柘榴の味



「ねぇ、孔明。なにか面白い話、してよ」

寝台に座った男が出し抜けに投げかけてきた台詞に一瞬面食らう。
「はぁ?なんでまた急に……。……まさかその年でお伽ばなしでもしてもらわないと寝られない、なんて言うんじゃないでしょうね」
「君…、上司の精神年齢そんなに低く見てるの!?」

お気に入りの人形の髪を梳いていたくしを枕元にポロリと取り落として、顔を向ける。
そもそも、寝る時になってもこの少女型人形を手放さないで愛でている時点でもう十分、子供っぽく見えるのだが。目の前の男が、本当に我らが君主殿であるのか疑わしく思えてくる。何か返すのも面倒で、しばらく無言の圧力をかけようと冷めた眼差しを送るが、この能天気君主にはあまり効果がないようだ。
人形を腕に抱いたまま、寝台の上にだらしなく転がる。薄い寝間着がしどけなく広がるのもそのままに仰向けになりながら逆さまの顔を向け、不満げな表情を隠そうともしない。

「いや、だからさ。そういうのじゃなくって、もっと珍しい……。できれば本当にあった話が聞きたいんだ」
おや?と思い、うす暗がりの中を劉備の顔が覗き込める場所まで近づく。
そういえば、彼がこんな風に自分から話題を振ってくることはあまりなかったように思う。彼はどうやら私と会話するのが好きではないらしく、というのも大体の場合そこに罵倒だとか嘲笑だとかがおまけにくっついてくるからなのだという。
痛さ熱さもすぐ忘れる能天気さの持ち主とはいえ、多少は傷つくのだろう。珍しくも向こうから歩み寄って来た勇気を買って、たまには優しく扱ってやろうか。どうしようか。

「……もしかして、そんなことのために夜更けにわざわざ呼び出したんですか?私も暇ではないんです。いろいろやることがあるんです。今度の登山の準備とか……。でも、劉備殿がどうしてもと仰るなら付き合って差し上げてもいいですよ」
劉備は人形と一緒に勢い良く起き上がり、瞳を輝かせて身を乗り出す。
「エッ! 本当? ありがとう! ……いや、今なんか引っかかる単語が……」
「気のせいです。さて、どんなお話をしましょうか。孔子ですか?孟子ですか?あっ、私は詩歌に関しては門外漢なんで、話しませんよ」
枕際のささやかな灯りが照らす範囲、寝台の一番端にゆっくりと腰を下ろす。
人形を膝に乗せ、枕を背にしてぺたんと座っている劉備を横目に見ながら、なるべくやわらかく話しかけてやる。
「え〜……。それぐらいならぼくだって知ってるよ……。君、やっぱりぼくのこと頭悪いと思ってるだろ」
「おや、これは失礼。どうか気を悪くしないでください。お詫びに取って置きのお話をしてあげますから」

ぶつくさと文句を垂れるのを遮って、興味を引く台詞を投げてやる。
さて、それならどんな話が良いだろう。彼がのそのそと隣に腰掛け直すのを待ちながら考える。
そうだ、どうせなら思いきり不快な話をして、虐めてやろう。きっとグロテスクな話の類は苦手に違いない。あいかわらず人形を手放さずに膝に抱きかかえたまま、大人しく次の言葉を待っているようないっそ、乙女チックとも言える彼が猟奇的な人間の所業を聞いたらどんな反応を示すだろう。
想像して、口の端が歪んでくるのが分かる。視線を感じて、やっとの思いで顔を取り繕い、床に目を落としたまま語り始める。

「……これは私がまだ家にいた頃の話なんですけどね」
「家って、君が前に住んでたあのお屋敷のこと?」
遮った声に、ちらと目をくれてやる。
「ええ、そうですよ。あちこち転々としてきましたが、自分の家と思えたのはあそこぐらいなものでした」
そうだよね、いい所だった。覚えてるよ。君に会いに、何度も行ったからね。と人形の髪を撫でながら楽しそうに言う。
真正面を向いたままの玩具の瞳は、凍てついた輝きを放ちながら微動だにしない。

