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虚繭取り

 

作者: 598
Summary: ギンコ×綺

 

彼に初めて会ったとき、僅かな違和感を覚えた。

それが何故なのか、よく思い出せない。

◆虚繭取り◆

「お前の中の、でっかい空洞の口は塞げ。戻ってこれなくなる前に――」

馴染みの蟲師は、私に告げた。
彼の声音は低く、とても辛そうだった。

虚穴から戻った時、すでに日は落ちて、
家路は夕闇漂う重苦しい沈黙が流れていた。

私は夜空を仰いで、今宵は朔の日なのだと思い出した。



「…ギンコ。今日は、ありがとう」
「…ああ、あれで気が済んだか」
「…よく…わからない」
「…そうか」

綺の言い分も最もだ。
見たことと、それを受け容れることは異なるものだ。

だが、幾許かの諦めをえて、前を向いてくれればいい。
失ったものを求めるより、希望を見出せればと願うのだ。
ギンコは、また一つ紫煙を夜風に流した。



「夕餉にするね。食べていくでしょう?」

玄関を開けると、綺は気丈にも微笑んでギンコに宿をすすめた。
あんな冥い冷たい虚穴をみて、一晩を考え込むくらいなら、
何でもいいから、だれかのために食事の支度でもして
時間を紛らしたほうが、なんとかやり過ごせる。

「ありがたいが、少し休ませてくれないか」
「客間が空いているから、そこを使って。仕度ができたら呼ぶわ」

白銀の髪に隠れて、彼の瞳が翳っていた。
熱でもあるのか、それとも気分がすぐれないのだろうか。

勝手知ったるように、奥の間に消えていく彼の背をぼんやりと見送った。

不意に心配になり、手水盥に手布を浸して、そそと客間に運ぶ。
慣わしどおり、隙間の空いた襖の向こうに彼がいるはずだ。

「ギンコ、入るね」

隙間から念のため声を掛け、更に襖を開ける。
夜闇の中で早々に臥せるギンコは、病人のようである。
身動ぎすらしないが、その額にうっすらと汗を浮かべている。
やはり熱があるのだろうか。あの虚穴で疲れさせたのだろうかと、胸が痛んだ。

盥に満たした冷たい井戸水で絞った布を額にのせた。
ギンコうっすらと眼を開ける。
「…ギンコ。大丈夫?」
「ありがとう。すまないが、先に横にさせてもらうよ。
仕度ができたら、悪いがまた呼びにきてくれないか」
語尾弱く呟くと、また眠りに引き込まれていった。
不思議な微睡(まどろみ)かただ。だが、蟲見る者の眠りとしては常なのかもしれない。
亡くなった爺様も、よく眠ったり起きたりしていたものだ。

綺は、彼の生糸の手触りににた髪をさらりとかきあげると、
部屋を退き、夕餉の準備を始めた。
いつもは、昼の残りものであっさりと済ませるのだが、
今宵は気分のすぐれぬ客人がいるし、おじやでも作ればよいだろうと仕度する。
具材を混ぜた鍋を囲炉裏にかけている間に、日課であるウロ繭を見に階段を上がる。
夜のためにもう一度桑の葉を与えて、繭に返信がないかを確かめておきたかった。
四半刻を掛けて、全てのウロ繭に異常はなく、そしてやはり返信がないことを
半ば諦めながら受け入れ、階下へ降りてきた。

659 名前:虚繭取り1[sage] 投稿日:2007/01/03(水) 03:14:39 ID:It80PB/s
夕餉もそろそろだし、ギンコを起こそうかと綺は奥の間に向かった。
「ギンコ、入るよ」
襖の隙間から声を掛けて、手を掛ける。

「仕度ができたけど、ギンコ?」
手布は額にそのままで、温くなっていた。
仰向けに眠る彼の顔は、苦悶を浮かべていた。
悪い夢ならば、早く起こしたほうが良いのかもしれない、
綺はそう思い彼の額にある手布を除けようと手を翳した。

「…っ」
存外な力で、手首を捉まれた。
「ギンコ?」
茫然と身を起こす彼は、現つに焦点を会わせようと何度か右眼を瞬かせた。
「……綺?」
「あの。手を離してくれない?」

