5 本を読む
それでですねー、まあずっと幻術をしたりしてみてたんですが。
「君、名前なんて言ったっけ?」
なんかある日急に名前訊かれたんですよ。
「名前はないんですー」
そうと言ったきりで別になにも思うとこなんかはないようでしたよ。
名前のない人が本当に存在すると思ってるんですかねー?
「……ムギ」
「はあ」
「ないならあれでいいよ」
「そうですねー、それでいいですー。ムギですー」
「ムギ」
「なんですかー? くものひと」
「べつに」
けど結局それっきりムギって呼ばれることもなかったんですけどねー。
いい機会だからと思って、いろんな方法で幻術を膨らます訓練したんですよ。
ビデオを見てイメージを膨らませたり、マンガを読んでみたり。試してはみたものの、最も効率的にイメージを幻視出来たのは本を読んでいる時だったんです。
視覚的なイメージは入って来たと同時に、視覚ではない思考へと移行としちゃうみたいなんです。
ええ、もちろん今はお手本なんかなくても簡単に創れますよ。
でもその頃は目から入ったものは大体、文字や音楽を連動して捉えちゃってたんですよねー。
見たもののイメージは時間が経ってから思い浮かべると、ちょうどいいぐらいに映像化できました。
逆に極力視覚的ではない、文字や、音や、匂いみたいなのの方が、勝手がよく視覚のイメージを浮かばせることができたというか。
だからミーはその人に嫌われ続けるために、その日もそこで本を読みました。
黒いアゲハが芙蓉に群れてたんです。
昔どこかで夏休みに見ててキレーだなーと思ってた光景を思い出してたんですよ。
でもそしたらアゲハがカラスの群れになっちゃったんですねー。おどろきましたー。
だって大きく羽ばたいたカラスは、その内にミーに向かって襲いかかって来たんですもん。
そしたら今度は、見る間に一羽の黒鳥になったカラスの大群が、首を伸ばしてミーの首を締め始めたんです。
息ができないほどに目の前を覆った黒鳥は黒い闇に変わって、辺りに負の気配…胸が重くなるような感じですね、あんなのが満ちたんです。
「Permesso. Buona sera.Come sta?」
失礼しました。こんばんは、ごきげんはいかがですか?
向こうの方から現れた人がなんか話し始めたんです。
「ボンジュール」
日本語じゃなかったので、ミーも日本語じゃない言葉を返したんですよね。
「おや、中々いい発音ですね」
「ほめられた時はありがとー…ですねー。メルシィー、お世辞でもうれしーですよー」
「ええ、どういたしまして。しかし僕が話したのとは違う言葉のようですがね」
「そ〜、でしたっけ〜? え〜っと、どこからー?」
大して気にしてる様子でもなく、聞き憶えのあるような、普段はあまり使われない表現でその人みたいな物体は笑ったんです。
「扉が開きっ放しになっていましたよ、不用心ですね。せっかく会ったのですから自己紹介でもしましょうか」
「どうしても自己紹介するなら名前は名乗らないでください。好きな食べ物とかにしてください」
「どうしました?」
「名前を聞いたら、多分あなたとはお話できなくなりますからー」
「それは歓迎すべき事態ではありませんね。それでは名乗るのはひとまず止めにしましょう。好きな食べ物はチョコレートです」
「そうしてくれるとありがたいですー。日本語じょーずですねー。ミーもチョコレートはフツーに好きかも知れないでーす。昔師匠にパフェに付いてたやつ盗られちゃって、腹立たしかったことがあります」
「僕は日本人ですから。お前の師匠もチョコレートが好きなんでしょう、そのぐらい赦してあげなさい」
実際には彼の顔は黒い闇に紛れて、顔なんか見えなかったんですよー。
東洋の人ではないような気がしたんですが。
本当は最初から見えてなかったっぽいのに、ミーはどうしてかその人の顔を見たような気がしてたんですけど。
「……そうなんですかー?」
「さて、どうでしょうか?」
「回りくどくて鬱陶しいパイナップルですねー。訊いてもいいですかー?」
見えないはずの薄暗い闇には影だけが浮かんでるんです。
どっかあの果物のヘタの部分に似てたんですよねー。
「答えるかどうかは判りませんが」
そのパイナップルは、パイナップルと呼ばれたのがよっぽど気に障ったんでしょうかねー? さっきの友好的な笑顔よりも、いささか気分を害した風な笑顔をしてました。
