花守小町


 真水の温んだ春の半ばに似た気候が続いていた日々のことだ。
 覚えのあるようなないような、咲き誇る時期外れの並木へとフランは瞳を向けて、真新しいはなびらの香りを吸い込んだ。
 一枝が咲ききる前の桜を人差し指と親指で手折り、カエルの耳へと挿した。
「?」
 耳へと何かが聴こえて来て、不意に落ち着きなく周囲を見回す。
 疑問には思ったもののそれ以上はどれだけ耳を澄ませても、何も聴こえてくる気配はなかった。
 だからフランはそれをもう気にもせず、家路へと引き返してゆく。
 カエルに挿されていた小枝はアジトに辿り着いた頃にはどこかの道に落として消えていた。
 ずっと前に終わっていた春の残り香もなくなっていた。


 フランが二度目にそこを通りがかった時、それはもう既に一昨日の話になっていた。
 花は散るどころか、二日前よりも勢いを増して天高くへと花弁を伸ばしている。
「あれー?」
 裏通りの狭い石段を上ってゆく見知った後ろ姿を見付けて、呼びかけとも独り言ともつかない声が上がる。
「フラン」
 ベルが顧みた石段の先では、降り下りる花びらが足元を薄花桜の色に染めていた。
 煉瓦の小径は差し込んだ所々の木漏れ日が桜の形に揺れている。
「センパイ、奇遇ですねー。どっか行くんですかー?」
「まーな」
「そうですかー」
「おめーはなにしてんだよ」
「あ〜、先日そこでうたが聴こえたんですよ」
 降りて来たベルに並木のある石段と、煉瓦の歩道の境目を指し示した。
「ソラミミ?」
「違うんです、ミーはちゃんと聴いたんですよ。でもどこにも人はいなかったし、ラジカセもなかったし、スピーカーもなかったし、信号もありませんでした」
「ふーん」
「でもですねー、今になってあれは声じゃなかったのかも知れないとも思うんですよ」
「あ゛? おめーがうただって言ったんだろ」
「なんですが、それは言葉に聴こえただけで、本当は音だけだったような気もするんですよねー」
「んじゃ、聴こえたような気がする、ってだけでやっぱ幻聴だろ」
「違いますよー。たしかに聴いたんだけどなー。ほらそこの辺りなんですけど、何もないでしょー? おかしな話ですよね」
「おめーの頭がな」
「違いますー。そんなんで、その音の正体を確かめに来たんです」
「ふーん、くだらね」
「そっかなー」
「んなことよりさ、ちっとそこまで付き合え」
「どこ行くんですかー?」
「おもしれーとこ。こねーならいいけど」
「う〜ん、面白いなら行ってみます」
 少し先にいたベルの後を追って、フランも石段へと足を進めた。
 そこでは急に強い日差しを浴びた樹木の影が、酷く濃く道へ残っている。
 その異様さに眉を顰めて小さな通りを渡るのを一瞬躊躇した。
「センパイ、待ってください」
「? んだよ?」
「なんか変じゃないですか? この道」
「そか? べつにフツーじゃね?」
 遠くからの声が木々の狭間で反響して空へ消える。
「やっぱあっちの道から行きませんかー?」
「怖いんならお前一人で帰れよ」
「べつに怖いわけじゃないですけどー」
 少し離れたベルの口元が哂ったのを見て、不機嫌に表情のない顔でフランは地面を蹴り付けた。
 だが二歩三歩と歩んで背筋がざわめいたのを感じ取って立ち止まる。
 その瞬間に足首を黒く蠢動する影が意思を持ったように上って来た。
 飲んだ息を吐き出せずに爪先で影を蹴り付ける。
「………なん、ですかー?」
 ……は…る………告げ…ば…なの……誇る……香…を………
 だが足を引いた力は強くフランの足首は掴まれたまま、離されなかった。
 ………摘み…去…り…ゆくは…………見……許さぬ…………
 歌う影に合わせて桜の花はざわざわとざわめき出す。
「? ……センパ…イ……?」
 助けを求めようとも思わずに唯目をやってみただけの道の先から、ベルの姿は消えていた。
 ……ゆ…ず……る……御霊……と……とり…か…えの…………
 逃げようとする意識を殺がれたまま、姿を留めた形のない流れから確かに聴こえて来る振動に耳を澄まていた。
