七日目の墓碑6 空の海
霧笛が霧を翳めた奥の遠くの方から、ぼやけた音色で響いてくる。
あまりに微かな音で始めは耳鳴りかと思い、耳を下に向けて頭を降った。
溺れた気がしていたが、服はどこも濡れてはいなかった。
波の立たないはずの湖畔に立ち竦んでいると、やがて満ちて来た潮で足の裏から砂がぬけてゆくのが解った。
ざらざらと沖へ帰る波に惹かれて砂もまた沖へと戻ってゆく。
それでも目前にあるのは海ではなく、湖のような気がして指を水に触れようとした。
逃げた水は足の裏すら濡らしてはいない。
青くもない赤でもない橙でもない太陽は、歪に歪んで明るい日射しを放ちいる。
しかしそれは地面へ届かず、全てがまやかしの霧の中で遮られた。
吹く風の温さを眉間だけで疎ましがって瞑った瞳から、涙が一粒二粒と零れて来た。
「なあ」
かけられた声に後ろを振り返ると、そこにはまた玉座があった。
尊大に腰を下ろした王子は椅子から立ち上がらずに、肘を肘掛へとかけたまま、脚を組んでいた。
「なんですかー。いい加減付きまとい行為はやめてくださーい」
霧はどこまでも藍色の湖畔の水際を覆い尽くして漂っていた。
「付きまとってねえし。お前がベル殺したらすぐに出てってやる。早い話がお前さ」
「はいー」
「ベルのこと殺るつもりなんかねんだろ?」
「いやー? もちろんありますよー?」
「ならなんで殺さねーの?」
「でもミーは開匣できないですしー。センパイいちおう天才って括りの人だしで、なかなか難しいですよねー」
「しっしっ、その帽子とんねーとポーズできねんだっけ? オレが外してやる」
「ダメですねー。コイツとったらセンパイに殺されちゃうじゃないですかー? それに」
「に?」
「自分のために殺すので、あんたの助けなんか要りません」
沖へと攫われてゆく湖の波に呑まれて、また溺れかけた所で目を開けた。
真水は目に入らずに代わりに入ったのは明け方早くの眩い太陽だ。
空は深くどこまでも広く、太陽の色に拡がって行っていて、端などは存在しない。
カエルに頭を押し付けたまま、フランは耳を振って水を抜こうとした。
だが意思を持って動かそうとしても、石のように固まって指先すら動かず、耳からは一滴の水も流れはせずに波に呑まれた夢の続きを悟らせた。
「おい、カエル。今日は起きてんだろな?」
耳へと入って来る言葉には何も反応できなかったが、呼吸だけは続いている。
「カエル?」
不審に思って中からの返事を待たずに、ベルは無遠慮に部屋の扉を開く。
「……なあ」
寝台に横たわったまま、フランは窓硝子に反射した光を逃さずに見続けているように見えた。
「今日の朝飯」
ガラス玉が入っているだけのような光彩のない瞳は瞬きすらしない。
肩を揺すっても死んだように返事はなかった。
ベルはフランの唇の辺りへと耳を近寄せ、息が吐き出されているのを確認した。
だがその後も幾ら声を掛けても、とうとうフランが起き上がることはなかった。
しかたなしにベルは乱れていたタオルケットを掛け直して、その部屋を出た。
自室へと戻りがてらに思い返していたのは、遥かな以前に友人がしていた話だ。
『こういうモノは幻術の媒体になることがあるんだ』
そうして拾い上げられたのがなんであったか、彼はもう忘れてしまっていた。
一仕事を終えて帰る時分か、休暇中の出来事かも定かではなかった。
夕暮れて煌びやかな西日が差していたのか、はたまた薄暗い昼日中だったのか、遣り取りの全てを記憶してはいなかった。
それ以上の思い出を伴う記憶には無意識に蓋をした。
フードは顔までを黒く陰にしていて、小さな赤子の表情は窺い知れない。
『どいうの?』
『持ち主の強い執念や、思念や、無念は、こんな些細なモノに宿る』
ただそれがその時には既に死んでいた人間が、生前の間に長く身に着けていた物だったのだけは思い出した。
『それで幻術かけれんの?』
『ああ。術士は本来自分を媒体として、相手に術をかけるんだ。でもね』
『へえ』
幻術を使わない彼にとって大して興味のある話ではなかったから、原理も深く考えはせずに一応頷いた。
『媒体になる自分の代わりに、こういった未練の残る物質を、術をかけたい相手の領域に忍ばせて幻術をかけることもできる』
『りょーいき?』
『相手の生活する範囲内にね、置いておくだけでいいよ』
『んでどうなんの?』
『術をかけられたヤツは呪われるんだ』
『呪いとか』
『ベル、この世には呪いが存在するんだよ。僕がその証拠さ』
『そだっけ。で、呪われっとどうなんの?』
『そのままなら数日で体は死ぬね』
『死ぬの、おもしれー』
『ああ。でもそんな忌まわしいことは本当に稀なんだ』
『呪われねえの? なんだつまんね』
『この方法には強力な術士の力が必要だからね。能力がなければ、こんなモノはなんの意味もなさないよ。ま、その分報酬もいいし、取りっぱぐれのない前払いさ』
『取り逃しなんてねんじゃね、マーモン。んじゃ、面白そーだからもしオレが死んだら殺したヤツにやってもらおっかな、それ』
『死んだ後でまで殺したいだなんて未練がましい話だね、まったく。一円の得にもならないのに。カネ払ってくれるんならやってやるよ。でもまあ覚えておいて損はないと思うよ』
『ふーん、んなのどうでもいいけどあんがと』
『礼なんか要らないさ、ベル。けどね、有益な情報には対価がいるんだよ。Sランクの報酬一回分、僕の口座にちゃんと振り込んでよ。因みに実行料はSランク十回分だからね』
押し付けた情報に対する報酬を要求して、向けた手の平をベルの方へと差し出している。
『ししっ、役に立ってからはらってやるよ』
ベルが右の手の平でその手へ触れると、渋々とマーモンは手を引いた。
無駄話の中の抜けている記憶に、まだベルは気付いてはいない。
今もそれだけでは役に立つ情報とは言えなかった。
その間にも天の色合いは刻一刻と様相を変え、やがては雲の波が覆い尽くした。
高くにある海と似た空は、その内に息苦しく狭められて見えなくなってしまう。
(つづく)
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