もう二度と辿りつけない場所 4

 明々と崩れ落ちてゆく建築物はフランにしか見えてはいない。
 他の誰の目から見ても異変も異常もなく美術館は、心細くなる程の閑寂で満ちている。
「…………センパイ、いつからいましたー?」
 声をかけるのすら億劫で登った木の上にぼんやりと体を預けていた。
「ちょっと前から。きっちり燃えてんだろーな?」
「あのおっさんはもうちょっとだけ生きられたと思うんですが」
 抗議の意味が込められたわけでもなかったが、非難めいて聴こえなくもない調子で尋ねる。
「ちょっとはえーかおせーかだけの違いじゃね?」
「そうだといいですよねー」
「しししっ、そうだって。お前もいつでも自害していーから」
「嫌です〜。する理由ないですし〜。なんですかー、それ?」
「ああ、これ? すっげー価値のある絵」
 片手に持っていた絵をベルは広げてフランの方へと見せた。
「………もしかして報酬ってそれなんですかー? すっごい価値があるとかないとか。………どっちかと言うとないですよねー、多分」
 どう見てもその辺にあった画用紙に、幼いこどもが落書きした風にしか見て取ることのできない絵にフランは首を傾げている。
 クレヨンの歪な線は人の顔を模倣して描かれているようだった。
「そっちは土地売っていーっつってたぜ。これ権利書な」
「ゲンキン払いじゃなかったんですかー? こんな山奥のヘンピなとこ、いわく付いちゃったら売れないと思いますー。あ〜あ、タダ働きかよ〜。堕王子の甲斐性なし〜」
「だまれよ、カエルのバーカ」
 手にしたナイフでフランをスパスパと切り付けた。
 ナイフが刺さったのを気にせずに、フランは受け取った絵を見ている。
 誰の手によって何のために描かれて手渡されたのかなど、推察も出来なかった。
 どんな理由があれどどうでもよかったから、ベルに尋ねもしなかった。 
 ただ絵に使われていたクレヨンの緑の線が気に入ったから、そのまま折り畳んで自分のポケットへとしまった。
「なあお前さ、こども……」
「知りませんよー、ミーはなんにも」
 自分と入れ違いで建物の中へ入ってゆく少女の後ろ姿を見た気がした。
 不意にベルの思い出した問いかけはフランによって即答で遮られる。
 本来ならば炎に輝いて明るい筈の空は、何事もなく只管な闇だった。
 寒さのためにか心なしにフランの手の平は震えて見える。
 ベルは無理矢理にその手を繋いで、どう目を凝らしても見ることのできない燃える建物を眺めた。
 しかし幻術のかけられたその場所には、美術館はいつものように建っていてそれでも夜通し燃え続けている。
 燃えられるものがなくなって、夜が明けた頃に下っ端の部隊員が到着した。
 瓦礫の残骸は片付けられ、跡形もなく唯の砂の更地に戻されてゆく。
 漸く解かれた幻の後には焦土の匂いが残っていて鼻に付いた。


