「君は堕天使の話を知っているかね?」
「まあ……何となくは……」
なら話は早いな、と彼は僕が上司に提出しなければならない大事な書類を紙飛行機にして飛ばしながら仕える身としては慈悲深いとでも表すべき輝きに満ちた微笑みを浮かべてみせる。ゆったりと風を切って進むその書類の提出先である上司というのが彼自身であるばかりに、彼の行動に関する悲痛を訴えるに訴えられないのがもどかしいがそろそろ少しは慣れた。天界とはえてして理不尽なものなのだ。多分。
「では、大天使が何故『堕ちる羽目』になったのかはわかるかな?」
「さあ、堕とされるに足ることをしたからじゃないんですか」
と出来るだけ興味無い素振りを前面に押し出しながら返すと、彼は一昔前のアイドルか何かのように舌打ちと共に指を振る仕草をつけてその考えを否定した。正直大層気持ち悪かったのだが、例え一部無くなっていようとも大切な書類の山に吐瀉物を散らすという無様な真似はなるべく避けたいので喉元まで込み上げたそれを堪える。
「君は、神は絶対だと思っているのかな」
「いいえ」
先程我慢した反動か、素晴らしくスッキリと言葉を吐き出せた気がする。これまでに無い程はっきりとした、明瞭な「いいえ」に我ながら惚れ惚れとする。
「そう、神とは相対的なモノなのだ」
ただ一つ、事の発端である彼が気にもしていない風なのが癪だが仕方がない。彼は元々自分以外の事象に興味などない。今こうして過去の事例に触れていることすら奇跡だとも思える。
「だが、絶対でもある。ここまではいいな?」
「よくないです」
もう少し筋道立てて説明して下さい。と視線を上げることなく言ってみると、彼は何やらガサゴソと音を立て始めた。非常に作業の邪魔である、がその作業を命じたのもまた彼自身であるため、僕は何とも言えずに押し黙る。今ここで何か言うならば「何がしたいのですか」といった問いが最も適するだろうか。いやしかしその問いを用いた際彼が「よくぞ訊いてくれた」と嬉々として堕天使の話を続ける可能性は大を通り越して極大である。ならば、僕に残された選択肢は沈黙しかない。
「さて、とりあえずこの表を見てくれ」
しかし神は無慈悲だった。最後に残された選択すら、間違いであったのだ。
「…………どこから出したんですか、その表」
「来たるべき日の為前々から用意していたに決まっているだろう」
なんて至極当然な風に返す神。流石全知全能、とでも言うべきか、才能を溝に棄てていると捉えるべきか、どちらにせよ全く尊敬に値しない。
「さて、先ずは神が絶対的である点だ。神がこの世界の頂点に君臨する、という一点に於いて『絶対性』が保証されているというのはまあ言わずとも判るだろう」
「認めたくはないですが」
「無意味な謙遜は他者を傷付けるだけだよ?」
謙遜の意味を履き違えているとしか思えない彼の脛を蹴りつけ、続きを促す。
「では、何に相対性があるのか?否、先に答えを言ってしまえば元来相対性など無いのだよ」
「無いなら無いでいいじゃないですか。何でわざわざ見つけてしまったのですか」
「さあなあ……私が見つけたわけではないからな」
それに創ってしまったのは君達でもあるんだよ?と神はまた無邪気な笑顔を作り、そう宣う。意味が解らない。そこで笑う意味が。
「私の、神の相対性というのはだな、つまり絶対性の上に創られた虚構の相対性なのだよ」
「……もう少し噛み砕けませんか」
「おや、これはすまない。まだ離乳食が必要な年頃だったかな」
「巫山戯るのも大概にして下さい」
いつものお返しぐらい許してくれたっていいんじゃないかな、なんて微かな声で不平を漏らすその背中に向けて「僕が普段お返ししている立場なんですから」などと諫める科白を吐く。最早どちらが上司か判らない。
「で、分かり易く言えばどうなるんですか?」
「……例えば、私が兼ねての願いを叶えようと魔王になることを決意し、下界の破壊を目論んだとしよう」
「嫌な喩えですね」
「この上なく魅力的だろう?その時、君達は選択を迫られることになる。神の消えた旧態依然たる体制にしがみつくか、それとも神についていくか」
そう言って彼は不意にこちらを、今までに見たこともないような真面目な顔で見つめた。
「先程言ったように、神の権威というのは絶対だ。ならば則ち、神の決定も絶対とも言える。だとしたら、神の位置する所が変わることは神がより高みに上ることを示しているだろう」
「まあ、好き好んで堕ちる神はいないでしょうしね」
「つまり、だ。そこで神について行かないモノは本人の気持ち的には『取り残される』ことになるだろう。しかし高みに上った神と、それについて行った天使からすれば相対的に考えて『堕ちた』ことにしかならない。だから『堕ちた』という表現を用いるならば、『神には相対性がある』と表現することもまた可能なわけだ」
「……珍しく真面目な話を、ありがとうございます。それが最初の話に繋がるのですね」
僕がそう言うと神はまた微笑みを浮かべる。その笑顔に打算的な含みが感じられたような気がして、僕は身を強ばらせた。
「それで、君は堕ちるのかい?」
空気が、凍った気がした。
「…………堕ちません」
そう言うのに、どれだけの時間を要しただろうか。
彼は、未だ目線を逸らさない。
「なら、ついて来てくれるのかな」
「いえ、ついても行きません」
「つまり……」
「阻止します」
何があろうとも、あなたの地位を動かさせはしません。とか何とか言ってみると、神は至極面白そうに声を上げて笑った。つられて、僕も笑った。口の中がからからに渇いていたから、乾いた笑いしか出来なかったが。
神が歩き出す。風圧で、用を為していない書類が舞う。机上に残された数枚は白紙で、彼の素行を見る限りはミスとしか思えないその白紙すらも、性根から考えると全知全能の無駄遣いに思える自分が嫌だった。
後書き
堕天使の話を聞いたので突発的に書いてみました。
堕天使本人は何も変わっていなかった、って設定はおいしくなると思うんです。実際を知らないから言えるんですけど。
10/10/26
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