ハッピーバースデー僕
白い闇に覆われた空間に、学校で使われている何の変哲もない合板の机と椅子が一組あった。
次いで出現した黒板の前には何色かのチョークが置かれている。
長さは疎らで新しいものもあれば、使われている内に擦り減ってしまって短くなったものもあった。
短い内の一本ずつを手に取ってカエルの頭を被ったこどもは、黒板にカラフルな文字を書いてゆく。
教室ではあったが生徒であるこどもは一人しかおらず、被り物をしていても頭が邪魔で前が見えないと批難されることもなかった。
何時の間にか出現していた教壇には、まやかし物の美しい薔薇やカスミ草や緑の葉の花束が活けられている。
薔薇の花びらを一枚食べてみたが、取り立てて美味くもないのにがっかりして、今度は黒板に絵を描き始めた。
黄色いチョークで描いたパイナップルの上に緑のヘタを描いた。
そうしてから本人が見たら苦情が来るような、あまりに似ていない数人の人物の似顔絵も描いた。
突如チャイムが鳴り教室の扉が開くと、辺りの霧が晴れて普通の教室の風景が拡がった。
窓の外には青空が見えて、校庭からはホイッスルの音に続いて多くの生徒達がいるようなかけ声が響き始める。
「なんですか、これは?」
教室へと入ろうとした教師は、開いたドアと壁の隙間から落ちた黒板消しを避け、膝を付いてしゃがみ込んで足元から拾う。
「黒板消しですよ、見てわかりませんかー?」
「それはわかっています。が、誰がなんのためにこんなものをこんな場所へ、はめて置いたのかと訊いているんです」
「さー、誰がやったんですかねー? ミーは知りません」
「ここにはお前しか生徒はいないようですが」
「その通り、ここにはミーしかいませんよー、師匠」
黒板で絵を描いていた生徒は、既に自分の席へと着席している。
「では必然的におチビさんがやったということになりますね。後で職員室に来なさい」
「嫌です〜」
「…………では補習の方にするとしますか。授業を始めます」
「え〜、勘弁してくださいよ〜」
「……おや、今日はまた随分と賑やかな黒板ですね」
黒板を振り返って文字を書こうとした時に、数々の力作へと気が付いた。
「たまにはいいじゃないですかー」
「犬に千種、これはクロームで、それからMM。これは僕とカエルですかね」
年若い教師は似顔絵を一つ一つ指し棒で示して、思い当たった名前を呼んでゆく。
「ちがいますー、それはパイナッポーとミーです」
「……ではお前はともかく、僕はどれです?」
「こっちのが師匠ですよー」
こどもは黒板へと進み出ると自信のある様子で黄色と緑のパイナップルを指す。
「それはパイナップルでしょう?」
「いいえー、師匠です。描いたミーが言うので間違いありません」
「もう一度訊きますが、これはなんですか?」
指し棒でパイナップルの絵を指して、教師は生徒を呆れながら見据えている。
「だからししょ……あ、間違えましたー。パイナッポーでしたー。ついうっかり」
「明日までに漢字の書き取り三十ページして来なさい」
「ちえっ。そんなことよりー」
「そんなことじゃありませんよ、大事なことです」
「ミーのはもっと大事なことです」
「おや、なんですか?」
「師匠、ハッピーバースデー」
こどもが魔法の呪文を唱えたと同時に、教卓にはどこからかイチゴの乗ったホールのチョコレートケーキが現れた。
「ひとまずありがとう、ございます。と言っておきましょうか。お前が僕の誕生日を祝ってくれるとは、思いもしませんでしたが」
窓際に置かれていた教師用の椅子へと腰を掛けて、フランがケーキを教師用の机の方へと運んで来るのを眺めていた。
「師匠は存在自体が人類への嫌がらせみたいなもんですからねー、ミーも迷ったんですけど。ケーキ切り分けましょうねー」
「ケーキは没収です」
「嫌です〜。そんな意地悪するんなら、ミーはもう師匠の弟子をやめますので〜」
架空のケーキを、取り出したやはり架空の特徴的なナイフで半分にしてゆく。
「ちょっと待ちなさい。その誕生日のチョコレートのプレートは僕のでしょう?」
「だってー師匠はミーで、ミーは師匠なんですよー。ならどっちが食べてもイッショなはずです」
ホワイトチョコで出来た誕生日おめでとうと書かれたプレートを、自分のケーキへ乗せようとしたフランを骸は嗜めた。
「お前は確かに僕そのものですが、僕はお前ではありません。それは譲れませんよ。返しなさい」
「しかたないなー」
骸の名前が書かれていたチョコレートをしかたなくフランは骸のケーキへと乗せた。
そうして名前を書けるチョコレートの板をもう一つ取り出して、イチゴのチョコペンでスラスラと自分の名前をかいた。
「ちょっと貸しなさい」
「嫌です〜。これミーのですから」
差し出された手の平を拒否して、ペンを手で握り締める。
「いいから、貸しなさい」
「わかりましたー、どうぞー」
渋々と貸し出された甘いペンを使い、師匠は弟子のケーキの上に文字を書いてゆく。然し静けさの中にペンを走らせる音は響かなかった。
“おチビなカエルさん、お前の気遣いに感謝します。”
「いいえ、ミーはカエルじゃありませんー。でも、どういたしましてー」
「そろそろ席に着きなさい」
「ハーイ」
自分のケーキを乗せた皿を大事にそろそろとゆっくり運んで、目に優しい薄い自然な色をした生徒用の木の机に置いた。
「では、いただきましょうか」
「そうですねー」
「いただきます」
「いただきまーす」
教師と生徒は同じ仕草でフォークを持ちケーキのチョコレートの生クリームを掬う。
傍らに置いてあった冷たい牛乳瓶の蓋も開けて口を付けた。
外ではありふれていた日常の、体育の授業をしている生徒達の威勢の良いかけ声が響いていた。
(おわる)
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