「……とにかく、私はその頃からすでに知恵者としてそこそこ名が知れていました」
「それを自分で言うの!?」
「うるさい。そういうわけで、私の元にはあちらこちらで起こった厄介な問題が持ち込まれてくることがよくありましてね。その中でも特に印象に残ってる話があります」
熱心にこちらに注がれる視線を確認して、続ける。
「とある、蛮族の住む土地で起こった事なんですけどね。その付近にある川は毎年のように増水し、多くの被害をもたらしたそうです。そこで何か建設的な策を講ずるのが当然でしょうに、その蛮族どもの浅ましさたるや、こともあろうに人身御供によって災害を食い止めようと考えたんです」
ちらりと見ると、さっきと同じ姿勢でこちらに顔を傾けている劉備と目が合った。
薄明かりの中で、ほとんど無表情とも言える面持ちと仄暗い双眼を向けられ一瞬、背筋が寒くなる。
玩具の瞳は、鈍く光りながらどこか生命を持ったように不気味だ。

「……一般的な御供の慣習の範に漏れず、彼らもまた牛・羊・ヤギといった類の動物を川の神に捧げました。もちろん人間も一緒に。さて、問題はその捧げ方なんですが、これもまた人間の業の成せる業、なんでしょうか? 貴方のお耳に入れるのも憚られるような、残虐極まりない所業だったんですよ」

一息ついて考える。我ながら本当に慇懃無礼なものだ。私の言動はどれもこれも皆、ひとえに彼を虐め抜くためのものだというのに。ただ面白がるためだけのものだというのに。
これ以上彼の信頼を裏切ってしまっては後が分からないな。それでもつい、心が困り顔や泣き顔を求めてしまう。

「……というのもですね。彼らは犠牲となる供物を、ですね。加工してから捧げたんです。ええ、彼らはその首という首を全て刈ってそれを川に放り投げたんだそうです。当然、人間もですよ。49人の哀れな人柱の49個の頭部が、真新しい切り口から鮮血を滴らせて大河を染め上げる、なんて、なんとも怖気が振るう光景じゃありませんか? 」

さて、どうだろうか。語ってみてから、そこまで衝撃的な話ではないように思われていささか自信がなくなってきた。
しかし、情に流されやすいこの男のことだから、不快感を露わにして子供っぽい抗議ぐらいは繰り広げてくるだろう。少なくとも死者への悼みであるとか、残酷な所業への憤りだとかのためにしかめ面になるのが拝めるはずだ。
ああ、自分でもどうしてここまで彼を困らせたり、悲しませたりするのに固執しているのかわからなくなってきた。

ふと、室全体が気味の悪いほどの沈黙に沈んでいるのに気づく。
望む男の声も聞こえず、ただ一人取り残されたような気がして伏せていた目を見開きすぐさま姿を探す。
よかった、ちゃんといるじゃないか。ただ、その表情は期待していたようなしかめ面でも、ましてや悲壮感の滲んだものでもなかった。

「ふ〜ん……。そうかなぁ?だって、そういう話って結構よく聞くし、田舎じゃそんなに珍しくもないんじゃないの?」

表情を先程とまったく変えずに、平然とそう言ってのけた。意外な応答に落胆しながら、彼が君主である前に一人の武人であることを思い出す。
幾千、幾万の死とまみえることが日常茶飯事な彼らのような軍人にとっては、こんな話取るに足らないものであるということか。
その瞳を覗き込んでいると、どこまでも深い闇を見たような気がして、自分の知らない内面を突きつけられたような気がして、気分が悪くなった。
それで、続きは? 人形を傍らに置き、寝台の上に胡坐をかいてこちらに向き直る。
玩具の瞳は、私を表情なく見つめているがその奥にはギラギラと残忍な光が瞬いている。という、幻想を見て身震いとともに目をそらす。

「ええ。それから私はすぐその“珍しくもない”悪習を断ち切るために一計を案じたわけです。まず、人柱となる者達の代わりになる物が必要でしょう? どうすれば良いか。簡単なことです。 小麦粉を練って丸めたものに、具を入れて人間の頭部をかたどった饅頭を作ったんです。それを人数分川に投げ込んで神に捧げよ、人柱の代わりにせよ、と命じてそれで時節良く川が静まってくれれば万々歳。まぁ、なんとか誤魔化せる相手だったから良かった、という程度のものでした」