不思議な翠の隻眼がゆらいで、彼の右頬に一筋の光をつくった。

本当に、不意に、我知らずと涙を流しているようだった。
彼は、綺の手にあった手布で右頬を拭った。

「ギンコ。どこか痛むの?」
綺は気遣わしげに声を掛ける。
彼は、だか寝覚めとも思えぬすばやさで綺を引き寄せた。
袂のあたりに、彼の頭が寄せられる。そうしてくもぐった声を絞りだした。

「…すまん、もう少し、このままでいさせてくれないか」



今日滅多に踏み入れぬ虚穴が原因だと、解っている。
それが、今の事態をひき起こしていることも。

あの虚穴は、俺の最奥の記憶を呼び起こす。

一番古い記憶は、長く暗い闇の中を黙々と、
ただひたすらと歩く記憶だ。前も後ろも、時刻もわからない。
足が痛んでいるのか、この眼が病んでいるのか。
何から逃れようとしているのか、それとも何を失ったのか、
四肢の動きも緩慢になり、そして、心すらも痺れていくようだった。

ただ、歩き続けることのみが、心に強く、強くかせられているようであった。

歩き続ける中で、皓々と照らす嘘じみた月をいくつも仰いだ。
その夜以前のことを、自分は本当に思い出せない。

己が名前も、家族も。
すべてが、虚ろだ。

それが、最初の記憶だ。
どうして、記憶がないのか、左目がないのかすら、定かではないのだ。
だが、我知らず右目が泣く夜は、なにがしかの切なさで胸を塞ぐのだ。

喪った左目を悼むがごとき朔の今宵は。
昏い深淵を彷徨う幼い己が泣いているのかもしれない。

それでも、現つに己があるのは、刹那でも己を引き止めてくれる人々がいるからだ。

この確かでやわらかな、人の温もりがあるからだ。


そう、独り言を飲み込んで、ギンコは綺をひきよせた。



『ああ、そうか』

綺は、ギンコの腕の中で、彼に感じた違和感に得心がいった。
それは違和感ではなく、既視感だったのだ。

あれはいつのことだったか、まだ緒ちゃんが隣りにいて
ウロ守の爺さまの不思議な昔物語の一つだった。

八百万の神々の中で、白銀の髪と翡翠の瞳の水の神は、片目で泣くのだと。

喜びにつけ、悲しみにつけ、水の神が両目で涙を流せば、
陸地は大雨やら洪水やら、海からは大津波に襲われるからなのだという。

心優しき神は、民草の営みを思い、ただ片目で涙するのだと。

故に、古えの人々は、片目で泣くことは、忍びがたい何かを想い泣くのだと言い伝えている。

右頬に静かな光の一筋を映す彼をみて、彼も何かを思っているのだろう。
神代の神さまもきっとこのように涙するのだろうと思った。

今は虚ろな左目こそが、彼の喪われた答えを秘めているのだ。

「…ギンコ。あなたも何かを喪ったの?」

「…わからない。…わからないんだよ」

血の縁(えにし)なき者は、何者にも縛られぬ強さを持つ。
だが、時として脆い。それは礎なきにも等しいから。
私は、一族の長の爺さまがいて、里には両親がいて、緒ちゃんがいた。
双子としての結び付きは、とても慕わしいものだ。
だからこそ、今日の案内された虚穴をみても、
まだ緒ちゃんが、どこかに生きて在ると疑っている。
疑いでなく、信じているのだ。

この流しの蟲師にも、縁なる者がいるのだろうか、それともいたのだろうか?

「だが、時々片目が泣くんだ。その時ばかりは、なぜか胸が痛む」

そう低く呟くと、ギンコは腕に力を込めた。
抱きすくめるというよりも、離してはなるまいとしがみつくといった力の込め方だ。

綺は宥めるように、彼の背に腕をまわし、その背を撫でた。
彼女からは、新緑の木々と桑の実の甘く懐かしい香りがする。
生まれ育った郷里さえも無いがゆえに、それがさらに彼の胸を切なくさせた。


月影もない朔の空ばかりが二人を覆っていた。

■了■

 

 

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