っ込んでくるの? 」
「あと、あんまり恥ずかしいこと言うのはやめてほしいんだけど……。いや、ほんとに恥ずかしいから、赤面ものだから」
「はあ……。どうせ君にこんなこと言っても右から左だろうけど、ちょっとくらい聞く耳持ってくれたっていいじゃないか」

文句ならいくらでも出てくる。ただしそれらを面と向かって本人に言えるかと言ったら、やっぱり言えないのだ。
むにゃむにゃと言葉を口の中で転がし、そのまま飲み込む。
彼は寝台の端に腰掛けたまま、静かな寝息をたてる部下のあどけない顔をただ覗き込んでいるだけだ。
事が済んだ後、なにか手ぬぐいかちり紙でもないか、と軽い気持ちで尋ねた自分を「自分で探せ」「わがままを言うな」「眠いんで寝ます」と一蹴したことを考えれば、なんとも似つかわしくなく可愛らしい寝顔じゃないか。なんにも言わなければこいつはこんなに可愛いんだなあ。できればずっとこうでいてほしいよ、まったく。

さすがに諸々の後処理を男が寝ている横でたった一人でこなすというのは堪えた。情けないとか恥ずかしいとかそういうこともあるが、それ以上にうらさびしさが身を包んだ。
耐えきれず視線を外し、何もない暗闇に瞳をうろつかせる。
なんで彼は自分にこんな酷いことをするのだろう。やっぱり憎いからか。それともただ単に遊んでいるだけなのか。そうなんだろうなあ。こいつはぼくのことなんてどうでもいいんだろうなあ。ただからかって楽しめればそれでいいだけなんだろうなあ。情けないなあ。仕方ないかあ。ぼくがこんなだから。でも寂しいなあ。いやだ。いやだよ。どうしよう。

「うるさいなあ」
穏やかな眠りを引き裂く雑音のせいで夢がどこかに吹き散った。
なんだ、せっかくいい夢を見ていたのに。
夢の中で私は主人の手を引いて歩きさわやかな新緑の香を楽しんでいた。反対の手にはもちろん弁当の籠を持って。頭上を追い越していく小鳥を指しはしゃぐ横顔に頬が弛む。
案の定、わ、と声が上げ石に足を引っかけた彼を出来得る限りスマートな動きで抱き止め、一つ二つ嫌味を言ってやる。彼は文句を言いつつも気恥ずかしげに顔を赤らめありがとう、と呟いた。
それだけで私はすっかり満足してしまった。涼やかな風の中の穏やかな笑顔だけが目の上にいつまでも張り付いていた。だが現実はどうだ。
体を強ばらせながら身を起こした先、寝台の端にぼろぼろと涙を流し身を震わせている影があった。
もうとっくに自分の隣で寝息をたてているものと思ったが。部下は寝間着の膝の上に染みを作りながら拳を握りしめる主人の姿に呆気にとられ動けなくなった。嗚咽が止むことなく耳を貫き続ける。
「どうしたんですか」
やっと絞り出した声は情けないほど震えていた。それに応えてちらりと恨みがましい目を向けると主は顔を覆っておいおいと泣きだしてしまった。眺める以外に他はない。
主はひとしきり喚いてから大人げなく泣き喚く自分が急に恥ずかしくなり、今度は泣き声を飲み込もうと躍起になる。
「なんか、急に寂しくなって」
「寂しい? 」
「君はぼくのこと嫌いだろ」
しゃくりあげながら切れ切れに呟き、袖で目をごしごしと擦る。
「そうだ、嫌いじゃなきゃこんなことするはずない。こんな気持ち悪いことするわけない。酷いことも言わない。嫌いなんだろ」
呆然とする部下を赤い目で睨み付ける。
「お前は主であるぼくを馬鹿にしてる」

嗚咽を押し殺し思いつく限りの罵詈を憎しみを込めて吐き続ける。
前からずっと言おうと思っていた。お前のその主を主とも思わない態度が気に食わなかった。だいたいお前の気色悪いにやついた顔がぼくは大嫌いなんだ。ブチ殺してやりたくなる。そんなお前に抱かれたって楽しいわけがない。吐き気がするよ。
ぜえぜえと息を吐き目をひんむき、体を前後に揺すっている。
部下は依然として身じろぎ一つできずにいる。こんな他人を傷つけることを目的とした言葉を平気で口にする主をただの一度も見たことがなかったからだ。
何かそんなに気に障ることを言っただろうか。いや、気に障ることなら常日頃から山ほど言っているのだから、そんなこと今更じゃないか。なら何が悪かったのか。彼はたまたま今日疲れているとかで虫の居所が悪かったのだろうか。今まさに床につこうと言うときに押し入って、抱えていた人形を叩き落としたことをまだ根に持っているのだろうか。
歯を食いしばり低い唸りを発しながら自分を睨み据えている主を眺め、冗長な思考に耽る。
しかし彼がいくらその明晰な頭脳を働かせようと、どう扱うべきだったか、どんな言葉をかければ良かったか、触れ方は、抱き方は、どう改善させるべきか、などといったことはまったく思いもよらないのだ。

