カエル空
曇った硝子を人差し指の先でなぞって描かれた絵は、水滴に滲んで何が描かれていたのか判別できなくなった。
暖かい暖房の空気が、内側と外側の温度の差を徐々に開かせている。
夕闇の光すら疾うに消えた窓に触れる先程からずっと凍えていた指先を、吐く息を白くして偶に温めた。
暗がりから這い出た影を一つ見逃さず、フランは外へと窓から降りた。
「サンタさ〜ん!」
「……………?」
影は黒い影のまま何も答えず唖然と声の主を眺めていた。
「あ〜、なんだ〜」
「なんだってなんだっての」
「ただのセンパイじゃないですか〜? 人違いもいいとこです」
「お前が勝手に間違ってんだろ」
あからさまにがっかりして、睨む風でもなく睨み付けて来たフランに、ナイフを刺そうと手を出した。
「だって今日クリスマスイブですよ? こんな日に外でもぞもぞしてる人がいたらサンタさんかと思うじゃないですか? コソ泥みたいになにやってんですかー?」
「いねえし、思わねえし」
「去年もちゃんと来たから、いないってことはないです」
「言ってろよ。ったく」
「で〜、センパイこんなとこでなにしてんです〜? やっぱりこそっとドロボーですか〜?」
「王子がドロボーとかするわけねえだろ! オレはミンクがこれにはまったからたすけよーとしてただけ。誰だよこんなとこにワナ張ったやつ。見つけ出してサボテンにしてやる」
「…………チッ、あ〜あ、ワナしかけ直さないと〜」
ベルにも聴こえる舌打ちをしてフランは罠にした籠を地面から起こして、支えにしてあった棒を斜めに挟めた。
「おい、チッてなんだよ。……………このワナじゃぜってえサンタ捕まんねえし! つかお前の仕業か!」
後輩の愚の骨頂を極めていた思考に激怒して、ベルは手当たり次第にナイフを投げ付ける。
「あいでっ!!!!!」
ザクザクとしゃがみ込んだフランの背中にナイフが次から次へと刺さる。
「でもミンクはかかったじゃないですか〜?」
ナイフを一本ずつ抜いて折り捨てながら、ベルの方を振り返った。
「お前がミンクとサンタイッショにすんのかよ。まあミンクのが賢いけど」
「………動物なので」
「いしゃりょー払えよ」
ガタガタと震えながら罠から放たれたミンクは、ベルの肩に乗ってそれでもまだ震えていた。
「払いませんー。どこもケガしてないじゃないですかー」
「見ろよ、こんな震えてんだろーが。かわいそーに、よしよし」
震えを抑えるように背筋と尻尾を撫でている。
「ミンクばっかりですよねー」
「なあ、サンタ捕獲してどーすんの?」
「そりゃ決まってるじゃないですか。イッショに写真撮るんですよ」
ベルと目線を合わせようと立ちあがったが、カエルの視線はやはり遠くを眺めていて交わらなかった。
「なんで?」
「う〜ん、センパイとか雷オヤジとかに見せびらかしてやるつもりです」
「なんでオレだよ。べつに見たくねえし。サンタの写真とか。だいたい、んなにサンタと写真撮りてえなら、街中で写真撮ってくりゃいーだろ? サンタのカッコしてるヤツみっけて」
「あいつらはミーへのプレゼント持ってないニセモノでした」
欺瞞に酷く憤慨して、黒目だけになった目を釣り上がらせた。
「んじゃ撮らしてやっからさっさと撮れよ」
「え? センパイの写真なんか要りませんよ?」
「サンタオレだし。ほら」
「え〜? でもサンタのかっこしてないですが〜」
「でもオレなのっ!」
「いや、意味わかんないんでー。大体センパイの写真撮ってセンパイに見せびらかすって、どういうことですかー? …………ナルなんですかー? そういうのどんびきなんすけどー」
「だからオレに見せびらかさなくていーつってんの! 信じねえしサンタなんか」
「も〜、勝手にしてくださいよ〜。ミーは信じてますので」
「じゃあ、撮れよ」
「だからー意味わかりませんのでー」
「わかんねえやつ」
「わかんないのはセンパイの方じゃないですかー」
「んっ」
どこかにしまわれてあった袋を取り出してフランの方へと差し出す。
「なんですかー? 開けちゃいますよー?」
「いーぜ」
押し付けられた袋をベリベリと開いて中身を取り出した。
「あっ。なんでセンパイがこれー?」
出て来たのは数日前にサンタクロースに向けた手紙に書いていた欲しい物だった。
「お前がいるっつったんだろ?」
「言いましたけどー、でもセンパイからもらうギリないので返します。ミーにはサンタさんが届けてくれますので」
だがやはりベルの言おうとしていることは信じずに、与えられた贈り物を戻そうと差し出した。
「だからサンタだっつってんじゃん」
「あ〜もしかしてセンパ〜イ」
「なんだよ」
厭きれて自分の方へとにじり寄って来た目を避けてベルは少し後ずさった。
後に引きながらもなんとなくムカついたカエルの頭を一度殴った。
「いてっ。サンタさん捕獲してミーへのプレゼントぶんだくったんですかね〜?」
「ばっ! ちっげえし!」
「正直に白状してくださ〜い。サンタさんに合わせてくれたら水に流しますよ〜。どこにいるんですかー?」
きょろきょろとベルの後ろを見回して、暗がりを窺っている。
だが幾ら瞳を凝らそうとも、寒さの暗い中へ他に人などいはしない。
「うっせっての。知んねえしサンタなんか。ていうかオレだし!」
「だからなんでセンパイがー…。…………!」
言いかけた所で何かに気付いたように息を飲み込んだ。
「どした?」
「わかりましたー。そうだったんですねー」
「あ。やっとわかってくれた?」
物解りの悪い後輩に漸く口元だけで安堵した。
「センパイもーサンタさんになりたかったんですねー」
「は?」
「センパイにも夢とかあったんですねー」
「いや、だからさ」
「そういうことならミーも応援しますのでー、センパイがサンタさんになったらぜひ一緒に記念写真撮ります」
「あ、ああ」
「はいー。でも今はまだ早いと思います」
「って、ちがーっつの!」
「ゲロッ!」
ナイフの刺さったカエルをかわいそうに思って撫でてやったフランは、本当に意味がわからないという顔をしてベルを眺めていた。
「も、いーから中はいっぞ。あーさっみ」
「根性なしですねー」
「うっせ。ホットミルク入れろよ。カエルのせーですっかり体冷えたし」
「ミーも飲みたいのでついでに入れてあげますよー。………ちょっとだけ見直してあげようかと思ったのになー」
「バーカ! めざさねーよ、サンタなんか」
「ちえっ」
暗闇の中に無数の星はチカチカと煌き、ひとつふたつと数えてみても数え切ることは到底出来ない。
空の彼方でベルはどこからか鳴る鈴の音を聴いた気がした。
振り返って見上げた夜は少し風が強くなったばかりだったが、遠い月明かりの中に確かにソリを引いて進むトナカイの影を見た気がした。
屋内に入ろうとしたフランの背中を目線で追ってから、もう一度後ろを見返した。
だがそこは既に何の異常もなくなっていたので、声はかけずにベルも温かい部屋へと戻っていった。
(おわる)
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