さっきから異様に感じる寒気に一刻も早く立ち去りたい気分になり、早々に話を切り上げようと一気に捲くし立てた。
劉備はその説明で十分に理解したのか、うんうんと頷きながら思案顔を作っている。
ほとんど距離のない場所に座っているせいでその息遣いや体温が感じられて、ほんの少し全身が弛緩する。それでも得体の知れない悪寒は去らず、私はこの寒気がいったいどこからやって来るのだろうと不思議に思った。
と、それまで大人しかった視線が何か言いたげに揺らいでいるのに気づく。穿ち過ぎかもしれないが、その眼差しがなんとも悪戯っぽく見えて不安が再度ぶりかえしてくるような気持ちになった。

「うん。君の話はとっても面白いし、本当にためになると思うよ。それじゃあお礼にぼくも一つ面白い話をしてあげようか? 」
頬杖をつきながら、ニヤリと笑みを作る。その普段とは違う妖しげな表情に吸い込まれ眼を逸らせなくなる。
いいですよ、どうぞ。渇いた唇をやっとの思いで動かし言葉を押し出せば、一層笑みを深くさせ応じてくる。
「そもそもさぁ、そんな小麦粉なんかで作ったものは神聖な人間の肉の代わりにはならないよ。それで納得させられちゃう人達も随分単純なんだなぁ。わかってない、わかってないよ」
「それは確かにそうでしょうが。しかし知恵のない者達のことですから、いたしかたないでしょう。それがどうかしましたか? 」
言いながら寝台の上をにじり寄ってくるのを、気付かない振りして答える。
膝立ちになった劉備の体は間近にあって、すぐにでも触れてしまいそうだ、とぼんやり思っていたら向こうから肩に手をかけてきた。冷たい。張り付けられたように、体は動かない。顔も、今はすぐ鼻先にある。

「君、人の肉って食べたことある? 」

は、それはどういうことですか、と言おうとして喉が詰まったように固まる。
低く、囁くように言葉を吹きかけられ、芯から凍りついてしまったようだ。

「ぼくはねぇ……あるよ。あれは本当にいい思い出だったなぁ。いつだったか、戦にボロ負けして逃げる途中のことだった。逃げ込んだ家のご主人がね、すごくぼく達に優しくしてくれてね。貧しくって碌な生活もしてないだろうに、その夜振舞われた料理はいやに豪勢だった。それはもう美味しくてね、嬉しくて、楽しくて、なんだか空しかった。次の日になって、ぼくはご主人に聞いたよ。あのとんでもなく美味しい肉は何の肉だったんですかってね。そしたら……くくっ、目の前にあったのは何だと思う? ぼく達が台所で見たのはねぇ、肉を体中から削ぎ落とされて骨だけになったその家の妻の死体だったんだ!あっはは!つまりぼくは知らない内にご主人の奥さんを食べちゃってたわけだ」

ははは。と、あけっぴろげに笑い続ける劉備を間近に眺めながら、私は気づいた。その瞳、その表情、その全ては彼の好きな人形のそれと驚くほどよく似ていた。
頭の中に、「殺人者」「残虐」「人肉嗜好者」という物騒な単語が浮かんでは消えたが、どれもが目の前の男にぴたりと当てはまった。
得体の知れない寒気の出所は他でもない、こいつだった。

