雷鳴はまだ聴こえない
大分前から雨が降っていないのには気が付いていた。
干乾びた道なき道端は、湾曲したり真っ直ぐになったりしながら遠くまで伸びている。
空の底から湧き出した真っ白な雲が音は立てずに拡がっていて、夏の暑い最中なのを思い出した。
「アイスが食べたいなー」
後ろを付いて歩いていたこどもが突然立ち止って独り言を言ったので、王子は首を回して後ろを振り返る。
「なんか言った?」
「アイスが食べたいなと思ったので、そう言ったんですよ。虫歯菌さんには人間のコトバはちょっと難しかったですかー?」
悪びれる様子もなく悪口のようなことを言われて、腹を立てた王子は数本のナイフをこども目がけて投げ付けた。こどもが頭に被っていたリンゴの帽子に、ナイフは吸い込まれてさらさらと消えて行った。
「ナイフ返せよ」
「? もうないです」
自分へと注視している視線を避けて額へかいた汗を腕で拭い、横目で深い空色の空を見た。
「ねえわけねえだろ! お前オレのナイフ何本持ってんだよ。ゼンブ返せっての」
「あー暑い。暑くて何も考えられない」
「?」
「はー。今すぐにアイスが食べれて涼しくなったら、虫歯菌さんのシュミの悪いオリジナルナイフがどこにあるのか、わかるかも知れないなー」
こどもは飄々とやはり悪気もなく、それが悪口だとも知らずに虫歯菌への悪口めいた考えを口にした。
「てんめえ」
王子は惚けるこどもにいつものような気がしてしまって、取り出そうとした匣がまだないのに気が付いた。
出て来るはずのミンクも、目の前のこどもの頭に乗っていたはずのカエルも、そこにはないのに苛立った王子はまた数本のナイフを投げ付ける。
然しリンゴの頭にナイフは刺さらず、またどこかへと消えてしまう。
「山降りたらアイス買ってやっから、ちゃんとナイフ返せよ」
「あーそうやってミーを虫歯にして、ノルマ達成しようとしてるんだー。そういう誘惑には乗りませんのでー」
人差し指で虫歯菌の王子を指して首をぶんぶんと横に振っていた。
「オレがアイスやってもやんなくても、お前が勝手に食ったらムシバになんだろ、バーカ」
度重なる虫歯扱いに腹が立って、しかたなく当たらないナイフの代わりに王子は拳骨を作ってリンゴの頭を殴り付けた。
空気を殴ったような感触の後で確かに硬い頭の骨の手応えを感じた王子は、殴れたのに満足して嘲笑って頷いた。
「あでっ。食べても3分で歯を磨くと大丈夫だって、おばあちゃんが言ってましたからー」
「それメーシンだもん。ほんとは2分53秒でムシバになっから」
王子は一端の立派な虫歯菌のように、虫歯についての間違った説明をしてこどもを脅かす。
「じゃあ2分52秒で磨いたら大丈夫なはずなので、そうします。いいこと教わりました」
熱気の溜まった草叢が更に涸渇するように熱気が煽られて水分が抜けてゆく。
「ちゃんとナイフ返せよ」
太陽に焼けて薄くなった緑の草を、時折吹いた生温い風が揺らしながら、彼等の半そでのシャツの裾も一緒にはためかせた。
おいしいアイスを食べられる方を目指して、こどもと王子はまた歩き始める。
空の中へと伸びた綿雲の中から、雷鳴はまだ聴こえない。
こどもはカキ氷のような真っ白さを眺めるのに空を見上げて再び立ち止まった。
ふわふわのカキ氷が食べたいなともう一度思って、またナイフを投げられない内にゆっくりと歩き始めた。
夏の陽射しが背筋へと痛いほどにぶつかり、背中へと汗が滲んでいく。
まだあの川の冷たい水に浸りたい名残惜しさを感じながら、リンゴの頭をしたこどもは妖精達と虫歯菌達の集団の後へと続く。
こどもが考えごとをしていた間も、一番偉そうな虫歯菌とパイナップルの精は何事かを言い争っていて、こどもはもうその喧しさに少しうんざりした。
(おわる)
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