黒豹
珍しく何も予定が入っていない日だった。
昨夜、それを花京院に伝えると大喜びして首に抱きついてきて、一日一緒だと笑顔を見せた。
確かに最近、ずっと出歩いていて顔を合わせるのが寝る前だけになっている。
ひどいときには花京院が寝ている間に出かけて、戻るともう眠っているというありさまだった。
疲れて、家に戻っても何もする気が起きてこない。
花京院の部屋に入り、寝顔を眺めては溜息をついて、自分の部屋に戻って眠る、そんな日が続いている。
花京院のほうはこの町でできた大勢の知り合いたちと仲良く遊んでいるらしい。
仗助が案内人になってあちこち出歩きもして、楽しくやっているようだ。
日に日に花京院が元気になり、話に出てくる場所が遠くなるのが俺にはとても嬉しかった。
それだけ外出できる体力が戻ってきたということだからだ。
仗助がしじゅう家に出入りしている。花京院は仗助の話ばかりするようになった。
あいつは優しいし意外に気の回る男だ。高校生ながらしっかりしている。
俺の叔父ってことをさしひいてもなかなか出切る奴だ。あれなら花京院を預けておいても大丈夫だろう。
アメリカにいるころから手を出すなと何度も釘を刺したのに、結局花京院に手を出された。
花京院もまんざらではないようで、ふたりで楽しく出歩いている。花京院が満足ならそれでいい。
ふたりが今でも寝ていようが、どうしようが、俺はとっくに吹っ切れている。
望むらくはできるだけ花京院を傷付けないように優しくしてやってほしいと思うばかりだ。
「弓と矢」でスタンド使いになった連中も、頻繁に来訪して花京院は面白がって相手をしている。
こんなにバラエティー豊かにいろんな能力が出るものなのかと、話を聞かされる度にスピードワゴン財団に提出するレポートの量が増えてしまう。
もちろん相手と対面して裏を取ってからの記載になるが、俺には見せない面も花京院の前だと無防備に露にするスタンド使いが多く、花京院が聞き出したことは貴重な情報源になっていた。
花京院は自分が人に警戒心を持たないせいか、相手がいきなり心を開いて打ち解けてくる。
これは特技に数えてもいいと思う。見ず知らずの他人が、ただ歩いている花京院を見ただけで考えられないような親切をしてきたり、法外な価値や量の物をくれてよこしたりするのも、その警戒心のなさがさせているのかもしれない。
あの気難しい漫画家まで、花京院とは普通の人間どうしのように友人扱いでなついている。
そうだ、なついているのだ。花京院は異常なほどの聞き上手で、相手の話に渾身の力で集中する。そういうときがある。相手は神父に告解でもするかのように包み隠さず話してしまう。それが男女や年齢、立場を問わずに誰にでも発揮されるものだから、スタンド使いの研究にあいつほど向いている人間もいないのではないかと俺は踏んでいた。
財団に報告したら花京院自身のその才能をきっと活用したがるだろう。
俺と組んで世界中を旅して歩くようになるかもしれない。
鯨や海豚にもあいつの才能が通用するのか試してみたくて仕方がなかった。
花京院は大きな生き物が好きらしい。
俺に惚れたのも、半分方は俺が大きな体をしているからではないだろうか、と思うことがある。
俺が集めた写真集もときどき貸してくれと言って眺めているが、大型肉食獣や海棲哺乳類の写真を好んで見ている。
そのくせ、実物を見に連れて行ってやろうとすると、別にいい、としれっと断ってくる。
本物は怖いし大きいし、へたをすると「かじられる」からいい、と言う。
出かけていくのが面倒なのと――あいつは根っからのインドア派だった――、実際、あいつが何かすると必ずややこしいことに巻き込まれるから、その理由は他の奴にはどうあれ、俺にはよくわかる拒絶だった。
たぶん花京院を海に連れて行ったら、甲板で海を見ているだけなのに、たとえば巨大イカが乗りあがってきてあいつを海に引きずり込むとか、突然ジャンプした海豚があいつの上に落ちてくるとか、絶対にそういうアクシデントが起こるはずだ。乗った船に穴が開く、ありえない場所でよろけて落ちる、突如ハリケーンに巻き込まれる、海賊に襲われてさらわれる。そういう、ありとあらゆる馬鹿なことが立て続けに起こるはずだ。
