もう二度と辿りつけない場所 3
そこでベルが目にしたのは部屋ではなく、雨が降れば雨を通し、風が吹けば風を通す小さな中庭だった。
青天から傾いた日の光が外壁に当たり、くっきりとした光と影の境目が出来ている。
一目で見回せるほどの広さの中には、フランの姿などありはしなかった。
「いねえじゃん」
「そろそろかと……少しお待ちください」
咎めた視線を送るベルへと顔を向けて、主は右手にしていた腕時計で時間を確認した。
「……う〜ひゃ〜っほ〜」
どこからかおかしなかけ声とともに風を切る音が聴こえてきた。
声の方を見ると、よく判らない横穴のような部分からフランがもぞもぞと出て来る。
「なにしてんだ、バカガエル」
「? ああ、ベルセンパイ」
「どっから出て来てんだよ?」
「どこってそこです。今見てたじゃないですかー」
自分が落ちて来た穴を人差し指で差した。
「やはり、こちらだったんですか」
「二階の変なトコにあったドアに入ったらすべり台になってたんで、ついすべっちゃいましたよ」
「ついじゃねえっての! クソガエル! 死ね!」
「なに怒ってんすか〜。すべり台すべったぐらいで死ななきゃなんないんですか〜?」
「しかしあの扉には鍵がかかっていたはずなのですが」
「ああ、これですかねー?」
無理矢理に壊した鍵をポケットから出して見せている。
「勝手なことすんじゃねえよ」
「だって面白そうだったんですもん。どうせ壊すんだからいいじゃないですか」
「んな面白そうなら、オレにも教えろっての」
「なんだセンパイもすべりたかっただけですかー。待っててあげますんで、どうぞー」
「ちがーし!」
「もー。あー、あれすごいですねー」
中庭も綺麗に清掃が行き届いているのは建物の内部と同じで、ゴミも一枚の枯れ葉すらも落ちてはいなかった。
庭の芝生は枯れていて、やはり枯れている彩り用の木は春になればまた芽吹くために梢に萌芽を宿していた。
歩み寄った先には五角形のずっと以前から水が止められて、噴き出していない噴水があった。
中央の人魚の像だけが月日の流れを留めずに錆び付き始めていた。
「おもしろくもねーけど」
「さびてて蒼っぽい色がキレーじゃないですかー?」
「すっげえ傷んでるし」
「そうですけどー、それも味ってやつですよ。センパイってやっぱこういうの分かんないんですねー」
「乳ペタだし、かちねーって」
「…………そんなのばかりが価値じゃないと思うんでー」
からかうように哂って自分の方を見ているベルに蔑んだ眼差しを送る。
「おめーだって実はわかってねんだろ?」
侮蔑のように舐めた目付きで自分を見たフランをまた嘲笑った。
「それではそろそろ最後の部屋へ行きましょう。もう日も暮れて来ました。夜になってしまいます」
言いながら入って来たのとは違う部屋へと続くドアへと向かった。
「あ、もう終わりですかー」
出口に面した部屋も今までの通りにただ広く空いていた。
パンフレットを眺めてもう創れる美術品がないのに気付き、詰まらなそうな顔付きになった。
「どしたの? あの絵」
空間全体を見回していたベルは、一枚だけぽつりと取り残されていた絵画を見付けた。
フランへ目を向けたが、知らないというように首が振られた。
「私が描いた、知人の娘の絵です。元々はここに飾ってあったものではありません。この美術館を閉鎖して、殺風景になったから飾ったもので…」
金箔の塗られた枠はくすんで褪せていたが、描かれた幼い娘は微かに笑みを見せている。
「へー、これが最後に残した絵か?」
「これは違いますよ」
「う〜ん、なんかつまんなそうなカオした子ですねー」
男がベルに答える前にフランは端的に絵を眺めて、感じたことだけを述べた。
「おめーにつまんなそうとか言われたくねえだろ、この絵も」
「そう思われるのは、あの娘が生きていた頃から生きてなどいなかったからなのかも知れません」
