優しさと距離




「あのさ……アキラ」

 家でのんびりと過ごしていた休日の午後、突然ケイスケがアキラにそう声をかけてきた。
「ん?」
 今さっきまで会話をしていたのに、急に改まったような言葉になったため、読んでいた雑誌から目を離す。そして、横にいるケイスケに視線を向けると、そこにある表情はやけに真剣なものだった。
「あの、俺……バイトをしようと思うんだ」
「バイト?」
 突拍子もない言葉に思わず首を傾げて聞き返す。すると、ケイスケは大きく頷いた。
 どうしていきなりそんなことを言い出したのか。アキラの中にまず浮かんだのはそんな疑問だ。
 収入はあまり多くないとはいえ、二人で生きていく分は工場で働いているだけでもなんとかなっている。働き始めた頃はそんな話もよくしていたが、今頃になってどうしていきなりバイトなどと言い出したのかさっぱりわからなかった。
「何か欲しいものでもあるのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 ぶつぶつと口ごもった後、とにかくバイトがしたいんだ。と最初と変わらない言葉が返ってくる。
「昼も夜もじゃ……体壊すだろ。今の時期は工場だって忙しいし」
「俺は平気だよ。丈夫だから」
「そういう問題じゃない」
「絶対無理はしないから。それは約束する」
 ケイスケが言い出したら聞かないタイプなのは長い付き合いの中で理解している。しかし、無理をすることになるのがわかっているのにすんなりとバイトをするのを受け入れるのもどうかと思った。それに理由もよくわからないせいもあるのだろう。釈然としない気持ちのまま首を振った。
「どうしても欲しい物なら、食費とかを切り詰めればいいだろ」
「それは駄目だよ。アキラには迷惑かけたくないんだ。それに、それだけじゃ……なくて」
 自分は元々食に関してはあまり執着がなかったし、そうやってきた時もあったのだから切り詰めることにも抵抗などない。ケイスケが夜もバイトをして無理をするよりもよっぽど効率的なんじゃないかと思う。しかし、ケイスケはどうしても自分でなんとかすると言い張って、結局その後も最終的にアキラが折れるまで意見を曲げようとはしなかった。


 そんなことがあってから一週間。
 アキラにバイトの話を切り出した時にはすでにバイトの検討をつけていたらしく、次の日から工場の仕事を終えるとそのままバイトに向かう。そんな日が続いていた。
 一緒にいてずっと話をしていたわけではないし、昼間は今までと全く変わっていない。
 それなのに、なぜかアキラの中にはバイトをやりたいとケイスケが言った時に感じた、釈然としないもやもやとした気持ちが残ったままだった。
 ケイスケが自分で決めたことなのだから、勝手にすればいい。
 この一週間そうやって何度思ったのだろう。改めて考えると、まるでそれを自分に言い聞かせているようにすら思えてくる。
 薄暗いままの部屋の壁をぼんやりと見つめながら、体は疲れているのに今日は全く寝つけずアキラは軽く息を吐いた。
「もうすぐか……」
 時計に目を向けると、すでに明け方と言える時間になっていて、そろそろケイスケは帰ってくるだろう。このまま起きているべきか、それとも眠れなくても横になっていた方がいいのか。
 そう考えはじめてすぐに、鍵が開く音が耳に届いて、どうすることもできないまま動きを止めて部屋の入り口へと目を向けた。

「……アキラ?」

 部屋に入ってすぐにケイスケは驚いた声でアキラを呼んで、まだ朝方だということにしまったという表情を見せる。
「ごめん、起こした?」
 問いかけられた言葉にアキラは首を振って、喉が渇いただけだとベッドから立ち上がり、テーブルの上に出しっぱなしだったペットボトルに手を伸ばした。
 その行動にケイスケはよかった。と呟くように言うと、手にしていた荷物を床へと置いてアキラの方に歩いてくる。
 半分くらい入っていた水をぐっと飲み干して、そんな様子を見ているらしいケイスケの視線を感じ、黙ったままでいられなくなり口を開いた。
「風呂は?」
「終わってから向こうでシャワー借りてきた」
「そうか。腹は?」
「ちょっと……空いたかも」
「昨日の残りなら温めればあるぞ」
「……えへへ」
「は?」
 突然意味のわからない方向に会話がずれたため、反射的にその発信源を見る。すると、にっこりと満面の笑みを浮かべたケイスケと視線がぶつかった。
「なんだよ」
 あまりにも嬉しそうなのが伝わってくる表情に、なんとなく居心地が悪い。
「なんでもないよ」
 そう言いながらも、なんでもないという顔を全くしていないため、もういい。とだけ告げたアキラは、空になったペットボトルをテーブルに戻した。