あいつはそういう星のもとに生まれている。
ただ杜王町で生活しているだけの日々ですら、なんだそれは、と呆れて怒鳴りつけたくなるようなことに出くわしている。仗助が一緒に出かけてくれて、俺は嬉しい。ひとりで外に出すなんざ、キチガイ沙汰だ。二度と会えなくなる可能性だって検討しなければならない。
今も持たせているGPS機能つきの携帯電話も数を増やしたいくらいだ。
レーダー探知用の特殊金属もあいつに取り付けておきたい。
真っ赤な風船を百個ほどいつでも結びつけておいてどこにいても花京院だ、とわかるようにしてやりたい。
気が気ではない。心配で仕事が手につかない。といって家にだけ閉じ込めておくわけにもいかない。花京院にはこれから俺の伴侶として公式な場にも出てもらうことになるだろうし、何より本人が外の世界に興味を持ってどんどん出歩くようになるまで復活した、その努力を無駄にはしたくない。
仗助がいてくれて本当に良かった。
花京院を守り、リハビリに必要な行動を助けてくれるのなら、花京院を抱くくらい何でもない。それで仗助が満足して花京院に優しくしてやってくれるのなら、どんどんやってもらって構わない。
花京院が元気になるなら相手がC.Gでも仗助本人でも構わない。抱いて、体を寄せ合って、花京院の機能を使い倒してやってほしい。花京院が仗助に抱かれて快感をおぼえて喜ぶのなら、あいつが前に言ったように仗助とのセックスが好きで楽しいなら毎日やってもらって構わない。朝晩の日課にして義務付けてやりたいくらいだ。
そんなこと何でもない。俺にとってはどうでもいい。それで花京院が仗助に心を移し俺と別れると言い出したって、俺は別に構わない。そのほうがいいのなら、それで花京院が幸せになれるのなら喜んで別れよう。心から喜んで祝福しよう。祝福できる。
もう俺は花京院が誰といて何をしていても嫉妬すら感じない。ただひたすら、あいつが幸せならそれでいいと思う。
俺が与えることのできない喜びや、安心を仗助が花京院にくれるのなら、俺は喜んで身を引こう。
俺は仗助を尊敬する。あいつは大した男だ。あいつの能力はこの世の何よりも優しい。それだけは確かだ。
――アメリカに早く戻りたい。できれば花京院を連れて。もっとばりばりと仕事がしたい。慣れた場所で働きたい。俺のちっぽけな研究室。待っている観察の続き。仕上げたい論文。根回しのためのパーティーへの出席。高度に政治的な駆け引きの必要な助成金確保のための話し合い。同業者との腹の探りあい。世界中の海に拠点を作り長期のフィールドワークがしたい。何もかも懐かしい。
俺の生きがいはふたつある。花京院と、仕事だ。
翌朝は、午前九時過ぎまで目覚めなかった。普段は六時には起きている。疲れていたということなんだろう。花京院は放っておけば夜まで起きない。それもまたいいかと俺はひとりのベッドで伸びをした。裸で寝る習慣は日本に戻っても抜けない。何か興味深い夢を見て、覚えておこうと決めたのに起きた途端に忘れていた。
花京院と寝室が別だ。それはさびしいことだった。ふたりで暮らしていても、あいつには自分ひとりの時間が不可欠で、しばらくこもらせておかないとだんだんおかしくなってくる。他人があれだけ無条件に群がって花京院を慕うのに、花京院自身はひとりでいるのが好きなのだ。
あいつの前世はどこかの姫君か何かで、領民に慕われていた、国民の光だった、そう言われても納得しそうだ。そう言ったならぼくは男だ、と怒るよりも、へえ、そんな立場にいたのかな。だったらもっとみんなに貢いでもらわないと。笑ってそう答えてきそうな奴だ。
引きこもりの、孤独を愛するあの男がこの町でどのくらい変わったか、来てみるまでは想像もつきはしなかった。
