夏ひかげ


 快晴が続いて乾いた風が吹いていた。
 繁茂した夏草の群れは煩わしく揺らいでいる。
 部屋の片隅にすら扇風機の風が起こす涼しさもない。
 ベルは静かで暑さを凌ぐのに最適な場を見つけては、休暇の一日を無用の長物として過ごしていた。
 早い話が冷房を入れたリビングでだらだらと過ごしていた所だった。
「センパーイ、ミンク貸してくださーい」
 涼しかったリビングの扉が開いた途端、不意の熱気が入り込んだ。
「ああ゛っ? 貸さねっての。なんでだよ」
 微かな暑さすら不快に感じ、苛立ちながら身を起こして呼ばれた方を振り返った。
「ザリガニ採りたいんですよー。ザリガニの観察が夏休みの宿題なので」
「シュクダイとか出てねえし」
「それが出たんですよねー」
「ムシとりアミとバケツもってけ。玄関にあったろ? なんでミンクだよ」
「持ってったんですが穴あいちゃいましてー。ミンクならくわえて来てくれるんじゃないかなーと思って戻って来たんですが」
 フランは背中に隠し持っていた、ぼろぼろになった虫捕り網を見せた。
「なんでそんなボロいの?」
「いやー朝から散々頑張っててやっと一匹見つけたんですけど、ハサミでアミ破って逃げられちゃったんですよねー」
「朝からいねーと思ったら、んなことやってたのかよ。ミンク貸さね、自分の匣使え」
「だってこれ被ってるから開匣できないです。被ってあげてんだからミンク出してくださいよ」
 頭のカエルを手でペシペシと叩きながらごねる。
「幻術で100匹でも200匹でも好きなだけ出せばいんじゃね?」
「虚しいじゃないですかー。ミーが欲しいのは1000匹の偽物より、1匹の本物です」
「んじゃべんとーつくれ。したら貸してやる」
 立ち上がってフランの方へと歩み寄ると、台所を指した。
「え〜。センパイもしかして付いて来るつもりなんですかー?」
 あからさまに嫌そうに近寄って来たベルに拒絶を示す眼差しを向けた。
「たりめーだろ? お前にミンクだけ渡したらなにされっかわかったもんじゃねーし」
「ていうかセンパイは来なくていいです。ミンクしかいらないので。ミンクと川で遊んであげたいです。今日暑いし」
 額の汗をわざとらしく手の甲で拭い、ベルから目を離すと窓の外をぼやっと眺めて遠い目をする。
「…………。お前ミンク川に沈めるつもりだろ?」
 フランの考えていることを見透かしたベルは、口元を引き攣らせて詰め寄った。
「しませんよー。そんなこと。…………頭から水浴びさせてあげるだけですからー」
「いじめんな」
 ごつっとフランのカエルから鈍い音が響いた。
「普段の加害者の言葉とは思えませんねー」
「さっさとべんとーつくれよ」
「作ったらなんかいいことあるんですかー?」
「ザリガニの標本ひゃっこつくってやる」
「標本ですかー? う〜ん…………死骸はいらないんで、生け捕りでお願いします。二、三匹でいいですよ」
 少し間を置いて考えてから有意義な結論を出した。
「センパイにめーれえすんな」
「べんとー作りますんで」
「ちゃきちゃきやれ」
 台所へ向かったフランは丸ごとのスイカを冷蔵庫から出した。
 テンションの低い鼻歌を歌い、ナイロンの網をスイカに被せて、ショルダーのバッグへと詰める。
「用意できましたー」
 そうしてクーラーのかかったリビングのソファで、相変わらずだらけながら待っていたベルへと声をかけた。
「なんか早くね?」
「ちゃんとべんとーありますので」
 スイカの入ったショルダーを大事に抱えると、いそいそと外へ向かった。
「?」
 不審に思いながらベルも後へと続く。廊下の扉を開いた瞬間に押し迫った高い気温で、外に出るのを一瞬だけ後悔した。
 草叢は所々に日陰が出来ていたが、そこも決して涼しくないざわついた夏のさなかの音に満ちていた。

 庭の片隅に停めて置いた自転車の金具も短い間に熱され、触れた手から伝わった熱に驚いてフランは手を離した。
「…………? チャリ?」
「はい、これで行きますー。センパイ前どうぞ」
「なんでオレ? おめーがこぐに決まってんだろ」
「えー。ミー朝から頑張りどおしでもうくたくたなんですよー」
「ザリガニ」
「わかりましたー」
 フランはカゴにショルダーを乗せ、ハンドルにバケツを掛けた。
 サドルに跨ってから右足でスタンドを蹴って支えを外す。
 荷台に後ろ向きに腰を降ろしたベルは、立ち漕ぎをし始めたフランに背中を凭せ掛けた。
 清涼な風を切って道なき野道を進むと、カエルからはみ出していたフランの髪も新しい緑のように靡いている。
 ティアラにきらりきらりと当たる眩しい風を避けて見えない目をベルが瞑った。
 葉脈の隅々まで水分の行き渡った、夏枯れしていない瑞々しい草が蔓延る道を自転車は走り続ける。
 転がっていた硬い石で歪になった坂が、がたがたと車輪を潰す。
 入った森では肌を射る陽光が遮られ、木々の吐き出す酸素で空気が入れ替えられ、本当に少しだけ涼しくなった。
 