 それから数日かかって少し真冬に寄った日に、曇天の鈍い空が寒く聳えていた。
 早い朝に踏まれた霜は昼前には光に融けてぬかるんだ。
「死体? そんな報告はなかったけど」
 焼失の事後処理をしたルッスーリアは、資料室からフランが指定した期日のファイルを取り出した。任務の詳細報告へと目を移す。
「そうなんですかー? でもおっさんが一人いたと思うんですけどー、そこの持ち主だとかで」
「あそこの持ち主? やあだ、怖いこと言わないでちょうだい」
「オカマの顔のが怖いですけどー、どういうことですかー?」
「ちょっとフラン! ………あの美術館のオーナーは二年前にもう亡くなってるのよ。なんでも交通事故に遭ったって話みたいね。詳しくは知らないけど、ここに来た情報だと間違いなく死んでるわ」
 ルッスーリアが報告書を読み上げて顔を上げた時に、フランが溜めていた息を唾と共に飲み込んだ。
「へー、そうだったんですかー。ミーヤボ用思い出したので、もう行きますねー。んじゃー」
 二の句を次げずに話は打ち切って資料室から出て行った。
 足音が徐々に遠ざかってゆくのを、ルッスーリアは別の資料を取り出しながら聴いていた。
 それがある程度遠ざかってから、傍らの無駄に豪奢な陶器製の電話の受話器へと手を伸ばした。
「………なんだよ。うっせえ」
「んもうっ、ずっといたんでしょ、ベルちゃん。早く出なさいよ」
 だが内線を繋いだ先では、中々電話が取られなかった。
「フラン、来たわよ」
「あーっ、そ」
 興味などない様子でベルはルッスーリアへおざなりに応対する。
「言われた通りに言っといたけど、よかったかしら?」
「いーぜ」
「後輩にはけっこう甘いわよね、あんたも」
「ちがーし、カエルびびらそーとしただけだし」
「………ほっとした顔してたわよ」
「なんだ、つまんね」
「素直じゃないんだから。…………それから、頼まれてた素性調査だけど、あのオーナー一度離婚してて前妻との間に娘がいたのよ」
「へえ」
「別れてから産まれたらしいわ、その子。しばらく前に母親と一緒に火事で亡くなってるみたいね。ずっと病気がちで、ほとんど寝たきりの生活してたらしいの。かわいそうにねえ」
「んで?」
「娘がいたことすら最近まで知らなかったんですって。一枚だけ奥さんの知人だった人から二人の写真を手に入れて初めて知ったらしいわ……。所在がわからなくなって、音沙汰もなくなった奥さんをずっと探してたのよ」
「ふーん、そ。んじゃ」
「んもうっまだ途中よ? 人の話は最後まで聞きなさいよ」
「きょーみねえから」
「調べろって言ったくせに、もう意地悪なんだから!」
「あ」
「どうかしたの?」
「………………ルッス、どーもな」
「?」
 あり得る筈のない殊勝さにルッスーリアが疑問を感じた所で内線は切れた。
「わけわかんねーし」
 話を終えたベルが受話器を置いてソファーに寝そべった所で、ちょうど部屋の扉を叩いた者があった。
「入れよ」
 その予想していた来客を予定通りに歓迎する態度ではなく迎えた。
「センパーイ、なんかあの美術館の持ち主って、ミー達が行く前にはもう死んじゃってたらしいですよー」
「んあ?」
「あの人誰だったんですかねー? 不法侵入者ですよねー?」
「そりゃ、決まってんじゃね? おばけ」
「今冬ですよー。冬におばけはでませんが〜?」
「でたし」
「でーまーせーんー」
「でーんーのっ」
「でるんですかー?」
「王子の言うことは絶対だから、でんの」
「そうですかねー?」
「マジだって」
「マジですかー」
 改ざんされた記録を悟ってか悟らずか、フランはベルへと久しぶりにほのかに笑って見せた。
「なー、あしたさ、雪だってよ。雪合戦でもすっか?」
「そうですねー。降ったらやります。でも雪の中にナイフ入れないでくださいねー」
「んじゃ、すっげーでっけえ雪玉つくってお前の頭かち割ってやるよ」
「カエル被ってるから平気なのでー」
「んじゃカエル割りな」
「イヤですねー。コーハイいじめに付き合うの嫌なのでやっぱやりませーん」
「やんの」
「それに、センパイ多分明日になったらさみーしめんどくせって言うと思います」
「いわねーよ、やんの」
「そうですかー?」
 露骨に疑いの眼差しを作って、ベルの顔を覗き込んだ。
「んじゃゆびきり」
 差し出された左手の小指へとフランは右手の小指を結ぶ。
 冷たく寒い空気の上空では確かに雪が降りそうな暗雲が天を覆っていた。
 体温の一切なかった繋がれた指を温めるように、ベルはそのまま腕を振って指を切った。


(おわる)



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