俺と暮らすことですら、あれにとっては大英断で決めるまでには相当な決意が必要だったと思っている。「他人」はいるだけであいつの存在を脅かす異物だったからだ。あいつは気持ちの優しい男だ。自分ではない誰かがそこにいると、それだけで心がそちらに向かってしまう。自分でも制御できない力で気遣い、いたわり、手を伸べてしまう。
だから、気がつかないところで深く消耗する。傷付きもしようし、辛い思いも何度もしている。優しすぎると言うのも諸刃の剣だ。俺などあいつの優しさに大いにつけこんだくちだろう。あいつに惚れて、あいつを抱いて、今では伴侶として扱っている。相手が花京院でなかったら、こんな乱暴で我儘な大男など、さっさと放り出しているところだろう。
花京院が、何度でも俺を許して側を離れずにいてくれたことを、俺は片時も忘れない。あいつを傷つけ、引き裂いて苦しめた。それでもあいつは俺を遠ざけることなく、側にいることを許してくれた。俺はもう花京院なしではいられない。花京院がいなくなることを考えただけで、頭がおかしくなってくる。気が狂う実感がある。全身が震え、血が沸騰する。破壊が得意な大きな両手で何かを叩き壊して荒れ狂ってしまいそうになる。
それでも、もしも花京院が望むなら、仗助にであれ、他の誰かにであれ、花京院を託して引き下がろう。それで俺が狂うとしても、それはもう花京院の感知すべきことではない。花京院の預かり知らぬ遠い場所で、俺がひとりで壊れればいい。去っていく花京院には、俺は最後まで笑顔を見せよう。ありがとうよと感謝して、祝福して別れよう。その後のことはおれ自身の責任だ。もう花京院とは関係のない空条一個人の責任だ。
花京院。
それでもまだおまえはこの家にいて、俺と暮らしてくれている。いずれ終わる生活だとしても、おまえと過ごす時をなかなか作れないとしても、俺はこの暮らしがひどく気に入っている。ありがたく思う。
おまえが家にいて、俺の帰りを待っている。そんな奇跡を日々経験できるのだ。俺がおまえの顔を見るまで、どんなに不安で恐れているか、おまえは少しも気付いていない。今日はいなくなっているか、明日は別れを切り出されるかと俺は体を切り刻まれるような痛みを物理的に感じている。それでも、おまえが笑顔でお帰り承太郎、と声をかけてくる度に涙が出るほど感動し、おまえを抱きしめてつぶしてしまわないように自制するのにひと苦労だ。おまえが作った料理を食べて、食卓の向いに腰掛けて楽しそうに話すおまえを見て、ふたりだけでいることに日々感謝している。
愛している。花京院。
俺は心の中で繰り返しつぶやいている。愛している。
俺はきっと頭がおかしいんだろう。おまえがそんなに綺麗でなくとも――白く細い整った外見や、優しい笑顔や高めの声や、しっとりした動作や、温かい共感をいつでも寄せてくる気持ちの優しさや、そういうものをすべて失くしたとしても、きっと俺はおまえを愛することをやめないだろう。
人に愛されるための「理由」をひとつずつ減らす都度、おまえの周りから人が減る。それでも最後に残された何かが――花京院典明の魂のかけらとでも言うべき何かがありさえすれば、俺はおまえの前に立つたったひとりの人間として、それでもおまえを愛していると、胸を張って告げるだろう。
花京院は俺の渡した指輪を受け取り、俺のプロポーズを受け入れた。
あれは一度決めたことは絶対に覆さない。結論を出すまでにあらゆる可能性を検討して自分がそれでも履行できるかとことんまで篩にかける。そうして出した結論だから、死んでも守る。違えない。
だからあいつは信用できる。一度決めたことはやり遂げるから。
それでも、俺にわかるのは、俺の魂には花京院への思いと生涯ただひとりの忠誠が緑色の文字で刻まれていて、俺にももうどうしようもなく変更できない決定事項としてある、ということだけだ。
花京院の魂にその契約が刻まれているかを俺は知らない。
起きるか、と上掛けをまくり、ベッドに腰掛けた。俺は立ち上がろうとして苦笑した。そこが盛大に目覚めている。久しぶりだな、と俺は見下ろしてちょっとあきれた。これは確かに大きすぎる。花京院でなくても相手をするのは大変だろう。こんな体に生まれるのも良し悪しだ。
