「アキラー」
名前を呼ばれて顔を上げた先には、もう仕事を終えたらしいケイスケの姿が見えた。
「仕事、アキラは終わりそう?」
聞かれて周りを見回す。もうそこまで残ってはいないのだが、どうせなら切りがいい所までやってしまった方が次が楽だろう。
「後はこれだけだし終わらせていく。だから先に帰っていていいぞ」
「本当に大丈夫?」
「ああ」
「そっか。うん、じゃあ俺、今日は先に戻ってるから」
珍しくケイスケはそこで自分も残るとは言わず、帰り気をつけてね。とだけ言って工場を後にしていった。アキラも早く終わらせてしまおうと、ケイスケを見送ってからまた手元の作業に集中すべく視線を戻す。
アキラとケイスケがこの工場で働き出してはじめての冬。
まだ戦争の爪痕は消えてはいない。それでも人々はこの時期特有のあの行事に少しだけ浮かれているように思えた。
街にはそれを盛り上げようと音楽が流れ、戦争前程ではないがイルミネーションもいくつか点灯している。
いつもよりほんの少しだけ街全体が浮かれている中、工場で働いている人達ももちろん例外ではなく、工場長をはじめとする皆は仕事が終わるとそれぞれ飲みに街へと繰り出して行った。
クリスマスっていうのは、そんなに嬉しいものなのか……。
夕方酔ってもいないのに肩を組んで出かけていった工場長達の姿を見て、アキラは改めてそんな風に思う。それをケイスケに言うと、きっとこれからって希望があるからこそ楽しむ事ができるんじゃないかな。と、言って笑っていた。
希望――か。
そんな事を考えているうちにアキラの仕事もようやく一区切りつき、機械の電源を落とす。そして急に静まり返った工場の中を、ゆっくりと伸びをしてから歩きはじめた。
「戸締まりは……、よしっと、平気だな」
電源の落とし忘れはないか、そして戸締まりはちゃんとできているかを確認してから部屋に帰るべく外へと出る。
「う、寒い……」
Tシャツにツナギ。さすがにこの時期にこの格好で寒くないわけがない。しかし、油まみれになったツナギの上にジャケットを羽織るのは、やはり躊躇われる。だから少しでも寒さを紛らわそうと、アキラは足を早めた。歩きながらふと空を見上げると、今にも雪が降り出してきそうな厚い雲が空を覆っている。
こんなに寒いのに、飲み歩くのか。
工場長が出がけに大きなくしゃみをしていたのを思い出し、風邪をひいたりしなければいいけど。とアキラは少し表情を緩ませた。
工場に住み込みで働いている人達や、アキラとケイスケが住んでいるアパートは、さすが住み込みと言うだけあって工場からは遠くなく、早足だったせいもありすぐに着く。
「……?」
ふっと自分達の部屋に目をやり、その場所が暗い事に違和感を覚えた。
ケイスケが先に帰っているはずなのに、部屋が暗いままなのはおかしい。何か問題でもあったのかと、アキラは小走りで部屋へと戻った。
「あ……」
部屋の扉を開くと、白い紙がひらひらと足元に落ちてくる。
メモ? ケイスケ?
直感的にそう思い拾い上げて中を見る。すると“買い忘れたものがあるから街に行ってくるね”と書かれていた。
「買い忘れたもの?」
買い物には昨日行ったばかりじゃなかったか?
それより今日買いに行かなければいけない物なのか?
そんな疑問が頭に浮かんでくるが、本人がいない事には聞きようがない。とにかく何か問題があったわけじゃない事に安堵すると、暗いままの部屋に入った。
「……結構かかってるな。ケイスケ」
アキラがシャワーを浴び、そしてクリスマス特集をやっているテレビ番組を見ていても、まだケイスケは帰って来ない。呟いたアキラの声がテレビから聞こえてくる笑い声に溶けるように消えた。
トシマを出てからも、アキラとケイスケは大概の時間を一緒に過ごしていた。考えてみれば、こんな風にメモ一枚残してケイスケがどこかに行くのは、はじめてかもしれない。
クリスマスは恋人と甘い一時を!