「自分の妻を殺してまで持て成そうとしてくれたんだよ。ぼくの人徳もなかなか捨てたもんじゃないよね? それにしても、あの食欲をそそる香り、蕩けるような舌触り、えも言われぬ味。ああ、できることならもう一度食べたいなぁ」
目を遠くしながらうっとりと呟く。手はがっしりと肩を掴んだまま離さない。引き剥がすため身を捩ろうとしても叶わない。声が、出ない。
「……孔明。君はまだ若くて、体も汚れてないよね? 」
ぎり、と肩にかかる指先に力を込め、ゆっくりと後ろに押し倒そうとする。
私は鼻先が触れそうになるほどに迫った顔に魅入られたまま、されるに任せて寝台に身を沈めた。
着物の前を擦り合わせながら跨がられるのをどこか他人事のように思いながら見上げていると、頬にそっと触れられた。見下ろす男は恐ろしいほどにっこりと微笑み、人形を愛でるような手つきで肌を撫で回す。
「いったい君はどんな味がするんだろうね。きっと、甘くていい香りがするんだろうなぁ。……ねぇ、食べていい? 」
「……ぅあっ! なに、するん……」
ふいに首筋に顔をうずめられて狼狽える。振り上げた腕は即座に戒められ布団に押し付けられてしまった。
はぁはぁと獣のような荒い息が耳元にかかり背筋がびくつく。ぞくぞくと体を駆け巡るものに感じ入っていると、びり、と首に痛みが走った。
「あっ……、い、たい! 痛いぃ! りゅ、び……」

食らい付いているのだろうか、鋭い歯が食い込む感触と口内の温かさが同時に襲ってきて何とも言いがたい心地よさが走り抜ける。
本来なら身の危険を感じるべきところで何を血迷ったか、私は切実に止めないでほしいと思った。
ああ、あ。私は今、喰われている。愛しい者に貪られている。
寝台から飛び出た足をばたつかせるのを止めて、しばし甘やかな疼痛に浸る。
肉を喰われれば、身体の一部となって死ねるのか。私が死んだら、彼の悲しむ顔が拝めるのか。無理か。死ぬのだから、喰われた者がその外のことなどわかるはずもないのだ。そもそも、彼は泣くのだろうか。いや、泣かないな。こいつのことだから、私が死んだっていつもの調子で平然と構えているのだろう。
何を夢見ているのだろう。何を求めているのだろう。本当はこの男は私が思うほどには……。
時折、優しく舐め上げられ妙な声があがってしまう。それから皮膚に吸い付かれ、また歯を立てられる。
悔しいな。好き勝手に身体を弄ばれてそれを許しても、私の思いはどうしたって届かない。言い知れぬ寂しさが胸につっかえ、水となって溢れ出す。嗚咽を漏らし始めた私を、顔を離した劉備が不思議そうに覗き込む。

「どうしたの? ぼくに食べられちゃうのはやっぱり嫌? ……そっか。それならこれで許してあげるよ」
ニヤニヤしながら顎を片手で掴み、固定される。なんだ、と思う間もなく唇を塞がれた。
「…ぅんっ…ふっ、むぐ、うぅ……っは、あぁ、あっ! ふぁ…」

息苦しさに目を見開けば、限界まで近づいた顔が影となり覆い被さっているのが見えた。見えたと言っても薄闇の中、その表情までは窺い知れない。
角度を変えて幾度も舌を突き入れられ口内を舐り尽くされる快感に、影さえもぼんやりと滲み始める。
舌に血の味が広がった。これはきっと私の血だ。私の血が彼の舌を伝わって還ってきたのだ。
髪に指を差し入れ丁寧に梳いてくれるのが嬉しくて、こちらも礼とばかりに舌を絡ませてやる。同時に空いた手で彼の背に縋りつき快楽を伝えれば、息が詰まらないように気遣ってか、一端唇を離しまた口付けるのを繰り返してくる。
ぼんやりとする中、触れるか触れないかわからないほどの近距離で何か囁かれるのを聞く。
好きだよ。好き。愛してる。私は狂喜した。
ああ、このまま喰われてしまう。私の全てが喰い尽されてしまう。それでもいい。手段なんてどうでもいい。貴方を嫌と言うほど感じていたい。
一つに、なりたい。




気付けば、視界が開けていた。
長いことこうして寝そべっていたような気もするし、そうでもない気もする。ぐるぐると回る頭、眩暈を堪えながら天井を見据え、ここはどこかと思い巡らす。
ここは劉備殿の部屋だ。夜中に呼び出され渋々やってきて、せがまれるままに昔語りをした。そして、そして……。
瞬時、唇の感触を思い出し全身に熱がよみがえる。さっきまでの情事が鮮明に思い出され湧き上がってきた、どうしようもない羞恥に蹴飛ばされ、勢い良く起き上がる。