俺の体は染色体異常だ。男性因子がひとつ多い。いわゆる超男性と呼ばれるそれだ。昔はそれを、超暴力的、殺人者特性として迫害していたこともあるという。高身長、高知能、そして高すぎる暴力衝動。統計的には有意な裏づけが得られないとして否定されているその条件を、俺の心身はすべて満たしている。
スピードワゴン財団での検査結果で判明したその遺伝子異常は、家系のせいらしい。俺よりも血の濃い仗助が、その傾向を持つのかはまだわからない。あいつの温和な性格からして、それはないのかもしれない。女性から遺伝するわけだから、東方家の遺伝子がそこは勝利を収めたのだろう。俺の母親、ホリィは過去にスタンドが現れた。彼女にはきっとジョースターの特性が強く潜在しているのだろう。
考えにふけっていてもどうしようもないので、とりあえず浴室に入ってシャワーを浴びた。おさまらないそれを無視して頭や体を洗ったが、今日に限ってどうしようもなく熱を持ったままだった。このまま花京院の前に出たらちっと困ったことになる。と、花京院、と思ったのがまずかったのか、それが途端にいきり立った。痛いほど持ち上がったそれを、仕方がないので自分で処理して、俺は浴室を出た。
いい年をして何をしてるんだと思ったが仕方がない。花京院がもう少し丈夫な体だったらと思いはするが、高校時代に出会ったときがピークで、あいつはどんどん痩せてしまった。あのころのほうがもう少し筋肉がついていたし、胸板などどうして立派なものだったのに。今では身長ばかり高くて折れそうな体を、どうしたら元に戻せるのか、飯は食わない、運動はしない、酒ばかり欲しがるあいつを思い出して苦笑していた。
目の前に惚れた相手がいるのに手も出せない。いや、手は出せるが出したら壊す。切ない、俺は思って身じまいをして、そっと下に降りて行った。
リビングに入ると、驚いたことに花京院がソファにかけていた。
「……おお」
「ああ、おはよう」
手にした雑誌をおいて俺に笑いかける。眼鏡をかけていた。
「どうした」
「これ? いや何となく。老眼じゃないから安心してくれ」
花京院は立ち上がると眼鏡を外した。
「君がいると思ったら早く目が覚めたんだ。ゴハン作っておいたから食べよう」
「ああ」
キッチンに入っていくとなるほどきちんと食卓が整えられていた。鮮やかな色のテーブルクロスがひかれたテーブルに、美しく生けられた花が飾られている。綺麗だなと思いそれを見ていると「庭で咲いたんだよ。後で見に行こう」と声をかけられた。
朝食は洋風で、パンケーキに卵にベーコン、サラダとオレンジジュースだった。俺の皿は花京院の三倍くらいある大きな平皿で、卵が四つ載っている。ベーコンに至っては十枚以上乗っていた。
「……ホリィさんみたいだって思ってるだろ」
花京院がおかしそうに笑って椅子にかけた。
「馬に食わせる気か、冗談じゃねえってよく怒ってたものね。でも君結局はおかわりしてただろ」
「まあな」
何か物足りなくて俺は食卓を眺めた。
「ああ、珈琲は淹れてない。ごめん、自信がなかった」
「後で淹れよう」
「うん、頼むよ。君の珈琲を飲むようになってから、外でまったく飲めなくなった。本当に罪作りというか、幸せというか」
「俺もそうだな。おまえの得意料理はよそで頼む気がしない」
「お互い様か。でも君のほうが料理うまいじゃないか。ぼくはいつも適当だから」
「……時間があればもっと作ってやりたいがな」
「ああ、そういう意味じゃないよ。料理は好き出し、後片付けも面白い。別に家事が負担ってことじゃないから誤解しないでください」
花京院はいただきます、と呟いてから、ほんの小さなパンケーキ一枚を時間をかけてつついていた。サラダが入ったガラスの皿がきらきら輝いている。
「美味いな」
「それは良かった」
「おまえの料理が美味くなかったことはないが」
「そうかい? それは光栄だ」
「自分では絶対食べない肉料理が一番得意なのはどういうわけだ」