そんなCMが耳に入ってきて、反射的に電源を落とす。
途端に静まり返った部屋に違和感を感じ、急に苦しさを覚えてゆっくり立ち上がると窓を開けた。まだ雪は降り始めてはいないが、天気予報で降ると言っていたから、もうすぐ降り出すのだろう。それを証明するかのように、開けた窓から痛いくらいに冷えた空気が部屋へと流れ込んでくる。
当たり前になりすぎると、それが少しでも変わった時に大きな違和感を感じるものなのか。
大きな違和感。
それがなんなのかはアキラにはわからなかったが、確かに何かが心の中に引っかかっているような気がした。
これはあの時の気持ちに少し似ているかもしれない。
トシマでケイスケがいなくなってしまった、あの時感じた気持ちに――。
「……」
急に部屋の中に響く時計の音が大きくなったように感じ、小さく息を飲むと、アキラはたまらずジャケットを羽織って部屋を飛び出していた。
たかが買い物だろ。ここはトシマじゃない。あの時とは何もかもが違う。
言い聞かせるように頭の中で何度も呟く。
勢いで飛び出したが、どこに行くつもりだったのかを考えたアキラの足がアパートの入り口で止まった。
そう。ケイスケは買い物に行っただけだ。なのにどうしてそれに違和感が生まれて、こんな所にいる?
よくわからない自分の行動に嘲笑するように笑って、だからといって部屋にも戻りたくなくて、アキラは郵便受けの横にしゃがみ込んだ。
「寒い……」
外の気温にあわせてアキラの体は一気に冷えていく。
それでも部屋にいる時よりは何も考えないですむせいか、厚い雲に覆われた空を見ながらアキラはしばらくここにいる事にした。
結構な時間そこでしゃがんでいたアキラの視界に、辺りの闇に似合わない白が入り込んでくる。
「やっぱり降ってきた」
予報通りの雪。
かなり積もると予報されていたが、アキラが差し出した手に降りた雪は、すぐに溶けてしまう。そんなまだ生み出されたばかりの雪。
いい加減……部屋に戻るか。
風邪をひいたら仕事にも影響を受ける。それにケイスケも心配するだろう。ため息を吐き出すように大きく息を吐いてから、アキラが立ち上がろうとした瞬間。
「アキラ?」
その方向を見なくても容易に誰だかわかる声がしんとしていた辺りに響く。
「……ケイスケ」
「どうしたの? もしかして何かあった?」
アキラがこんな所にいるのが不思議なのか、少し焦ったようにケイスケは駆け寄ってきた。
「別にそんなんじゃない」
「じゃあ……?」
聞き返されて思わず答えに詰まる。
確かにどうしてこんな所にいたんだろうか。雪が降る位寒い上に、アパートの住人がいるわけでもない。考えてみればみる程理由もなく外にいるのはおかしかった。
「き、気分転換だ」
「気分転換?」
「ああ」
「そっか……」
言葉に詰まり、半ば苦しまぎれに出た言葉だったが、ケイスケは頷きそれを納得してくれたようだ。
ならば……と、アキラは話題をケイスケの事にそらす事にする。
「そういえば、何を買ってきたんだ?」
「あ、うん。ケーキ。今日はクリスマスだから」
アキラと一緒に食べようと思って。
そう付け加えてケイスケは持っていた箱を少し持ち上げてまた笑う。
「本当は作る準備をしてたんだけど、……失敗しちゃって」
だからメモなんか残してまで今日買いに行ったのか。
さっき疑問に思った事が、その言葉で一気に解決していく。理由はわからないがアキラの中で部屋に帰ってからずっとつっかえていた何かがスッキリと消えた気がして、今度こそ部屋に戻ろうと立ち上がろうとした。
「わ……っ」
「え?」
こんなに寒い中で長時間座っていたせいだろう。すっかり冷えていた足が突然の動きにいう事をきいてくれるわけもなく、アキラの体が大きくぐらつく。
「……っ、アキラ!」
慌てて宙を泳いだアキラの手をケイスケの手が掴んで、なんとか倒れるのは食い止めた。しかし、手に触れた瞬間、ケイスケの表情がそれまでとは違う驚いたものへと変わる。
「アキラ、すごく体が冷えてるけど……」
「気分転換に外にいたんだから冷えて当然だろ?」
「そうだけどさ、どれくらいいたの?」
「覚えてない。多分……一時間くらいか」
「えぇっ!」