 真水のせせらぐ川岸では大木が空へと向かって伸び、穏やかに陰りができた。
 自転車を木の下へと乗り捨てて川の水を掌へ掬うと、乾涸びた喉へと流し込む。
「センパイと大自然ってまったく似合いませんねー」
 両腕を大きく広げてまっさらとした空気を吸い込みながら、いつもよりは薄着なベルへと視線をやった。
 だが鬱陶しく目を隠した前髪も、白銀に光るティアラも、毒々しいボーダーも、周囲の風景から浮き立っている。
「………だってオレ」
「王子だもーん。ですかー?」
「それ言っていいのは王子だけだから!」
「いてっ」
 殴られる前に危険を察知すると、頭を庇って手で覆いついでに悲鳴を上げた。
「まだ殴ってねえし」
 言った後でフランの予感通りに頭を手の甲ではたいた。
 しかしカエルは軽い音をさせるばかりで悲鳴を上げることはない。
 カゴから降ろしておいた鞄から、フランは黒と緑の縞々の球体を取り出した。
「なにしてんだ?」
「べんとー冷やしてます」
 靴も脱ぎ散らかして沢の浅場に下りる。
 流れる川の端に岩で囲いを作るとスイカをゆっくり沈めようとした。
「? それスイカじゃね?」
「今日のお昼ですがー?」
「……………ざっけんな、クソガエル」
 ちょうどスイカが川底へ触れた時にベルの足の裏が頭のカエルに飛んで来た。
「ゲロッ! うわっ、あぶねっ。スイカ割れたらどうしてくれるんですかー。昼ぬきじゃないですかー。後でナイフ貸して下さいね」
「貸さねーし!」
「ケチですねー」
「ザリガニの餌にしてやっからずっとそこに沈んどけ」
「嫌ですー」
 ベルは浅瀬から岸辺の草叢へと足を掛けたフランの腕を引き上げた。
「んで、ザリガニはどこにいんだよ」
「そこら探せばいると思うんですけど、なんせ自然の生き物なので」
「いっかどうかもわかんねえで、王子をこんなとこまで連れて来たの? お前」
「センパイが勝手について来たんじゃないですか。頼んでもないのに」
 不平と不満の籠る眼差しでベルの方を見た。
「るせっ。さっさと見つけろよ」
「ザリガニ欲しいのはミーなんですよねー? なんでセンパイにめーれいされなきゃなんないんすかー」
「いいから探せ!」
「センパイも飼いますー? そしたら対決させましょうよ。ミーのが勝つと思いますが」
「飼わねえけどオレのが勝つに決まってんだろ! んなとこまで来てみつかんなかったらなんかムカつくし」
「見つかんなかったらしかたないからいいですよー」
「絶対持って帰んだっての」
「………ほんとめんどくさい生き物だなー」
「なんか言ったか?」
「訊き返してんだからもう聴こえてんじゃないですかー?」
「決めた。やっぱこのカエルエサにする」
「カエルじゃザリガニは釣れませんからー、無知ですねセンパイ。あ〜でもミミズは食べるらしいんで、センパイと同類ですね〜」
「水死しろよカエル」
「あ〜、やめてくださ〜い。落ちたら危ないじゃないですか〜?」
 ぐいぐいと頭を押して川へ押し込もうとするベルに抵抗して、フランは冠りを振ってカエルをぶんぶんと回す。
「逝けよ」
「うわ〜っ」
 バランスを崩したフランが落ちた川へと転がってから膝を付くと、水底の泥が舞い上がって清く澄んだ水が濁る。
「バカ、あぶねーだろ」
「…………センパイが突き落としてんじゃないすかー?」
 注意を払って嗜めた素振りを見せるベルの態度でフランは口を尖らせた。
「おめーがどんくせえから落ちたんだろ」
 危機を察知し夏の小さな生物達は、一斉に素早くその水から忌避した。
「…………。あ、みっけー」
 不愉快さから背いて手を付いていた先の流れに視線を落とすと、岩陰からちょうどザリガニが這い出た所だった。
 運よく入手したザリガニを手で掴み上げて誇らしげに見せた。
「ラッキーじゃん♪」
「こんな簡単に捕まえられんなら、センパイもミンクもいてもいなくてもよかったです」
「どーみてもオレの功績だろ」
「まったくそんなことないですよねー? あーあ服びしゃびしゃじゃないですか」
 理不尽な扱われ方に不平を鳴らすと、足で水底を蹴って立ち上がった。
 水滴の表面を光が滑り、白い四肢を落ちる。
 濡れた服の裾だけを絞ると、そうして水滴はまた川が流れる中へと戻ってゆく。