「さあね。何でだろう? 君が好きで食べたがるからかな? ようは気合だね」
「……愛の力か」
「ははっはは、そうだよ承太郎! 君朝から馬鹿だなあ!」
花京院はナイフとフォークを持ったまま眉を下げて困ったような顔で笑っていた。この顔を見るとたまらない気持ちになる。
「そんな綺麗な顔で愛の力か、なんてさ。本当に……」
「おまえが俺のためにしてくれるんだ、それは感激するさ」
「こんなことくらいで」
「俺より早く起きてきただけで感動だ。今日は赤い雪が降るかもな」
「またそんなことを」
花京院はカトラリーをおいて、ジュースを口にした。
「それにしても、君はどこもかしこも嘘みたいに整ってるけど、ぼくだけが自由に見られる素晴らしいものがひとつあるんだよ。何だと思う?」
「……」
俺は今朝のことを思い出して、まさか朝から花京院があれのことを言っているとも思えずに黙り込んだ。俺は阿呆か。
「髪の毛。真っ黒で艶々してて本当に綺麗だ。いつも帽子で隠しているから、誰も見られないんだよね」
……言わなくて良かった。朝のなごやかさがぶち壊しだ。また変態だと罵られるところだった。
「触っていいですか」
花京院が伸び上がって手を差し出した。髪の毛に触れたいと言うのだろう。俺は黙って少し頭を下げてやった。花京院の細い指がさわさわと俺の頭をなでる。指ですくって髪の毛を何度も梳いた。
「シャワー使ったんだね。まだ少し濡れてる。手触りもいいしぴかぴか光ってて、黒豹みたいだ。豹の毛皮みたい。君は中身は狼っぽいけど、髪の毛だけは豹だね」
うっとりした調子で花京院が言い、癖のある髪を撫で続けている。
俺は頭に人が触るのも見られるのも嫌いで、起きている間は絶対に帽子を取らない。花京院といるときだけはマナー違反だとしつこく言うので家の中では脱いでいるが、一歩外に出たらそこが海中だろうが何だろうが絶対に脱がない。誰かが触ろうとしたら反射的に手が出てしまう。脊髄反射でどうにもならない。心理学者にでも探らせたらさぞかし面妖な理由があるのだろうが、自分でもわからない脅迫観念でどうしても帽子を取れないのだ。
それなのに花京院は平気でそれをひょいと取ってしまう。そうされても花京院にだけは殴りかかる気がおきない。寝ているときも帽子をかぶったままのときがあるが、熟睡していても花京院にだったら取られても平気だろう。他の奴なら、寝ている俺に近付いただけでスタンドで死ぬほど殴られるはずなのに。
俺も花京院には甘いなと思い、なでられまくるのをじっと耐えていた。おかしなことに余り不愉快ではなかった。それどころか、そうされるのが気持ちよかった。他人に触られることなど滅多にないが、花京院の指はうるさくなく、静かで軽くて気持ちよかった。
「君、撫でられた猫みたいな顔をしているよ」
花京院は自分のほうこそ満足した猫のような顔で笑いながら俺に言う。
「豹も大きな猫だものね。撫でたらゴロゴロ言うんだろう?」
「ああ。家猫と基本的習性は同じだ」
「出た! 空条博士の動物講座。生物学的に正しい黒豹の知識をあらいざらい教えてよ。あ、そうだ!」
花京院は急に手を離すと食卓を離れてキッチンに入っていった。しばらくして、黒いクロスを手に戻ってきた。
「これアイルランドリネン。珍しいだろ、黒いキッチンクロスなんだよ。ガラスを拭くのにいいんだって。もったいなくて使ってなかったんだ」
俺の横に立ち器用に折りたたむと、それを俺の首に巻いて軽く縛った。
「さあこれが耳と尻尾。君はこれから黒豹だ」
そんなことを言ってまた俺の頭を撫で始める。その手が下がり、耳から喉元におりてきて、俺は喉をなでられた。仕方がないので、喉の奥で猫のぐるぐるを真似して唸ってやる。
「ああ、喜んでる!」
花京院は笑い転げて手を離した。
「そうしてると猫みたいだ。猫ちゃんおいでおいで」
花京院はそう言って掌を差し出して、口の中でちっちと音を立てた。俺はできるだけ猫科の動物らしい動作で椅子を降りると、床に四つん這いで降り立った。