「おい、聞いてないな? ぼくを誰だと思ってるんだ! お前の! 上司! わかってる? この国の王、絶対の権力者、そして近い将来天下を取ることになる男だ! 」
興奮気味に一席ぶちかまし、バネ仕掛けのように寝台から飛び上がる。一瞬よろめきながら足を踏ん張り威嚇するように唸りを上げる。
主にはなにも言わずにただじっと見つめてくるだけの部下の態度が非常に不誠実なものに見えた。馬鹿にしているな、とまた性懲りもなく思う。
激しいに怒りに駆られた彼は寝台に片膝を突き、気づいたときには男の襟首をこれでもかというほど強く引いていた。
部下の思考は当然の如く中途で寸断される。
じわりと口内に鉄錆の味が広がっていく。
殴られた、と認識するのには更に幾秒か分の思考が必要となった。
貧弱に見えるがしっかりと筋肉の付いたその腕は剣を振るう腕だ。その腕で力一杯打たれたのだからたまったものではない。痛む口端に手を当ててから指先に付着した血をまじまじと見つめる。なんだこれは。あまりのことに一層呆然としながら自分の襟を掴んだまま息を荒げている男を見上げる。その光を失った視線を受け止めた主はゆっくりと自らの奇行を認識し恐気を振るった。

ヒッ、と口から吐息を漏らし握りしめた手からは力が抜け、寝台の上から一飛びに退いた。
これはとんでもないことをしてしまったぞ。僅かに血の付いた拳をせわしなく開いたり閉じたりしながら主は焦っている。こんなことをしてしまったのでは、こいつは何をするかわかったもんじゃないぞ。これまでよりもっと酷い嫌がらせをしてくるかもしれない。いや、むしろこの瞬間にもこいつはぼくに罵詈雑言を浴びせようと心の中で言葉を選んでいるんじゃないか。いや、もっと酷ければ今度こそ本当にぼくを見捨ててどこかへ行ってしまうかもしれない。
ちくしょう、そうならないためにあんな気色の悪いことも喜んでいる振りして受け入れてやったっていうのに、水の泡だ。ああ、どうしよう、どうしよう。

主は軍師である部下がいなければ何もできないことをよく知っていたし、そのために軍師の傍若無人な振る舞いに文句一つ言えずむしろ媚びてさえいた自分に負い目を感じてもいた。
彼はただ軍師を失い自分の夢の実現が危うくなるという目前の問題だけに心を掻き乱し、目の前の男が悲しげに顔を歪ませその様子を見つめていることにはまったく気づきもしなかった。
と同時に彼から蔑ろにされてほんの一瞬でも「寂しい」と感じていたことを、彼の気まぐれさを恐れ彼の恒久の「優しさ」を求めていたことを、自分は部下にいいようにされるような人間ではないという自尊心と自分がただ追い求めるものはこんな意地の悪い男ではなく天下という玉座のみなのだという野心で塗りつぶして無かったことにしてしまった身勝手さにも、彼は当然ながら気づいていなかった。
彼はなんとかしてこの場で優位な立場に立とうとそれだけを考えていた。

「き、君が、あ、あんな酷いことするから悪いんだ」
息を落ち着かせようとごくりと唾を飲む。
「ぼくは悪くない」
薄闇の奥で寝台の男が緩く笑う。
「よかったくせに」
その恥辱を煽る言葉には不思議といつものような嘲りの色が感じられなかった。ただ薄く開いた口から惰性に漏れ出たといった感じだった。
「なに言ってんだよ……。ちくしょう! なんでぼくばっかりいつもこんな目に遭うんだ! 理不尽だ、最悪の気分だ……」
「そういう星の下に生まれたんですよ。いい加減諦めたらどうですか」
口元の血を拭いながら興味なさそうなふりをして答える男をキッと睨み身を震わせる。
「ふ、ふざけやがって……! こっちが下手にでれば……!」
口では勝てないと知った主は全ての責任を部下に帰して何もかも終わらせてしまえる最終的手段を取ることに決めた。くるりと背を向け大股で戸に向かい歩き始める。下半身に痛みが走り足下が覚束無くなるが気にせず歩く。
「どこ行くんですか」
予期せぬ行動に面食らって訊ねる部下に渋面だけを向けて吐き捨てる。
「君と一緒に寝るくらいだったら、外で凍え死んだ方がましだ」

その言葉を最後に君主の寝屋に沈黙が訪れた。
部下は遠ざかって行く足音を聞き届けてから、ばったりと布団に倒れ込む。
ふいに男の口から笑いが漏れ始める。
くっくっと乾いた笑いを響かせると同時に泣いていた。
顔に走る痛みに自分は確かにあの人に憎まれているのだと知り、夢と現実のギャップに髪を掻き乱しながら咽んだ。
「まったく、捨て台詞だけは立派だなあ」
それでも条件反射的に悪態を吐くことだけはやめられず、それに気づいてまたさらに頭を掻き毟り始める。
彼との痕跡の残る寝台の上で団子虫のように丸まり呻き続ける軍師の狂気は、翌朝何ごともなかったかのように暢気な調子でおはよう! と君主が声を掛けてくるまで続くことになる。