褪せた森
森だった場所で巨木はバイオレットの夢を見続ける。
太陽が落ちてすぐの菫青の空の下に、天をそっくりそのまま映している池があった。
水面の中の空に伸びていたのはただ一本きりの細長い木だった。
着ていたコートの裾が海老茶に棚引いても彼女は後ろを振り返ることなく、夢を目指した。
足元はふわふわと覚束ず、それでも一つの場所を探して歩き続ける。
そこは絶望的な程に広く視界のよい、孤独の深まっていた場所だった。
自らが創り出した世界と存在する世界の狭間を漂っている少女は、誰にも出会うはずはなかった。
混じり合っていた幾つもの音は、既にはっきりと分かたれてしまっていた。
その樹の電位があることでしか、不自然な景色は完結しなかった。
他には何もそこではもう夢を見てはいない。
知覚はなかったから、樹に何が起きたのかすらを知る術もなく、おぼろげに何もなくなってしまったのを感じていただけだ。
ある日のことだ。何者かはやはり知れないが、新しい電位が存在しているのを感覚で知った。
だから木々の歌う声が懐かしくなってしまっていた。
歌われていた歌の夢を見ている内に、いつしか樹木の夢は世界を侵食していた。
紫に輝く緑の葉は、空気の流れに抗わずに戦いだ。
夕と宵の境目の空は彼方から滲んで暮れてゆく。
可視の外側にある不可視の光すら、視える領域が変化すれば、可視になってしまう。
世界に存在しないわけではなく、だから領域が違っていただけだ。
偶に訪れる少女は、どういうわけか樹木の電位を解し、樹に解る声で小さな歌を歌った。
彼女もまた、木の言葉を理解していたわけではなく、知っていただけだった。
ラジオのチューナーを合わせるように、感受できる範囲が広がれば、自ずと樹の歌を歌うことは出来た。
それを真実に視たいか、視る必要があるのかは別としてもだ。
意思は疎通ができなかったから、ある者から見れば恐れに繋がった光景を、その樹が恐怖として捉えたとは限らない。
だが、触れた樹から伝わって来た彼女にとっては悲愴で辛辣な出来事を、忘れることができなかった。
『あなたが見ている世界は、とても希望に満ちているのですね』
『希望だって? そんなのなにもないさ』
話しかけられて無意識に自分にしか視ることのできない世界を、具現させていたかも知れないのに気が付いた。
『あの樹がとても生命力に満ちていると思うのですが』
少女の心にいつしか入りこんでいた青年は、光を求める大木が紫色の空へと向かってゆくのを仰いでいた。
彼が理解したのは、そこに聳えていた古木が、彼女に寄って生かされていたことだけだった。
樹は日増しに活力を取り戻し、この前の夏にも緑の葉を茂らせていた。
『本当に、そう見えるのかい?』
だが、平和な光景の奥に潜んでしまった非道さを知っている少女には、彼の言う希望など視えてはいなかった。
『というと?』
『初めて来たときからここは好きだったけど、希望があるだなんて思ったことなかった』
近くにある場所を遠くを向けた顔で眺めている。
『あなたにとってここは、絶望の方が多い場所だということですか?』
『僕にはじゃないけど、思っちゃいけないんだ。希望だなんて』
『どうしてですか?』
『あの樹にとっては、とても厳しい場所だからさ』
呟いたと同時に樹から流れて来た記憶を、彼の脳にも直に伝えた。
『けれども今は、樹は懸命に生きたいと願っています。あなたがいるから』
存在していない静かな世界で、二人が吸い込んだ紫の空気はやはり静かに肺を満たしてゆく。
僅かばかりの微弱な樹木の電位は、頭を撫でるように優しく彼女が手のひらを触れる度に、少しだけ強くなっていた。
(おわる)
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