右手、左手、指をまるめてゆっくりと動く。黒豹の足裏は音を吸収し、衝撃を和らげるためのスポンジみたいな肉がついている。まったく無音で移動できるのはそのためだ。
「でかい猫! たくさん肉を食べそうだな」
花京院の目が丸くなる。こんな体勢の俺など滅多に見せたことがない。いや、初めて見るのかもしれなかった。
リビングのほうに――できるだけ豹っぽく――歩いていくと、花京院は白いビニールの紐を取り出した。ケーキ屋が包みを縛った紐だ。
それを左右に揺らしてかさかさ動かしている。今にも吹き出しそうな顔で、期待に満ちた目で俺を見ながら花京院が紐を動かす。
この野郎。
俺は前足――右手――を上げて、それをぱしっと引っぱたいた。途端に爆笑が沸き起こる。花京院が腹を押さえて二つ折りになって笑っていた。
「わははははは。あっはははっは!」
俺は構わずにぱしぱしと猫パンチで連打した。
「ノオホホホ!」
出た。奇妙な笑い声で花京院が後退していく。俺は猫っぽく、でも黒豹っぽい威厳を演出しながら紐についてのっそり歩いていった。
「すごいね、承太郎! 君の生物観察は本物だね! 本当に大きな黒豹みたいだ」
そんな賞賛も聞き流して、俺は紐だけを狙っていた。
そのうち、花京院は紐を持ち上げるとくるくると丸めて球状にして、それを俺めがけてぽいっと投げてよこした。俺は咄嗟にジャンプして、前足二本でキャッチした。そのまま部屋の隅まで走っていってがさがさいわせて放り投げたり叩きつけたりして、体をごろごろ回転させて遊んでみせた。
花京院が窒息しそうな声で笑っているのが聞こえる。それを尻目に、真剣に紐の塊と遊び狂った。そのうち何も声がしなくなったので、体を横にして猫っぽく見上げると、途端に拍手を浴びせられた。
「本物みたいだ! 君、病気の黒豹のいる動物園で、かわりに展示されてもばれないよ! アルバイトにしたらどうだろう!?」
花京院一流のわけのわからない例えを出しながら、ともかくも真っ赤になった顔で拍手を続け、すごいすごいと叫んでいた。
俺は知らんふりをして前足をなめて、掃除をした。耳の後ろもくるりと撫でて、ぺろぺろと体を綺麗にする。
「素晴らしい! 黒豹すごい!」
花京院はぜいぜい言って俺を見ていたが、「そうだ、ご褒美をあげよう」と言ってまたキッチンに入って行った。ご褒美とあっては猫も期待するだろう、俺は音を立てないように両手足を使って歩いていった。
真後ろで猫っぽく座って待っていると、ふりむいた花京院がうわっと叫んでひっくり返りそうになった。猫が褒美を待つときはこうするものだから、俺は平然とそんな彼を見上げてやった。
「ああ驚いた……承太郎、君ほんとうは猫だったのか? すごいな。頼んだらペリカンにもなれそうだね。ゾウガメになって四日くらい微動だにしない君とか想像できるよ」
スープ皿に牛乳を入れて、花京院は床においた。
「さあどうぞ。少し暖めてあげたからおいしいよ」
そこまでさせるか。俺は上目使いに花京院を見上げながら、そろそろと近付いて皿に向かって舌を伸ばした。花京院は静かにしゃがんで俺を見ていた。楽しそうに目が輝いている。頬が紅潮してうっすら汗ばんでいた。
舌ですくった牛乳の甘さを感じながら、俺は黒豹の生態の残りもすべて花京院に教えることにした。
いきなり前足を振り上げて、皿を叩いた。スープ皿はひっくり返って花京院にぶつかった。
盛大に牛乳をかぶった花京院が悲鳴を上げて後ろに転ぶ。頭を打つ前に俺は手を伸ばして後頭部を支えた。そのまま覆いかぶさって、思い切り顔を舐めまわした。豹は獲物を仕留めるとき、首筋を噛んで窒息させる。獲物が息絶えるまでぶら下がって呼吸をさせない。俺もそれにならって、花京院の唇を舌で割り、思い切り深くまで舌をつっこんだ。
花京院が俺の顔をつかんで必死にひきはがそうとしたが、そんなのは蚊に刺されたほどにも感じなかった。
俺は黒豹だから、人間の都合なんか斟酌しない。