笑顔であったというのもまた、単に知覚で理解したに過ぎなかったんですけど。
「あなたはどうしてーくものひとに嫌われているんですかー?」
「これはまた随分と無粋な質問ですね」
その時のミーは身動きの一つすら取れずに、ヘビに睨まれたカエルみたいでした。
足が接着剤で地面へと貼り付けられているような感覚でしたよ。
ああー、勝てないのかなーって。
「なに、大したことではありませんよ。彼とはほんの少し仲違いをしたまでです」
「そーですかー、それにしてもそーとー嫌がられてるみたいですがー。もういっこいいですかー? なんで水槽に住んでんですかー?」
「もちろん居心地がいいからですよ。しかしそろそろ退屈して来ている所です」
「はあー、水槽の中にいるのに今まで退屈しなかったんですかねー?」
「ええ、僕には色々と趣味があるものでしてね。それにしても余りに長くそこへ居過ぎたおかげで、折角ボンゴレリングが手に入ったというのに使い損ねてしまいました」
「ボンゴレリングー?」
「おっと、失礼。そろそろ帰る時間です。それでは」
「ま、待ってくださーい」
『ぼくのかわいいクロームをよろしく』
その人の話してた言葉は、耳から聞こえるよりも頭の中へ直に意味になって響いたんです。
「ろっ」
くどうさーんと続けようとして、ミーはそこで口を塞ぎました。
喋ると怒られるので。
「Buona Notte. Un buon sogno」 おやすみなさい。よい夢を。
「Au revoirー…」 さよならー。
振り返って差し出した彼の指から、また黒いアゲハが一羽舞い始めたんです。
キレーなちょうちょが次第に地面へと近付いて、やがて土の上へ停まりましたー。
風が吹いて景色が揺らいで芙蓉の花びらが散って、そこはまた畳の間へと戻っていったんです。
そしたらちょうちょが止まってた所には、どこから入っていたのかクロームさんが寝息を立ててたんですよねー。手品みたいでしたよ。
こういう感じです。やんなくていい? ですかー。
「起きてくださーい」
寝ていたクロームさんをなんどか揺すり起こしたんです。
「…………。…どうかした?」
「守護霊にパイナップルとかいますかー? やっぱなんでもないですー」
ミーはあんまり真剣に彼女の顔を眺めすぎてたみたいなんです。
「? そう。私、ここで寝てた?」
「少しのあいだだと思いますけどー」
どれ程の時間が過ぎたのかはミーにもよく判んなかったんですけど。
窓一つない部屋でしたし、その時が本当は朝なのか昼なのか、もう夜になっているのかも判らなかったんですね。
窓も時計もない理由を誰かに訊いたことがあったような気がするんです。
幻術には窓も時計も必要ないのだとその誰かは答えました…多分。
窓も時計もなかったのは、そこでのことよりもっと前だったのかも、もしかしたら後だったのかも知れないとふと思ったんですよねー。
「そう」
まだ眠いのか、彼女は瞼をこすってましたよ。腕も伸ばして両肩の筋肉をほぐしたんです。
「今日は本気でやりましょう?」
それまでも決して遊んでたわけじゃないんですよー?
でも割と加減はして貰ってたようなので、そうじゃなくして貰おうと思ったんです。
「うん、いいよ」
起き上がったクロームさんは、いつになく厳しい眼差しでミーに幻術をかけたんです。
爪先や指先から自分が消えてゆくのを振り払って、ミーも彼女に群がる透明なクラゲを幻視してたんですねー。
けど自分で創った水の中が息苦しくて溺れちゃいましたよ。
泳げないってわけじゃないです。たまたまです。
それで溺れて沈んでゆくミーを、クロームさんは彼女が創った陸へと引き上げてくれたんですねー。
ありがたかったですよー。
「ありがとーございまーす」
「…苦しくない?」
「もう平気でーす」
おかしなことに、水が引いても海水の香りはなくなることがなかったんです。
その場所がどこであるのかも知らず、海にもさして興味はなかったと思うんですよね。でもなんでか、そこから海まで行くには遠いんじゃないかなー? とふと思ったんです。
あ、センパーイ、そろそろおやつの時間です。
どうしちゃったんですかー? 変なカオして。
なんで知らないフリしたのか? ですか?
…………フリというか、その時は本当に知らなかった、かもしくは思い出せなかった、んですよー。
それがあの人の名前だったなんて。
(つづく)
|