夕星なみだ
厚い雲が相当な量の雨を降らせて、日々、庭は水に浸されるばかりだった。
明けきらない梅雨の灰色をした空が頭上へと重く圧し掛かり視界の隅々を遮っていたが、その日は漸くのことで降雨は収束していた。
「なにをしているのですか?」
クロームとフランが広告を切って、輪っかを作り終えた所に帰宅した骸は、不思議そうな顔をした。
「あ、師匠、おかえりなさいー」
「お帰りなさい。これ、七夕の飾り……フランがやりたいって、竹も取って来たの」
「これはなんです?」
「短冊っていうんですよ。今日は七夕って言って彦星と織姫が年に一度会う日なんですー」
「よく知っていますね。どこで教わったのです?」
「…………ええとー、前に……夢でオカマからー」
少し考え込んでやはりいつだったか定かではない記憶を思い出そうとした。
然し辿った先は懐かしい思い出などではなく、不快で憂鬱で少しも愉快ではない記憶ばかりだった。
「……夢ではありませんよ。お前は」
「そんなことより師匠も願いごと書いてくださいよー」
説教になる前にフランは骸の意思を遮って竹を彩るための助力を促した。
「骸様、たんざく…どうぞ」
「ほう、ありがとうございます。お前達はもう書いたのですか?」
「ミーのは教えませんよー」
「……私もナイショ」
骸の後から入って来た犬と千種がクロームへと目を向けた。
静かだった廃屋が途端に喧噪に満ちてゆく。
「もったいつけんなっ、ブス女! 見っせるびょん」
「…………ダメ」
大事なものを隠す仕草でクロームは犬に奪われないように短冊を避ける。
「まーまー、ニーサン達もどうぞー」
クロームが持っていた短冊を取り上げようとしている犬との間に割って入ると、広告裏の白い紙を切って作った短冊を差し出した。
「いらない」
「それでうめーガム食えるわけらねーらろ」
「まあまあそう言わずにー。おいしいガム食べれますようにって書いたら叶うかもしんないですよー。あ、こないだ骨型の安売りしてましたよ」
「オレが食いてーのはあめーのらからっ! 白くてかたいやつはあんま味なくてうまくねえんらっ!」
「しっかり食ってんじゃないですかー」
「クフ、面白そうではないですか」
フランの手から受け取った紙を今度は骸が犬と千種へと向けた。
渋々と受け取った千種は、さして考える様子もなく願いごとを記してゆく。
「柿ピーめんどいってそれ願いごとじゃないびょん!」
犬は千種の書いてゆく短冊を横から微かに覗き見ながら、自分も願い事を書いた。
「……字数多いとめんどいじゃないか。…………なら、こうする」
描いた文字の横には“ことなくなれ”が簡潔に書き足され、最終的にめんどいことなくなれと願われた。それでも字面は定規で計られたように几帳面に並んでいる。
「それほとんどかわってねーらろっ!」
犬が紙を隠しながらほとんど直感的にペンを走らせたバランスの悪い文字も、千種とほぼ同時に書き終えられていた。
「そういうお前はなんと書いたのですか?」
優柔な口調は未だ怒気を孕んではいない。
「………んあ? オレのは気にしなくれいいれすからっ!」
骸に問いかけられて微かに怯えた犬は、書いたばかりの短冊を慌てて隠す。
「見せなさい」
動向の不審さから何等かの不義理を見取った彼は、途端に厳しく問い詰めている口調へと変化させる。
「いいれすってば」
「見せなさい、犬」
見透かした願いを確認するのに骸は執拗に犬の短冊を取り上げようと腕を差し伸べた。
「たいしたことじゃないれすからっ! うまいガム食いたいって書いただけれすっ!」
咄嗟に手に持っていた短冊を骸には絶対渡さない覚悟で犬は腕ごと高くへと挙げた。
「どれどれ〜?」
加勢したフランは幻術で出したマジックハンドで、犬が高くに伸ばした手から短冊を奪い取る。
「あ、フラン、かえせ!」
「ほほー、骸さんがボンゴレ倒してナッポーキングダムきづけますように(原文ママ)ですかー」
「お前というやつは」
「誤解れす! ナッポーとか書いてないれっすよ!」
「しっかり書いてんじゃないですかー」
「うっさいびょん! お前後でおぼえとくんらろ!」
「嫌ですー」
「犬、お前も後でおしおきです」
「動物虐待反対れすからっ!」
三叉の槍が手元にないのに安堵して犬は一旦は胸を撫で下ろした。
「…………なんか違うよ、それ」
「……うん」
「おまえらも、もっと本気でねがいごと書け! つうかタンザク見せるびょんっ!」
「…………………ごめん、やっぱりダメ」
「やめなさい、犬」
「らってこいつが!」
「お前がしつこいんです。クロームが怯えているじゃないですか」
「今までどおりれす! 骸さんにしつこいとか言われたくないれすっ」
「なにか言いましたか?」
「師匠って都合の悪いことは大体聴こえないフリしますよねー」
「そんなことはありませんよ」
「ぎゃおんっ!」
「あたっ」
言うなりに骸は犬の頭を拳骨で叩いてから、フランの頭を手の平で引っ叩いた。
「ちえっ、千種ニーサンと凪ネーサンばっか怒らんないのずるいですー」
無関係な方向へと責任を転嫁し、自らへ向かう些細な怒りをなすろうとした。
「二人は怒られるようなことは言っていませんよ、おチビさん」
「そんなことないれすよ! こいつらだって陰じゃ骸さんをナッポーって言ってるびょんっ!」
次いで犬が事実と無実を好い加減にない交ぜて告げ口する。
「おや、本当ですか? 千種、凪」
犬の話は真に受けずに骸は千種とクロームへと目を向けた。
「言ってません」
知られていないのを良いことに、面倒事を避けた千種は微かにあった心当たりへは目を瞑って即答した。
「………そんなこと」
全く思い当たる節のないぬれぎぬを言葉で否定しきれなかったクロームは、骸へ目を合わせたまま首を横へと振って否定を示した。
「お前達とは違うんですよ」
再び諭すように言われて犬は判り易く面白くなさそうな顔をし、フランは判りにくく目元だけを険しくした。
「損な役回りだなー、いっつもいっつも」
「柿ピーずりーびょんっ!」
「……言ってないよ」
「クフフ、そろそろ短冊をかざってはどうですか」
「はい」
「そうですねー」
喧しく書きあげた短冊は、寄せ集めた広告の飾りとともに思い思いに竹の一枝一枝に吊るされた。
近くの山からフランが伐採して来ていた既に萎れていた竹が、七夕のめでたそうな飾りで賑やかになる。
俄か雨の未だ降らない重苦しい空へと、支えにするつもりの縄を引いて竹が伸ばされてゆく。
やがて一条の星明かりすら見えない曇る空から涙のような雨音が流れた。
その内に『みんなにおいしいものをたくさん食べさせられますように』と翻ったクロームの願いは、唯でさえ薄暗い宵闇に紛れて見えなくなった。
ついでにフランの短冊に書かれた『堕王子にナイフ刺されたのが本当なら、ふくしゅうしたいのでいっぺん会わせてくださいー』の文字も霞んでいった。
嵐が大きな禍を運んで来るのを予期して、カエルのこどもは窓際で雷を見ながらゲロゲロと怯えた。
(おわる)
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