長い時間が過ぎ、抵抗が弱まったので花京院から顔を離すと、細い腰のあたりを前足で押してごろごろ転がした。いいオモチャだ。ときどき首筋や肩に軽く噛みついて悲鳴をあげさせた。部屋中転がして軽く叩いたり、下からすくって持ち上げたりして、部屋の隅に押し付けて見下ろしたときには花京院は息も絶え絶えになっていた。俺の唾液と涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「承太郎……もう猫はいいよ! やめてください!」
泣いていることにも気がつかないのか、涙をこぼしながら花京院が言って震える腕で体を支えて立ち上がろうとした。
俺はその腕を軽くはらった。がくっと体勢を崩す花京院の首筋を噛んで、前足で抱え込むとうつ伏せにした。そのままのしかかって首や肩を噛む。もちろん傷つけないように手加減していたが、俺の下で花京院は盛大に悲鳴を上げてもがいていた。体重をかけて、花京院の尻のあたりに屹立したものを服の上からあてがってこすりつけてやった。感触でわかったらしい花京院がいっそう反抗的にもがきだした。
俺の呼吸は嵐のようで、花京院の首を食い破らないのに努力が要った。
花京院は床を叩き、手足を振り動かして俺から逃げようとして暴れていた。本気の証拠に体が緑に発光する。スタンド攻撃をするつもりだ。面白い。これで鼻を鳴らして擦り寄って来られたら興醒めする。本気で暴れろ、花京院。俺は笑いながら花京院の無駄な抵抗を楽しんでいた。
猫らしく、しゃーっと声を出して威嚇してから、花京院のシャツを思い切り引き裂いた。布が破ける高い音がして、花京院の白い背中が剥き出しになる。部屋中引きずり回したのであちこちに痣ができていた。かわいそうに。だがもう獲物にされて食われて終わるのなら、痣も傷も関係ないな。
見下ろす体があんまり細くて、俺は猫の目で見て失望した。こんなにがりがりに痩せていたら食うところがない。俺は豹になった頭で考えて、頭を左右に振った。骨も細いから噛み折って中の筋を食うときも量は少なそうだ。
邪魔なズボンを引きずり下ろすと、そこだけ小さいが確かなふくらみを示して尻から腿が目を惹いた。このへんなら多少は肉にありつけそうだ。俺はそこにも噛み付いた。
花京院の緑に光った体は煽情的で美しかった。そうやって抵抗すればするほど相手を煽ることになるのになぜ気がつかないのだろう。淡い緑に照らされて色の白さがひときわ強調される。生き餌の花京院は美しい生贄だった。
豹は屠った相手の内臓からまず食べる。俺は花京院をひっくり返し、腹のあたりに噛み付こうとしてやめた。全力抵抗していた花京院の、それもきっちり起き上がっている。しかもいつになく激しい昂りを示して、先端はすっかり濡れていた。透明な液体がこぼれ落ちている。
思わず顔を見ると、花京院は目をそらした。片手で目元を覆い、隠したいかのようにそれに向かって手を伸ばした。その手に掌を乗せて、花京院のそれに手を押し付けた。驚いたように腰が跳ねるのをかまわずに、掴んだ手をこすりつけて刺激を与える。俺に強いられているとはいえ、自分の手にダイレクトに当たるその感触から逃げようとして花京院が起き上がって俺を振り払おうとする。俺は斜めに捻れた花京院の腰を片手で抑えて、俺自身を花京院の中にねじこんだ。
途端に喉をのけぞらせて花京院が動きを止める。強張った体に構わずに無理矢理に押し入ったが、記憶にあるほどひどい抵抗はなく、何度か腰を打ち付けると根元まで進めることができた。足で花京院の下肢を開き、腰を動かしながら律動に合わせて花京院の前を刺激する。
自分の手で与えられるその刺激のせいか、花京院は真っ赤に染まった顔を俯けたまま顔を起こさない。後ろからは耳元と頬のあたりしか見えない。口を少し開いて素早い呼吸を繰り返している。
俺は豹だから喋らない。花京院は喋る余裕を失くしている。
全身に朱が飛んで、あちこち痣だらけの細い体に、俺は欲望を穿ち続けた。花京院が切れ切れにこぼす細い声が俺を煽る。ついに手の中に花京院が射精した。俺の手にまであふれて流れてくる白濁した液体を、俺はぺろりと舐め取った。猫だから綺麗好きだ。花京院の掌も口元に運び、隅々まで何度も舐めて清掃した。細い指を含んで舌で舐めて綺麗にした。