つくづく今日はアパートに誰もいなくてよかった。と、あまりの驚きに大声をあげたケイスケを見てアキラは思う。これだけ騒いでいたら、確実に誰かが外に飛び出してきただろう。しかし、そんな事にホッとしているアキラとは対照的に、ケイスケは突然アキラの体を思いきり抱き寄せた。
「おいっ、ケイスケ」
「風邪ひいたらどうするんだよ。もしアキラの具合が悪くなったりしたら……俺」
「別に大丈夫だ」
「でも、手だってこんなに冷たいし」
そう言われ指が絡まって温度差を感じてはじめて、自分が相当冷えていた事にアキラは気がつく。同じように外にいたはずのケイスケの手は、逆に熱があるんじゃないかと思うくらい熱かった。
「悪かった……心配させて」
冷たすぎる体が相手にどれだけ不安を与えるかは、アキラもわかっている。
トシマで雨に濡れて動かないたケイスケに触れた時、途方にくれてしまうくらい不安だった。だからその時に感じた気持ちが一気にわきあがってきて素直に謝る言葉が出る。そしてそれを聞いたケイスケは小さく頷いた。
「……で、だ」
「え?」
「いい加減部屋には、入らないのか?」
「うーん。もう少し。アキラ……まだ冷たい」
頬を摺り寄せるようにして、ケイスケの腕に力が込められる。
「おいっ。調子にのるな……、こらケイスケっ」
確かに今はアパートに誰もいないが、朝まで帰って来ないという確証もない。万が一こんな所を誰かに見られたら、休み明けにいい話のネタにされるのは考えるまでもないだろう。
それじゃなくてもケイスケが所構わず飛びついてきたりするせいか、工場長や従業員によくからかわれているのだ。その度に顔から火が出そうなくらい恥ずかしい思いをしているアキラにしてみれば、死活問題にもなりうる。
「アキラ」
そんな事を考えていた矢先に耳元で名前を呼ばれ、自分が置かれている状況を理解した途端、アキラの顔へ一気に熱が集まった。
「なんだよ」
振り回されている事を悟られないように顔を上げないまま、精一杯ぶっきらぼうに答えを返す。
「メリークリスマス」
「え?」
ここ数分の出来事で、今日がクリスマスだった事などすっかり忘れていたアキラは、ケイスケの言葉を理解できなくて反射的に顔を上げた。
「今日はクリスマスだから。だからメリークリスマス」
「……あ」
そう言われてみればそうだった。
そんな事を忘れてしまうくらい動揺している自分に改めて恥ずかしさが込み上げてくる。さらにアキラが顔を上げたのをいい事に、ケイスケが額にそっと唇を寄せてきた。
「……ケイスケっ」
「痛っ、暴れるとケーキが崩れちゃうって」
反射的に繰り出したパンチに、笑いながらそう言葉が返ってくる。
卑怯だ。
心の中でそう文句を言ってみるが、確かにケーキが崩れるのは嫌で暴れるのはやめてすっかり上機嫌のケイスケに精一杯睨みを返しておくだけにしておいた。
「アキラもちょっと温かくなったし、部屋に入って準備しよっか」
結局その状態のまま、ケーキの種類の話やテレビでやってた番組の話をしていて、ケイスケがそう切り出したのはしばらくたってからだった。
確かにアキラの体はだいぶ温まっていて、痺れさえ感じていた足も今はもうなんともない。しかし、そう言ったのに一向に離れようとしないケイスケに、アキラは小さく首を傾げる。
「おい。離れないと、部屋には戻れないぞ?」
「でも、アキラも離してくれないと……離れられないから」
「――っ!」
無意識のうちに両手を回していたらしく、照れながら笑うケイスケにそれを指摘されて気づいたアキラは絶句した。
「離れたくないなら、俺は嬉しいんだけど」
「ば、バカ! 部屋戻るぞっ」
「痛っ! あ、ま、待ってよアキラァー」
うっすらと辺りを白く染めはじめた雪が降り続く中、そんなケイスケの声がまた辺りに大きく響き渡ったのだった。
後編に続く
*あとがき*
結局アキラは色々考えてましたが思いっきり自覚無しにケイスケがいなくて淋しかったと(笑)
ケイスケ編のドラマCDを聞けば聞くほど、ED後のアキラは照れると手が出るタイプなんだなーと、思って書いたらこんな感じになりました。
読んでくださってありがとうございました。
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