「? 意味わかりませんー」
「いえ、なんでもありませんよ」
「あんたはこの娘が大事だったんですかー?」
「ええ。大事だったはずです」
「そうなんですかー」
「ですが」
「はい」
「今もこれから先もずっと、私はこの娘さんについて何も知れないままなんですよ」
「そうなんですかー。まあキレーな絵だけど、やっぱ大した価値はないみたいですねー。キレーなだけで」
「ええ、仰る通りにこれにはなんの価値もありません」
深く二、三度首を強くゆっくりと上下に振った。
「あ゛?」
「じゃあ、すごい価値のある絵はどこなんですかー?………ここには本当は何が飾ってあったんですー?」
「……なんでしたか。思い出せませんな……」
描かれていた絵の中になのか、酷く昔を慈しむ瞳で壁を眺めていた。
「ねえおっさん」
「なんでしょうか?」
「なんでここぶっこわすの?」
「私にはもう、何もありません。いや、何も必要がないと言った方がいいのか……。その前にこの建物だけは」
「昔にはなんか持ってたんですかね?」
「何を持っていたんでしょうね…。妻がいました。しかしいつしか折り合えず、互いを理解する努力もできなくなりました。些細なことでしたが、ただそれだけでうまくいかなかったのだから、始めから何も持ってはいなかったのかも知れない……。もう大分前に妻とは別れてそれきりです」
「なんで他人なんか理解するひつよーがあんの」
「理解しないよりは楽しいでしょう」
「んなことねえよ」
館主を嘲笑って口元を歪めた王子を見て、カエルは目元に微かに哀れみを浮かべた。
「なんだよ」
「いえ、センパイってかわいそうな人だなーと思っただけです」
「カエルの分際で。てめーだってわかんねークセに」
「最後にお二人にもう一つだけお願いがあるんです」
「今度はなんだよ? 王子そろそろシゴト終わらせて帰りてえんだけど」
いい加減にうんざりとしていたのに加え、フランの一言の面白くなさも相俟って、余計にベルは不機嫌な態度を見せる。
「ここと一緒に私も燃やして欲しいのです」
「え〜っと、それって〜」
「あんた殺していーっつうこと?」
気も忙しくベルは右手の指へとナイフを取り出している。
「いいえ。私は殺されるのではなく、焼死がしたいのです」
「…………? そんじゃオレがつまんねえんだけど? 勝手に死ねよ」
「そういうことですかー」
「そういうことなんです」
「だからミーが呼ばれたんですかねー?」
「?」
ベルは合点の行かない顔をフランの方へと向けている。
「これが燃え尽きるまで、誰も来ないようにとかなんでしょうかね〜?」
「………ああ」
「そういうことなんです」
「どうしますかー? センパイ」
「ま、燃やしてくれっつうならやっけど」
躊躇いも戸惑いもせずにベルは予定外の仕事を安易に引き受ける。
「やるんですかー? あんま気が進まないんですけどー」
「お前のシゴトじゃねえし。先に外出て術しろ。オレはこのおっさんとちょっと打ち合わせすっから」
「でもー」
「いけよ。王子の仕事のジャマすんじゃねー。おめーの仕事は術かけるだけだなんだから、外でできんじゃん?」
「……………。わかりましたー」
気も進まず予定の範疇では荷えない仕事の依頼に納得はしなかった。
ベルに追い立てられたフランが次の間へ続く扉を開けると、そこは一番最初に館の主と会った薄暗い入り口に繋がっていた。
表に続く扉を開いて庭に出ると、未だ暮れていない陽が西側の空全体を暖めて輝いてはいた。
それでもやはり冷え続けてゆく風はフランの頬へと切れたような痛みを走らせた。
どれほど経ったのか知れず、幻術の狭間から見え始めた火の色に燃えてゆく建物を眺めていた。
(つづく)
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