花京院の体の光は消えて、もう身動きすらしない。その腰を抱えて四つん這いにさせると俺は圧し掛かって挿入を繰り返した。花京院の首筋を噛む。猫は番う間ずっと雄が雌の首を噛む。逃げ出さないようにそこを噛めば大人しくなるポイントを噛む。うっすらと血の滲んだ首筋を見て俺は口を離した。花京院はもう逃げられないだろう。その細い腰を掴んで思い切り腰を使った。がくがくと揺れる体が何度も崩れる。俺を支えきれずにぐったりと動かない花京院と繋がったまま、俺は壁際に彼を押し付けて、床の上で動きを速めた。
かすれた声を断続的にもらしていた花京院の中に、俺は思いの丈を注ぎ込んだ。冷たい体の中でそこだけ熱く、激しく締め付けてくるそこに。
猫の声で一声唸ると、俺は両手足で獲物の残骸を抱え込み、体を床に倒した。
花京院を腕に抱いて、激しい交情の余韻に体が震え出すほどの快感をまだ味わいながら、俺は柔らかい頭髪に顔をうずめて何度も頬擦りしていた。このまま絞め殺して食べてしまえたらどんなにいいだろう。腹を食い破り内臓をぶちまけて、花京院の内部に潜り込み手当たり次第に犯してはその肉も骨も喰らい尽くしてしまえたら。本気でそうしたかった。残さずに、この髪も、爪も、すべて食ってひとつになってしまいたかった。
血の色の似合う肌を引き裂いて粉々にして。永遠に俺だけのものにして。動かない花京院の全身を撫で回し、俺はまだ豹の頭で飢えた舌を這わせていた。
そうだ、飢えだ。花京院を感じるとき、俺の中には飢えが育つ。根を張ったそれがどうしようもなく俺を動かし、抱いても抱いても、もっともっと、と声を張るのだ。
どうすればひとつになれる。どうすれば花京院とひとつになれる。
俺にはわからない。このように抱いたところで終わりは来る。蹂躙し、噛み千切り、飲み込んだところで花京院は俺のものにはならないだろう。何度犯してもその都度、凛然と立ち上がる花京院には俺の痕跡さえ残すことができない。俺に何をされても花京院は花京院のままで、変えることはできないのだろう。
滅茶苦茶に乱暴された花京院ではなく、傷付いたのは彼を痛めつけた俺のほうなのだ。いつだってそうだ。花京院に手を出して乱暴する度に、俺が傷付く。少しずつ損なわれるのは俺のほうなのだ。
すべてを差し出して、この世の何にも変えがたく愛していると示しても、花京院がそれをどう思うのかは左右できない。俺には操作不可能だ。
愛している、愛している。心の底から愛している。おまえを壊してしまうほど、殺して喰ってしまいたいほど愛している。
そんな愛し方しかできない俺を、おまえは愛し返してくれるのだろうか。こんな形でしか示せない俺の愛を、おまえは受け取ってくれるのだろうか。
傷付いた体をさらして動かない花京院の頬に涙が伝っている。それよりもなお激しく、俺は涙を抑えることが出来ずにいた。雨のように涙がこぼれる。いとしさと、後悔と、激しい飢えとが俺を不安にさせて体を震えさせる。
抱きしめて、座った膝に抱え込んで正面から花京院を見た。真っ青な顔で目を閉じている。奇妙に静かな表情で、それだけに痛々しかった。理不尽に苛められた子どものような顔をして花京院は動かない。
その頬を舐めて、指でなぞった。
睫が震えて、花京院の目が開く。
どんな宝石よりも俺には価値のある、美しい薄い茶色の瞳が俺を見上げた。
まばたきをして俺を見ると、盛大に溜息をつく。俺はぺろりとまぶたを舐めた。
花京院は細い指で、俺の首にまだ巻きついていたリネンを黙ってほどいた。汗を吸って重たくなったそれを床にはらりと落として、俺の背に腕を回した。
「……花京院」
「ぼくはやっぱり写真で見ているだけでいい。肉食獣はこりごりだ」
花京院の薄い背が小刻みに震えていた。泣いているのだ。
黒豹から人間に戻った俺は何も言えなくて、黙って強く抱きしめた。
作者様のお言葉とお礼→★