「う、わぁ! びっくりした! ……大丈夫、孔明?」
ほとんど灯火の消えかけて暗くなった中、すぐ隣で劉備が声を上げるのが聞こえた。最初と同じく薄気味悪い人形を膝に乗せ髪を梳いている途中のようだった。
その姿は先程の凶行も情交も感じさせるものではなかった。
「りゅ、うび殿……? 私は、いったい……」
しばし、呆然と男を眺める。あんなことをしたさっきの今で、どうしてこうも平然としていられるか。もしかしたら、私は間抜けにも主君の寝台で眠りこけ夢でも見ていたのだろうか。
そのままぼうっと見ていると、堪えきれないと言う様子で劉備がゆっくりと笑いを漏らし始めた。

「ぷっ、くっくっ……。あっはっはっは! 何、その顔! こうめ〜い……。さっきの、そんなに怖かった? ビビッた? どう、どんなカンジ? 」
弾けるような笑いで空気を震わせ、いかにも興味津々といった感じで問われれば、ゆっくりと現実に引き戻される思いがした。
なるほど、そういうことか。目じりを拭いながらまだ笑いこけている姿にようやっと事の次第を把握する。
早速、寝台から立ち上がり、座ったままの劉備を見下ろせる位置まで移動する。
「はぁ……? それはいったいどういう意味ですか? 」
「ヒィッ! そんな怖い顔で睨むなよ! 寿命が縮みそうだよ! 半年ぐらい」
「茶化すな。私はどういう意味か、と聞いているんです」
自然と声を低くして問い詰める。
当のバカ君主は不穏な空気を感じ取り泡を食って言い訳を探しているように見えたが何も思いつかなかったのか、すぐに拗ねた子供のような顔になってぼそぼそと文句を垂れ始めた。
「だってさぁ……君っていっつもぼくのこと虐めようとするじゃないか……。で、結局やり込められちゃうし。でもそれだとリーダーとしての存在意義にもとるというか、なんというか……。ええ〜い、もうそれならこっちから仕返ししてやれ〜って思っちゃって。…いや、ごめん、笑ったのは謝ります、ざまぁみろなんて思ってません、ほんとにごめんなさい」
ちらちらと目を向けながらもその顔が徐々に蒼くなり冷や汗を流し始めているところを見ると、睨みつけている私の顔は相当な怒気を孕んでいるのだろう。
妙に冷静に思いながらも、この怒りは確実に標的に照準を合わせながら煮えくり返っている。
「へーぇ……それで? 私への仕返しである『あれ』は? なんなんですか? 」
「……すみません、全部嘘です……。だ、だって! 孔明はいつももっと酷いことぼくにするだろ! それはちょっとやりすぎかなぁとは思ったけど……。えっと、えーと……」

段々と小さくなっていく言葉尻を意識の端で拾いながら、私は微かな失望を感じていた。もしかしたら多少は好いてくれているのではと思った自分が馬鹿だった。やはり私に対しての好印象など欠片も持ち合わせてはいないのだ。いや、良い印象どころかむしろ彼は嫌っているのだ。主に対して無礼極まりないこの私を。
そんなこと最初から分かっていたことじゃないか。自分もそれを望んでいた。彼を悲しませたい、困らせたい、だまくらかしてやりたい。そんな欲求に正直になって今までやってきたんじゃないか。
なぜ、ではなぜそんなことを欲したのか。彼に何を求めているのか? わからない。わからないとなるとなおさら目の前でおろおろとしている男が苛立たしくなってくる。
そんな身勝手な感情はすぐに行き場をなくし、私は腹立ち紛れにすぅと息を吸い込み一気に吐き出した。