「ふー、でも冷たくてわりと心地いいですよー。センパイも落ちますかー?」
「落ちねえし。さっさとあがれ」
 助けるために差し伸ばされた手の平がまた、水に濡れて更に白くなった腕を掴む。
「けっこう悪くないと思うんですが」
 ベルが力を籠める前にフランが腕に体重を掛けた。
「んあ?」
 何の心構えもしていなかったベルが滑り落ちた川から、勢いよく水飛沫が上がる。
「きもちよくないですかー?」
 前につんのめり向かい合わせに落ちて来たベルへとフランは目元を細めた。
「ざっけんな! カエル」
「髪型とか見た目がとても暑苦しそうだったんで、つい」
「ついじゃねっての。クリーニング代払えよ」
「川で洗ったからいいじゃないですか」
「泥で逆に汚れんだろ!」
「センパイの血みどろの服より川の水のがきれいですよー」
「るせっ」
 ばしゃばしゃとベルが水面をフランの方へと指で幾度か弾くと光が舞った。
「つ〜めた〜っ」
 翳めた光が頬を濡らして、碧の細い髪もさらさらと跳ねる。
 蝉の透明な翅を震う鳴き声が俄かに煩わしくなり始めた。
「うっせー。ゼンブ落とす」
 ナイフを構えようと、立ち上がって周囲の風景を見回した。
「セミはいらないので、自分で処分してくださいねー」
 時雨を耳で追いながらフランが再び立ち上がると、川の雫も汗も区別はなく細い体を零れ落ちてゆく。
 張り付いた被服の隙間から覗く肌からベルは目を逸らした。
「センパイ?」
「やっぱやめ。くそあちーし、オレもーかえっから」
「えー、スイカ食べていきましょうよー」
「んなもんいんね」
 見えない目線を落ち着くことなく周囲へと逸らし、フランの方は見ずにいた。
「ちぇっ、せっかく冷やしたのになー」
 水流に任されたスイカは、川底の網でごろごろと転がりたそうに浮いては沈む。
 だが石の支えが邪魔をしてそれ以上は転がらずに止まった。
「チャリ乗ってかえっから、おめーは歩いて来いよ」
「ええー、自転車ミーのなんですがー?」
「おまえのモンは王子のモンだし」
「再度川に落っこって、きれいな堕王子になって帰ってきてくれませんかー?」
「なんでもいいからぜってーのんびり歩いて来いよ」
「今真夏なんですが? こんな炎天下をのんびり歩いてって、どんだけ意地悪なんですか。帰ったらすぐ服洗うんで、乗っけてってくださいよー」
「乾くまでかえってくんなよ! ドブくせえから」
「ミーがドブくさかったら、川に落ちたセンパイだってドブくさいですー」
「王子がくさいわけねえし」
「カエルじゃないんで、ミーもドブくさいわけないです。ほらー」
 濡れた服の胸元を左手で前に引いて、体ごとベルの方へと距離を詰めた。
「カエルのにおいすっからちかよんな」
「そんなのメイヨキソンですー。センパイになんかミーだって近寄りたくありませんー」
 一歩後ずさった拒止に拒否で対応し、フランは手で掴んだままの服ではたはたと風を起こした。
 真水を含んだ布が冷たく肌へとまたまとわり付く。
「つきあってらんね」
「なんなんすかー?」
 呟かれた一言を無視してベルは川から上がると、倒されていた自転車を起こす。
「乾いてなかったら、帰ってきても家にいれねーかんな」
「自転車壊さないでくださいね」
 浅瀬で見送ってフランはベルに注意を促した。
 やはり返事もせず右足で自転車に跨ったベルは、地を蹴り付けて不安定な道を疾走し始める。
 喧々と差している輝きの合間を縫い、森の陰影は彼の明るい髪を時折暗く深く染めては消える。
 止まらない心音が止むのをいつまでも待ったが、アジトに辿り着くまでに終にベルの鼓動は止むことはなかった。

 フランは川から上がってバケツに水を掬ってザリガニを入れると、バケツをスイカの紐に括って川の水に浸けた。
 それから入道雲が空の青い部分を白く染めてゆくのに目を向ける。
 カエルも一緒になって、表情なく積乱雲が何層にも重なるのを眺めた。
 皓々と輝き盛っているばかりの夏の太陽は、定まった道行の先を邪魔した雲に未だ覆われてはいない。
 だが徐々に殊更に厚く空を侵蝕し、やがて切れ間から暗澹たる雷鳴を轟かす。

(おわる)



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