もう二度と辿りつけない場所 2


 階段を上がっている途中で、二階にはある程度の明るさが差し込んでいるのに気が付いた。
 ガラスブロックで構築された左の方の壁から光は洩れる。
 洩れた光は絵を飾ってあったらしい場所までは全く届くことがなかった。
 反対側は全面がコンクリートで塗り込められていて、少しの隙間すらもないように見えた。
 見渡せる限りの部分には、展示してある作品は一点もない。
 配置されたガラスケースや、コンクリートの壁に打たれた釘の痕でしか、様々な美術品が展示されたのを窺い知ることができなかった。
「絵なんかいちまいも飾ってなくね?」
 簡素な空間に持った疑問を迷いもせずにベルは館の主にぶつけた。
「ええ。ここに展示していた作品は、全て然るべき施設へと譲渡しました」
「あ゛? 案内するっつったろ、おっさん。なめてっと刺すぜ?」
 化かされた苛つきを隠すこともなく、周到に用意されたナイフを手の平で鳴らせている。
「見て頂きたいのは、ここに残った思い出と、最後に残した絵なのです」
「絵えあんじゃん? もったいぶってねえでそれ出せよ」
「ですがそれはここに飾られていたものではないのですよ。最後の最後に見て欲しいのです」
「そんなに価値のある絵なんですかー?」
「いくらくらい?」
「他人にとっては、高額な代金を払って手に入れたい代物ではないんですよ」
「価値なんかないんじゃないですか〜?」
「いいえ。私にとっては、値段など付けられないほど貴重なものです。ですが他の誰にとっても、それに価値はないでしょう」
「ふーん」
「まずは、こちらに掛かっていた絵の説明から致しましょう。もっと傍に寄って眺めてください」
 コンクリートの壁へと寄らせて、男は壁に懐中電灯の光を当てる。
「なんもねえし」
「壁じゃないですかー。あ、それ飾ってあったやつのパンフレットですか?」
「ええ」
「ならミーにください」
 フランは受け取った小冊子をぱらぱらと捲って順序通りに絵を眺めて行った。
 口々に不満をぶつける二人をさほど気にも留めずに、館の主の男は絵の解説をし始めた。
 始まりに飾ってあったはずの、美しい淑女が描かれたカンバスが突如壁に浮かび上がる。
「これは」
 目の当たりにした存在しないはずの絵の存在に、館の主は息を飲んで目を丸めた。
「幻術かよ?」
「やっぱ本物がないと見た気しないので」
「もれなくニセモンだろーが」
「………本物ですよー。これも、あれも、あっちのも」
 コンクリートの壁には次から次へと絵が浮かんでゆく。
 不思議がりながらも尚、出された絵の隅から隅までを男は見分する。
「あ゛?」
「これは紛れもなく、ここに飾ってあった本物の絵です」
「へー。お前そんなのも出せんの?」
「こっちに集中したいので、まだ外はいいですよねー? ならしばらく外の術は解きます」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
 笑ったという程に大袈裟でもなく、ずっと訝しい表情をしていた男の目元と口元が緩まった。
「どういうからくりだよ? お前こんな絵見たことあんの?」
「今見てますがないですね。からくりというか、おっさんに見せてるのはおっさんが憶えてる絵なんですよ。だから本物を憶えてれば憶えてるほど、本物の絵が見えます」
 しゃがみ込んで注意深い瞳をパンフレットに向けたままで答えている。
「へえ。オレは?」
「センパイは偽物しか知らないから偽物しか見えませんのでー」
 そこだけ顔を上げて、曖昧に笑う目元をベルへとやる。
「王子が偽物しか知んねえとかねえし!」
「知らないじゃないですかー」
「そうでしたか。私は未だこれを憶えているのですね」
「そうですねー」
 いい加減とも思える相槌を打ったフランへ謝意を示すのに男は礼をした。
 だがフランにはその絵の何が面白いのかはさっぱり解らなかった。
 電気は既に通っておらず、空調も効いてはいない室内へと電灯が燈ってゆく。
 先程まで暖かくもなかった部屋の温度は急に上がり、どこからかボイラーの焚かれている重い音が響いて来た。
 ベルを素知らぬ顔で無視して、フランは男と共に真剣な表情で理解の出来ない絵を眺め始めた。
 

 まるで隙を見計らって亡き者にしようとも思えるほど、ベルは前を歩く男の背中から目を離さずにいる。
 案内されるままほとんどよそ見もせずに進む。
 フランは好奇の眼差しと幻術の参考のためにの名分が相俟って、きょろきょろと建物の内部へと隈なく瞳を動かしていた。
 あちらこちらと気も漫ろで前の方には全く注意を払ってはいない。
 時折ベルがその首根っこを捕まえて、正しい進路へと戻してやっていた。
 描き上がった後に失意で筆を折られた不遇に満ち満ちた名画も、与えられた順境を欲しいままにした画家の名作も、全ての絵がそこでは平等な意味を持って飾られていた。
 二階の最後の壁に展示されていたのは、志しの半ばまで描かれ続けていた嬰児を抱いた聖母の絵だ。
 夭折した無名の絵描きの遺志が引き継がれてはいたが、塗り残されたカンバスの余白はもう永遠に埋まらない。
 その絵も事実には既にそこに在らず、男から誰か信頼に足りる人間の手に渡っていたはずだ。


 そのまま階下へと降りた時に、フランの気配が消えているのに気付いて、ベルは後ろを振り返った。
「…………カエル?」
 案の定ふらふらと立ち止まっては歩いていた影は消えていた。
 術はかけられたままで、彼等が今まで見て来た絵はそのままでそこにある。
「どうか、なさいましたか?」
「フラン? どこ行ってんだよ」
「カエルの帽子の方、どうかなさいましたか?」
「ああ。おっさん知んねえ?」
「さて、弱りましたな。私は何も存じませんが………」
「マジで知んねえの? 隠してっとはりせんぼんだぜ?」
「心当たりがないこともありませんが、しかし。ならばともかく、向こうの部屋へ移動することにしましょうか」
「なんだよ?」
「ええ」
 歯切れも悪く館主ははっきりと答えずに次の部屋へ続く扉を開けた。
 扉の隙間からは灰色の壁に反射している眩しい光が、一瞬だけ二人の目の奥を眩ませた。

(つづく)



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