「……いいかげんにしろよ、この変態君主! こんな馬鹿なことをする暇があったらとっとと寝ろ!!」

喉も裂けよとばかりに一息の怒声を浴びせれば、一層申し訳なさそうに縮こまって人形をぎゅっと抱きしめる。
乱れた息を落ち着かせながら、同じく乱れに乱れていた衣服や髪を整える。それもこれも全部こいつの所為だ。
襟を直しながら首筋に手を滑らせれば確かにそこには“仕返し”の痕があった。小さく舌打ちをしてから、最後に袖口でこれ見よがしに唇を拭い言い放つ。

「まったく、あんな恥ずかしいことをいきなり同性に対してするなんて……。本当に頭の悪い人ですね。私だったからまだ良かったものの……。絶対に他の人にしてはいけませんよ。ただでさえ馬鹿だ馬鹿だと思われているのに、ますます馬鹿だと思われても知りませんから」
しまった、先程の行為を思い出して少し動揺が出てしまったか。声が心なしか震えている。あの程度の拙い行為にこの私が照れているなどと思われたら癪だ。なんとか取り繕わなければ。
「まぁ、あんなものは別にたいしたことではありませんけど……。とにかく、これに懲りたらもうあんないかがわしいことは……」
言いながらずい、と馬鹿者に顔を近づけて、一瞬その意外な表情に固まってしまった。
劉備は何のこと言っているのかさっぱり分からない、といわんばかりのきょとんとした顔で私を見上げていたのだ。

「恥ずかしい…? いかがわしい…? ごめん、そんなに変だったかな?あんまり痛くしないようにしたつもりだったんだけどなぁ。なんか、孔明がおろおろしてるとこなんか初めて見たから、つい面白くなっちゃって……。ごめんね」
「はぁ、そうですか……。いや、私が言ってるのはそのことではなくて、その後の」
そこまで言ってからハッとして口を噤んだ。どうにも話が噛み合わない。となるともしかしたら、私は本当に夢を見ていたのだろうか。いやまさか、あんなにはっきりとした夢があってなるものか。あれは確かに我が身に受けた彼の感触、愛の言葉、のはず。
「何? その後の、なんなの? なんかあったっけ? 」
「は、いえ。なんでもありません。なんでも。大方寝惚けてたんでしょう。それでは、もう夜も遅いですしここらで失礼しますよ。まったく、とんだ時間の無駄です。こんな茶番に付き合わされて。本当に……」
眉根を寄せる主君に背を向けかぶりを振り振り出ていこうとすれば、すぐさま背後で声が上がった。
正直もう勘弁してほしい。たとえこの茶番劇を先に仕掛けたのが自分であっても、だ。
「その言い方、何だか気になるなぁ。でもいいよ。今夜は君のおかげで楽しかったから……。ありがとう、孔明」

クスクスと小さい笑いに乗って耳に届いた台詞は穏やかなもので、私にはてっきりそれがいつも通りの劉備のように思えたので、振り返りそれに応じようとした。
足の向きを反転させ今まさにその顔を顧みんとした時、脳裏にまたあの得体の知れない不安がよぎった。さて、今私が振り返ったら彼はいったいどんな表情をしているだろうか。もしかしら、それはあの狂気じみた、心無い人形のようなものではないだろうか。未だ漏れ聞こえてくる笑いは人肉を欲して見せたあの狂った笑みを思い起こさせて、私は暗闇に沈む部屋の一角を凝視したまま動けなくなった。
何てこった。私はこのくだらない茶番を演じた男を心底恐ろしいと思っているのだ。

「孔明、どうしたの? やっぱり何か言いたいことがあるんじゃ? 無理しないで、言っちゃったほうが気も楽になるよ。ほら」
ねぇ、言っちゃいなよ。大丈夫だから。
言葉だけ聞けばあたかも心配そうに促しているように思われるが、それは違う。彼は狼狽える私の姿を見て、確実に面白がっている。言葉の合間合間に挟まる堪えるような嘲笑がそれを雄弁に物語っていた。
彼はしらばっくれているのかもな、と思った。
「いいえ、結構です。貴方に話すことなどもうありません」
やっとのことで紡ぎだした台詞にそう?と気のない返事だけをしてそれっきり彼は静かになった。
「……いえ、最後に一つだけ聞きたいことがあります」
じりじりと今まさに消えようとしている灯火の音を聞きながら、最後の気力を振り絞った。

