しゃぼん玉割り


 うすら寒い夏前の夜更けの月は白々と好天へ輝いている。
 アジトを抜け出して夜分遅くに帰って来たベルは何気なく月へと目をやった。
 月の光の中からきらきらと虹が降り注いでいる。
「カエル? んなとこでなにしてんだ?」
 虹の降る方を見ると二階の自室の窓を開いて、フランが顔を出していた。
「日課やってますー」
「日課?」
「一日一回しゃぼん玉飛ばそう月間なんです。今月」
「そんな月間あったっけ?」
 守ることなどありはしなかったが、誰かが辞令を下した意味のない慣習かと思い彼は首を傾げた。
「いえー、ミーが一人でやってる月間ですがー?」
「おめーマジでなにやってんだよ?」
 呆れ果てて言葉も出ないほど脱力した彼は、後輩を下から見下げた。
「センパイも飛ばしますー?」
「飛ばさねえよ」
「ちぇっ、楽しいのにー」
 即座に拒否を示した先輩へと聴こえないような小声で悪態を吐いた。
「あ、そんじゃさ。全部割ってやっから下に飛ばせ」
 悪態が聴こえたのか聴こえなかったのかは定かではないが、上にいるフランに聞こえるほどの大声でベルは下らない命令を下した。
「えー、割らせるためにやってるんじゃないんですがー」
「いいから、早くしろ」
 フランは途中で割れないように静かに息を吐き出してストローを吹いた。
 だが予想以上に大きく作れたしゃぼん玉は、中々下には降りずに中空を彷徨っている。
「もっとちっさくていーから、早く飛ばせ」
 痺れを切らしたベルが下からまた催促をした。
「判りましたー」
 ストローをいくつも吹き出し口のあるものに替えて、フランはもう一度液に浸して一息に吹いた。
 今度出来た小さなしゃぼん玉は溶液の重さで直ぐに地面へと落下して行った。
 大して割り甲斐のない小さなしゃぼん玉にナイフが刺さって次々へと割れて消えてゆく。
 フランはそれを上から面白くもなさそうに見下していた。
「あのーセンエツながらセンパイ、どこ行ってたんですかー?」
 すべてのしゃぼん玉が弾けた頃を見計らって、後輩から今度は疑心に満ちた眼差しと怪訝な質問がぶつけられた。
「ゴクラクジョード?」
 はぐらかして答えようともしない先輩を眺めて、フランはまた表情を歪めた。
「そんなに幸せなとこなら、今度ミーも連れてってください。お金は自分持ちでちゃんと払いますのでー」
「ダーメ」
 半ば本気で訪ねた場所へと付いて行きたがるフランを少しだけ疎ましく思い、軽くいなした。
「センパイってケチですねー」
 また聴こえるか聴こえないか程の小さな呟きで、フランは遠くの山の端っこへと目をやっている。
「なんか言ったか?」
 だが聞き逃されることはなく、下にいたベルからは半疑問の声が上がった。
「なんでもありません、がー」
 如何にも何事かがあるようにフランはベルをじっと見て、ひたすらに猜疑の碧い瞳を向ける。
 しかしベルに移っているかも知れないパフュームや、アルコールや、シガレットの香りを嗅ぐのを躊躇って、降りずにただ眺めただけだった。
 乾燥した温度の中へと湿った深い呼吸がまた吐かれた。
 息苦しさを感じたフランは、またしゃぼん玉を吹いて、喋らないようにと口を閉じた。
「フランー」
 ベルが呼びかけたものの返答は返らずにフランは黙ったまま下を見下ろしている。
「今度もっといーとこに連れてってやっから」
 労りか弁明かをするようにベルはフランの機嫌を取り始めた。
「…………どこ、ですかー?」
「着いてからおしえてやる」
 考えてもいなかったのかまたぞんざいな答えが返った。
「ミーは行く前に知りたい派なんですがー」
 元気のない無表情なまま、フランはベルへと反する応じばかりで口を開く。
「じゃあヒーローショーとか? お前の好きなトコな」
 投げやりな場所を取り繕って、逃げ口上を口にした自分をベルはおかしく思って笑う。
「ほんとですねー?」
 あらかた機嫌を直して納得はしたのかしないのかは、はっきりとしなかったが、フランはそして再度しゃぼん玉を飛ばし始める。
 空から降る透明な球体を狙って、ベルもまたナイフを飛ばし始めた。
 二人は朝が来るまでそうして休み休みしゃぼん玉の行方を追った。
 地平線の白む頃には濃く深く地面と同化していた彼等の影も、朝の太陽に映し出されて赤茶けた地面へとはっきりと表出してゆく。


(おわる)



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