「アキラ……眠い?」

 突然そう問いかけられ、視線は逸らしたまま首を振る。
「別に……」
 低い声でそう返した瞬間、ケイスケがアキラに躊躇うことなく手を伸ばしてその体を包み込むように抱きしめてくる。
 なにやってんだ。
 そう言って睨もうと見上げた視線の先に、少し疲れを含んだ表情が見えて、押し返そうとしていた手に力を込めるのをやめた。
 やはり工場で働いてさらにバイトをするのは、体力的にもきついのだろう。無理はしないと言っても、それだから仕事の手を抜いていいわけじゃない。何よりケイスケはそんなことをする奴ではない。
 それなのに、どうして。
 バイトをすると言い出した日から、ずっとアキラの中にある疑問が、ケイスケの様子を間近に見てまた一段と大きくなった。

「……アキラ」
「ん?」
「ただいま」
「あぁ……」

 ――おかえり。

 色々と考えている中突然そう言われ、水を飲んだばかりなのに返した言葉は掠れた小さなものになってしまった。それでも、アキラの存在を確かめるように深呼吸をしたケイスケが軽く頷いたため、恐らくちゃんと伝わっていたことにほっと息を吐く。
「帰ってきてアキラが起きてたのはじめてだったから、ちょっとびっくりしたよ」
「そうか?」
「うん。でもアキラにちゃんとただいまって言えたのは嬉しいな」
 その言葉と共に更にぐっと腕に力が込められて、さすがに苦しさを感じたアキラは顔を上げた。
「いつもは寝顔ばっかりだったから」
「……勝手に人の寝顔を見るな」
 近すぎる距離に鼓動が高鳴っていくのを感じながら、それを知られたくなくてにやけた顔を見せるケイスケを軽く睨んだ。しかし、全く懲りた様子は見せずに笑顔のままアキラの唇を奪ってまた笑いを零す。
「ただいまのかわりにキスしてたから平気だったんだけどさ。やっぱりちょっと淋しくて」
「ちょっと待て、今……なんて」
「だってアキラの寝顔すっごくかわいいし、キスするとさぁ小さく喘いじゃったりなんかしてもう……って、うわっ」
 いい加減にしろ。と言って軽く足を踏みつけると、それに驚いたケイスケが軽くよろける。なんとか倒れるのは阻止したものの、アキラの足がテーブルにぶつかりさっき置いたペットボトルが床に転がった。
「あ、アキラァ」
「なんでお前はそうやって黙って勝手なことするんだ。だいたいバイトだって……っ」
 思わず考えていたことを口走りそうになる。中途半端なまま途切れた言葉に気まずさを感じ、ペットボトルを片付けるから。と、ケイスケから体を離して背を向けた。
「アキラ」
 背中にかけられた声に返事をしないまま、落ちたそれを拾い上げでゴミ箱へと放り込む。
「勝手にバイト決めたこと、怒ってる?」
「お前が決めたんだ。俺がとやかく言うことじゃないだろ。……ただ」
「ただ?」
「心配してないわけじゃない」
 さっき見た疲れた顔が頭の中に浮かぶ。そこまでする理由が気になるのも事実だが、それよりもやはりケイスケのことが心配だった。
「ごめん。勝手なこと言って、結局アキラに心配かけてるよな」
「……もういい」
「俺さ、独り善がりになってるんじゃないかって思って」
「独り善がり……?」
 呟くように吐き出された言葉に、おもむろに振り返ると、どこか困ったような表情をしているケイスケが頷いた。
「アキラへの気持ち」
 そう言いながら少しだけ距離を詰め、伸ばされた指がそっと髪に触れてから頬を撫でる。
「俺、アキラがやっぱりすごく好きなんだ……どうしようもなくなるくらいに」
「いきなり何を……」
「でも、抱きしめても、キスしても、何をしても何を言っても、足りなくて。気持ちが全然追いつかない」
 ふっと細められた瞳に、アキラの鼓動が一気に跳ね上がる。微妙に開いたままの距離に小さく喉が鳴り、それでも視線はケイスケの瞳から外すことができない。
「だけど、この気持ちを一方的にアキラにぶつけたりしたら……。それじゃ……あの時と同じだろ」
 真剣な表情でそう告げてから、恍惚とした視線をアキラに向ける。
「バイトをしようと思ったのは、また突っ走りそうになってた自分を見直したかったっていうのかな……。上手く言えないんだけど」
「……ケイスケ」
「でも、駄目だな。やっぱり」
 大きく息を吐いたケイスケが、そう言って再びアキラの体を抱き寄せた。
「アキラが起きてるのを見たら、我慢なんて無理……」
 ふっと息を吐きながらケイスケが動き、くすぐったさに肩が竦む。それでもよく知ったケイスケの体温と声は、あれだけもやもやとしていたアキラの気持ちをもいつの間にか静めていた。
 その温もりの中で、一歩ずつでも前に進んで強くなろうとするケイスケを、すごいと素直に思う。
 それならば、自分は……自分も。
 ゆっくりと顔を上げて、そんなアキラの動きに不思議そうな表情を見せたケイスケに向かって口を開いた。