「あれは、その、今夜貴方が仰ったことは全部……嘘、なんですよね?」

”全部”があの露悪趣味的な人肉嗜好ばなしのみを指しているのか、それともその後の身が焼き切れるような囁きまでを含めているのか、どうにも曖昧だった。怖くて、言葉を濁したからだった。
答えを待っている間が永遠にも感じられ、辛くなって目を伏せた。

「へっ? それだけ? ……そんなの決まってるじゃないか。しつこいなぁ、君も」
呆れるような声が鼓膜を震わせる。

「全部嘘だよ。最初っから終わりまで全部、全部! でも案外面白かっただろ? 少なくともぼくは楽しかった。君も楽しんでくれると思ったんだけどなぁ。ねぇ孔明」

堰を切ったように溢れだした笑いに弾かれ、気付けばその場から駆け出していた。
後ろから追いかけてくる「おやすみ〜」という気の抜けた声から逃げるようにして、一息に寝室のある棟の外まで飛び出した。ぜぇぜぇと息は荒くなり心臓がきゅうと締め付けられたが、それは駆けてきたせいだけではない。

しばらく夜風に吹かれながら一人きりで立ち尽くす。ああ、今日の星空はこんなに綺麗なのに、どうしてこんな目にあうのだろう。心の中で不平を言いながら、私は一つ了解していた。
私が望むもの、欲しているものは紛れもなく劉備自身だったのだ。
私は都合よく言うことを聞いてくれる劉備が欲しかった。疑うことを知らず、悲しいほどに人の良い劉備が望みだった。人の痛みを自分のことのように感じられる、純粋無垢な劉備を手に入れたかった。
だから、彼を悲しめ困らせることに執着した。それは自分のお望み通りの姿を再現するだけのただの確認作業に過ぎなかった。
しかし現実の彼は違う。私の掌になど収まりきらないし、思い通りにも決してならない。要は、私は都合の良い理想像を押しつけるだけ押しつけて勝手に失望していたのだ。

溜息を一つ吐き自分の体を掻き抱いてみても、気分は楽にも何にもならない。
きっと彼は全て知っていたのだろう。軍師のくだらない謀略など端から予期していて、それであんな悪戯を思いついたのだろう。今日だってそのためにわざわざ寝屋に呼びつけたのに違いない。
ふいに自嘲とも侮蔑とも言えない笑いが込み上げてくる。
ふん、あの無知で無学な男がそこまで聡いものか。考えすぎだ。全てが嘘、夢ならば、きっと彼も何も考えていないに違いない。本当にそう思った訳ではなかった。そう思わずにはもうどうしようもなかった。

早く寝所から遠ざかってしまおうと思い、ふらふらと足を進める。と、風に乗ってカチャカチャと陶器が触れ合う音が聞こえてきた。食堂と調理場があるあたりの一角からこうこうと光が漏れている。
近づき耳をそばだててみると、中の男達の豪快な笑い声がはっきりと確認できた。暖かな空気は仄かに酒気を帯びている。
ははあ、あいつはまた仲間内の楽しみから除け者にされたな。いい気味だ。
丁度良い、ここは是非とも御相伴にあずかって目一杯酔っぱらってやろう。もう、酒でも飲まなければやっていられない気分だ。うまい酒の一つもしこたま飲んで潰れれば今夜は眠れるだろうか。
安心してください。貴方の分までしっかり飲んであげますから。悔しがる劉備の顔を思い浮かべて口端が緩む。
明かりの漏れ出る戸に向かいながら、今一度彼の寝所を顧みた。好きだよ。好き。愛してる。彼の言葉を噛みしめながらぐっと天を仰ぐ。

「それは、こっちの台詞ですよ。……愛してます」

震える声で紡いだ言葉は暗い夜空に吸い込まれて消えた。この言葉が然るべきその人に届くことは果たしてあるのだろうか。
もし、万が一届くとしたら、絶対にこう伝えよう。この思いは嘘じゃない、夢でも幻でもない。裏も表もない。紛れもなく私から貴方に向かい、現実に存する激情なのだ、と。