「どこに、行っちゃったんですー? …センパイ」
 ……………り…しろ……置いたら……………わ…た…そう……か………
「……なにを置けば、いいんですかー?」
 水溜まりのように光は道端に溜まり、いつまでも瞳を眩ませている。
 歌は終わり一旦そこで音は途切れた。
 …お前…そ……の…入れ…もの……を…置い…て……ゆ……け……………
「いれもの?」
 影は散る、翳も散る。
 地を蠢いて自分の足元を掬おうとする暗がりを足で掃う。
「なんですかー? こっち寄んないで欲しいんですけどー。しっしっ」
 だが黒い靄はまとわりついて離れずに、淀みが消えることもなかった。
 はなびらが無数の凶器となって、本当はずっと咲いていたはずのない花が散る。
 幾筋も幾筋も、千行の涙のように流れ落ちた。
 フランが気付いた時には、何枚かのはなびらが体を掠めて痛みを覚えた。
 左肩が裂けたのを手で擦ると、手の平にはべたりとした紅い血が付いている。
「あ〜、いた〜…」
 足首に激しい痛みを感じてへたり込むと、どの風にも触れていない木の梢が激しく揺さぶられた。  不可解さに見上げた頭上からは先程の比ではない夥しいはなびらが、雪のように降り注ぐ。
 全ての花弁は硝子のように透き通って光彩を反射させている。
 座り込んでいたフランを目がけて、また鋭利になったはなびらが一斉に襲いかかって来た。
 予想以上に深く付いた傷のせいで思うように反射的に体を動かせなかった。
 だが不意に走った数え切れない程の眩い光の線のせいで、全ての景色が眩む。
 光の後には輝く風の残像が細くきらきらとまた輝いた。
「は〜」
 引き裂かれたはなびらはフランの周囲に落ちては融けるように消えてゆく。
「なに遊んでんだよ、カエル。お前にはなびらとかにあわねーから」
 ベルから手繰り寄せられたワイヤーは生き物のようにナイフを引き戻し、引き戻されたナイフは何時の間にかどこかへ収納された。
「………センパーイ、置いてくなんて酷いじゃないですか〜」
「あ゛? オレ、今来たばっかだし」
「さっきそこで会いましたよ。面白いトコ連れてってくれるとかなんとか」
「お前のことなんてどこも連れてかねえから」
「んじゃあれなんだったんですかね〜?」
「しらねーけど」
「う〜ん」
「そういやここってさ」
「?」
「その木の枝折っと祟られんだって話なかったっけ?」
 ベルが指を向けたのは、石段の一番手前に植えられていたフランが手折った木だった。
「あ〜…………枝折ったくらいでおおげさだなー」
「お前やったのかよ?」
「一昨日ですねー。死ぬかと思った〜」
「しししっ、そのまま祟り殺されればよかったんじゃね?」
「そんなくだらないことで死にたくないです。……っつ〜」
 立ち上がろうとした時に体重をかけた足の痛みに耐えれず、またそこに腰を降ろした。
「連れて帰ってやるよ」
「………センパ〜イ、ホントにホントの本物ですか〜?」
 膝の裏と背中に腕を回されて地面から引き上げられ、ベルへとつんつんとした瞳を向ける。
「……そん代わり」
「はいー」
「後でナイフのマトになれよ?」
「嫌ですね〜。本物ですねー。なら安心ですー」
 ベルの右肩に顎を預けて、背中へと回した手の平をきつく組んだ。
「………ちょっとしがみつき過ぎじゃね。カエルジャマなんだけど」
 首にはカエルの帽子が不快に密着している。
「途中でおっことされると困るので」
 きつくしがみ付いて来るフランの背を一度撫でて、ベルは石段とは反対方向に歩き出した。
 目を瞑っていたフランが興味本位で薄く瞼を開くと、ざらざらと音がしてはなびらは一斉にまた散り始めた。
 冬の木々に花が咲いていた跡形はなく、葉も枯れた梢は閑散と滋養を溜めるのに陽光を浴びる。
 急に相応の寒さを感じたフランは、体を温めるのにベルの背筋に触れる腕に力を込めた。


(おわる)



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