0 パイナップルパフェ
硝子に反射した光が、きしきしと鈍い音を立てていたようだった。
光には音など伴っていなかったが、目を瞑って煉瓦の花壇に背を凭せ掛けていた彼にはその音がはっきりと感じられた。
円形に張られた高く遠い天井の外には、眩しく深く澄んでいるだけの面白味ない青空が拡がっている。
「…………という喫茶店があるでしょう?」
「どこに?」
音を立てていたのが光ではないと彼が悟ったのはその時だった。
射していた光が淀みのある影に消えた。
靴音も煩わしい話し声も止んでしまうと、植物の呼吸でさえが聞き取れるような静かな沈黙が下りる。
「ここのすぐ近くですよ」
「………さあ、知らないね」
寝転がっていた地面から上半身を起こした。
「一緒に行きましょう」
「僕が? 君と? そんなのは」
断りを入れる前に、漸く彼は瞳を開くと目前で立ったまま自分を見下している少年を睨み付けた。
「冗談じゃないよ」
「弱りましたね」
「言っただろう? 口きかないって」
反動を付けて起き上った瞬間に降り降ろされた武器は当たることもなく、避けられもしなかった。
もう何の効果も作用も成さないはずの桜の香りに彼の世界がひずむ。
条件反射のようにその瞬間に封じられた動きで、彼は地面へと縺れて倒れ込んだ。
「さあ、早く。君に話があります」
世界総てを憐憫するまなざしで幻のような少年は手を差し伸べている。
見下した不可思議な瞳の色に一時だけ目を瞠り、もう一方の少年は差し伸べられた制服の腕を愛用の武器で薙ぎ掃う。
途端に植物園の天井も地面も消えて、風景は見慣れた学校の応接室に巻き戻された。
起き上って白昼の通りを通る二つの影は離れたまま、偶然に進む方向を同一にしただけで後には続かない。
喫茶店の中は薄暗く、先にいた客の話し声は微かにすら聴こえては来ない。
先客がいたのかどうかすら定かでない店内には、それでもどうということのない人の気配は確かにあった。
「なに」
「頼みがあります」
「頼み?」
最初から皺の寄っていた眉間に更に皺が寄った。
「聞いてくれるのなら、ひとつ君に借りをつくらせてあげましょう」
「ハンデのつもりなら」
「いいえ」
「必要ない」
「クフフ。僕があの場所から出ることができたら、君と再戦してあげますよ」
「へえ」
閉じ込められているという事実の認識すらも彼には必要がなかった。
実在の不在を知った所で、彼が目的を果たそうとしないわけではないからだ。
目の前に存在しているということは、今そこにあるという事実でしかなかった。
「それにはあのこどもの力が必要です」
「どのこどもだい?」
「あの碧の髪の」
喫茶店の外の道端では、いつの間にか拾った石で地面に絵を描いている小さなこどもがいた。
こどもの描いた歪なカエルは地面から起き上って、ぴょこらぴょこらと飛び跳ねている。
何事かをカエルに話している様子だったが、カエルはゲロゲロと鳴くばかりで意思の疎通は図れなかった。
「時機が来たら、居場所を教えます。君はあれを多少いたぶってくれればそれでいい」
「群れてもいない。咬み殺すほどの存在じゃないね」
カエルを消してまたぽつんと一人になって、地面を睨み付けているこどもを一瞥して前へと目を向けた。
「殺すだなどと、ぶっそうですね。殺されては困ります。それでは僕は出ることが出来ません」
「今すぐやってあげるよ」
関心をそそられたわけでもなく、素性すら知らないこどもへと向かった言葉ではなかった。
「まだ時機尚早です。あれは十分な力を手にしてはいない」
わざと外された意図に苛立ちを煽られ、握りの部分に力を込めてまた武器を振り翳す。
一瞬姿のぶれた幻影はすぐに元通りに戻って、本物の人間の形となってそこにあった。
「草食動物には興味はない」
「…………これは君にとっても悪い話ではないはずだ」
「どういう意味だい」
「憎いでしょう、幻術が」
「君の代わりにあのこどもをいたぶって満足しろとでも言うのかい?」
「見くびってもらっては困る。まさか今の君が僕と互角に戦えるだなどと、思っているのではないでしょうね」
「君なんかには劣らないさ」
「今の君では僕には勝てない」
睨み合う視線の痛さを避け合うことはせずに、二人は互いに目の前を睨んだままだった。
言葉が切られて喫茶店の中が一際静まった所で、勝手に注文されていたパフェが運ばれて来た。
「どうぞ」
硝子の器は小さく響き渡る音を立てて、向かい合って座っていた彼等へ一つずつ置かれた。
「必要ない」
「あれは見ての通り今は未だ幼く大した力もない。だが将来必ず僕の役に立つように仕込みます」
「へえ」
「君だって知りたいでしょう?」
「何を」
「僕の創った幻のからくりを。いえ、僕に負けることのない方法を」
