赤い幻、藍の風
彼の網膜を焼き付けるほどにまばゆく、雲一つ見えない青空は光を放っている。
鮮やかな赤色のはなびらは空中へ幾片も舞っては土へと還る。
さらさらと消えてゆく砂と同じく、はなびらも消えてもう跡形すらも残ってはいなかった。
けれどもそれは幻の話ではなく、永久の時間の中で、長い時をかけて朽ちていっただけだ。
はなびらのような、綺麗なものばかりを創っていて欲しかったと彼は思っていた。
苦行に耐えるようにいつも、愉快ではない幻ばかりを浮かび上がらせては、消滅させるのを繰り返していた人を思い出した。
空高くにはアドバルーンの赤い色が漂っている。
その地上から見えない天頂には小さな小さな赤ん坊が乗っていた。
影は風船の上で逆立ちをしたり、座禅を組んだり、真似事ではない拳法の姿勢を取ったりしていた。
誰かに見つかってしまったら大事になってしまう非常識極まりない非日常の出来事だったが、彼にとっては些末な日課だった。
少しの間休憩をして、赤い風船が、微かに右に左に気流に寄って流れるのに身を任せていた。
頭の上では、彼のペットの白い猿も一緒にバランスを取り、器用に振り落とされずにいる。
「私を棄てて手に入れた幸福ですら、あなたを満たすことはできなかったのですね」
緩慢な藍色の微風が宙を通り過ぎようとしている。
遥かの彼方に見つけた懐かしい姿は、彼がいるのを知らず徐々に近付いて来ていた。
まだ遠い道の先にはゆるりゆるりと浮遊する、コートを全身に纏って顔すら見せていない赤ん坊の姿があった。
周囲に誰もいないのを感覚で悟って、数件の入金があった通帳を隠し持っていた袋から出して確認している。金銭を収集するのに夢中になっている様子は、上空の離れた場所からでも見て取れた。
縋るより他にない懸命さに醜悪さではなく深く辛い悲愴を感じて、その姿を見た途端に小さな両手では抱え切れない深い悔恨が、彼に静かにひしひしと押し寄せていた。
『…………が、死んだ……』
報告をした押し殺された声をもう憶えてはいない。
仲間の誰かだったのか、あるいは自分の声だった気すらしていた。
報せを受けた日から、忘却を望んで消してしまった記憶が甦る。
彼女が手に入れるのを願った蘇生を阻んだ無力さを、彼は呪い返すこともせずにいとも易く受け入れてしまっていた。
『私はあの人には、優しいものに触れていて欲しかったのです』
どうしてなのかと尋ねられた気がしていた。
『私達が住む世界は、素晴らしさばかりに満ちてはいません』
応じて、よくよく考えてみたが、それ以外に理由は見当たらなかった。
『それでも、いつも幸福でいて欲しいと思っていました』
喪失に後悔はないのかと言の葉はまた囁きかけた。
『綺麗なものだけを見て、楽しいことだけを考えて、哀しみなどに目を向けずにいて欲しかった。どのような姿になろうとも、あの人はあの人でしたから、ありのままで生きていてくれればよかったのです……。呪われたことなど、忘れてしまって』
喪ってしまったのを悲痛に感じ得なかったのではない。
『ですから、ここからいなくなること、それが彼女の幸せなら、それでも良かった』
だが哀しみとは分けて考え、彼女が幸福であるなら、それが彼にとっても喜ばしいことだと思えた。
『ええ、そうです…………だから』
次に続く言葉に詰まって、一拍、整えた呼吸を吐くかどうか躊躇っていた。
『私は幸福でいるのを諦めました』
喜ばしいからといって、幸福であるとは限らないのを彼は悟る。
平穏無事に微笑んだ赤ん坊は、表情の優しさも心音の温もりも平常通りで、変化などはなかった。
話していた相手の戸惑いすら気にも留めず、彼は穏やかに居続けていた。
青空に赤いバルーンは高く高くへ昇ってゆく気流に沿いながら、店舗にしっかりと結わえ付けられていて決して離れることはなかった。
黄道を巡る太陽に照らされて、輝きを増して揺れている。
影の真下にちょうど通りがかった所で、小さな人影はわずらわしい空を見上げる。
輝いている空の中の、更に輝いている赤い風船の色を不愉快に思いながら、瞼の裏で思い出しかけた服の色を急いで打ち消した。
穏やかでいられない不快さを忌避して地面に降りると、本物の赤ん坊のつもりになって少しだけ歩いた。
もう一度見上げた風船は逆光で見え難くなっていて、フードの隙間から差し込むまばゆさで、瞳の奥に鋭利な痛みが走った。
その中に束の間だけ視えた気がした赤い幻影の懐かしい煩わしさに、総毛立てて身震いをする。
(おわる)
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