「……別に、独り善がりなんかじゃない」
「えっ?」
「だから、独り善がりじゃない」
「あ、あの。え?」

 勢いをつけて言ってみたものの、さすがに三回も同じことを言うのはもう限界で、なんでもない。と、顔を背けた。すると、本当に意味がわかっていなかったらしいケイスケが慌てて謝ってくる。
 いつもは呟いた言葉にだって反応するくせに、どうして今に限ってこうなんだ。
 覗き見るようにして視線を合わせてきたケイスケを見て、そんな風に心底思った。
 もう朝日が姿を見せ始めているのだろう。うっすらとだが部屋に光が差し込んできて、これでは簡単に表情がわかってしまう。
「……っ」
 言葉を詰まらせたまま、目の前で答えを期待しているケイスケに、痛いくらいに鼓動が早まった。
「だから――」
「んっ」
 色々と考えて言葉にするくらいなら。そう意を決したアキラは、ケイスケの唇に自分のそれをそっと押しつける。
「アキラ……」
 離れるとケイスケが驚いた顔で名前を呟いて、そしてすぐに今度は互いが同時に距離を縮めた。


 結局ケイスケはそれから一週間バイトを続け、最初に入ると伝えていた分までをしっかりやり遂げると、またそれまでと同じ普通の生活へと戻った。
「給料も貰ったし、せっかくだから二人でどこか出かけたいよなぁ。ね、アキラはどこに行きたい?」
「ケイスケが働いたんだから、お前が行きたい場所に行けばいいだろ」
「俺はアキラと一緒ならどこでも嬉しいんだけど……」
「とにかくだ。今回は絶対お前が決めろよ」
「うん……。うーん」
 そう返したアキラの横で、ケイスケは歩きながら腕を組んで真剣に唸りはじめる。
 この調子では行きたい場所がいつ決まるかはわからないが、考える中でころころと変わる表情は見ていてなかなか飽きないため、気長に待つかと、アキラは表情を緩めたのだった。


終わり

*あとがき*
今回は場面転換を交えてみたんですが、相変わらずこういうのは苦手です。
一番書きたかったのがエロス場面じゃなかったため、その手前でカットしてしまいました(笑)
ED後のケイスケは、色々と試行錯誤しながら、一歩ずつだけど本当の意味で強くなってアキラと生きていくんだろう。
ってのと、そんなケイスケにアキラもまた自分の気持ちと向き合っていくんだろう。
って感じを話にしてみました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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