「負けてあげるつもりなんかないよ」
心外さに無愛想な眉を一際顰め、眉間へと皺を寄せた。
「君は強い、だがそれ故に奢り僕に劣っている。だから今のままでは負けます。僕としても君には強くなって貰う方が、再戦のし甲斐がありますからね」
おかしな気配を察してどちらからともなく彼等はまた顔を窓へと向けた。
「………なんだい?」
不意に窓の方を見ると、そこには窓に押し付けられて潰れた白い頬があった。
「どうしました?」
「ミーもそれ食べたいです。師匠ばっかずるいと思います」
指を差しながらの問いかけの答えは遮った窓枠で微かにしか聴こえては来ない。
遊んでいたこどもは、前に出されていた注文の品を碧のビー玉のような瞳で眺めて羨ましそうにしていた。
「こっちへ入りなさい」
「はーい」
元気がよいとは言えなかったが、一応は返事をして道路を走り去った影が消える。
入口の扉が開くと取り付けられた鈴がカラカラと鳴った。
二人の少年が話し込んでいた席を見付けて、こどもはゆっくりと歩いて近寄ると、前髪を分けた少年の隣へと座る。
「名前」
「ミーですか?」
隣に座っている少年の顔を窺って、こどもは用心深く慎重に戸惑い続けていた。
「きちんとご挨拶なさい」
「こんにちはー」
迷った挙げ句に名前は教えずに挨拶だけをした。
「覚えておくよ」
それだけ言って彼は座っていた席から立ちあがる。
「どうなさいました?」
「話はもう終わったんだろう?」
「食べないんですかー?」
自分と入れ違いですぐに出て行こうとする少年の後ろ姿と、テーブルに残された食べ物を交互に見てこどもは首を傾げた。
「食べていいよ」
一瞬だけ振り返った時にこどもと目があったが、さほど気に留めた様子もなかった。
また喫茶店の扉は閉じられて鳴っていた音も消えた。
乾いた通りを足早に歩き去る靴音が響いてゆく。
窓際のどの席にも光は一条すら差し込まず、電球も灯されず、何時まで経っても薄暗いままだ。
異様なまでに世界中の空は明る過ぎて暗く、本物の空ではあったが偽物めいている。
「やれやれ、せっかちな人ですね」
こどもに話しかけたのではなく、独り言を呟いただけだ。
隣のこどももまた呟きに興味はなく、口が付けられていないパフェを引き寄せて物色している。
「パイナップルはー、師匠にあげます」
器の淵に添えられていた果物を邪魔に思い、隣の少年の前に置かれた硝子の容器へと、切り込みが入れられた生のパイナップルを勝手に増やした。
「好き嫌いは好ましくありませんね」
さりげなく乗せられたパイナップルをフォークで刺して、碧の髪をしたこどもが引き寄せた容器へと返す。
「いえー、ミーはべつにこれ嫌いじゃないです。でもししょーは好きですよねー? だからあげます」
「お前はいい子ですね。しかし僕が好きなのは、花言葉だけですよ」
「てっきり好きなのかと思ってましたよ」
「自分で食べなさい」
「それに師匠を食べるなんて失礼なこと、ミーにはできませんのでー」
もう一度こどもは果物だけをフォークで取り除いて何とか隣の器へと盛った。
「僕はその果物と同類ではありませんから心配は無用ですよ、おチビさん」
本音を見透かしてこどもの置いたパイナップルを元の通りに器用に戻した。
「ちぇっ」
自分の器に戻されたパイナップルを、碧の髪のこどもは面白くなさそうに眺めている。
「お前は」
「なんですー?」
「これから先、どんな試練が訪れたとしても、必ず乗り越えるのですよ」
「? …………んー、そうですねー。ミーにできうるかぎりでがんばろうと思います」
「頑張りなさい。それと……」
「なんでしょうー?」
「これは僕が貰います」
筒型に丸まってクリームに刺さっていたチョコレートを、許可が下りる前に取った。
「! なんてことするんです〜? あんたそれでも師匠なんですか〜?」
「目上の者に対する言葉遣いから教えなくてはなりませんね」
「知ってますから大丈夫ですよ〜。も〜」
とりあえず乗り越えるべき一つ目の難関を前にし、フォークでパイナップルを細かくしようと考えたらしかった。
だがつい先程までいた少年の動向の不可解さを思い出しながら、やはり苦手なものは最後に避けることにした。
気にしたのはひと時だけで、明日になればもう忘れていたはずだ。
些末な記憶は少しの時間が過ぎたら簡単に忘却されてしまう。
とりあえずスプーンで掬ったアイスクリームと生クリームの白い境界を舐めた。
口の中へと拡がった甘い味と冷たさに背筋をぴんと張って、少しだけ行儀を良くする。
それから硝子の透明な食器に当てたスプーンで、かちゃりかちゃりと行儀の悪い音を立てさせた。
(つづく)
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