眠るには、頭の芯が興奮しすぎていた。
かといって、部屋でじっとしていると、余計なことを考えてしまいそうだった。
松本が自分の部屋を出たのは、そんな消極的な理由に寄るものだったため、 いざ部屋に灯した明かりを落として闇に身を浸すと、漠然とした不安感が胸を満たした。
たかが夜に外をふらつくだけだというのに、草履に足を下ろすことすら少し躊躇する。
くだらない。
松本は舌打ちして、いつもの自分を取り戻そうとした。
どうして今更、どこにも行き場がないだなんて、一瞬でも思ってしまったのだろう?


夜の街は、見慣れた昼の街とは似て非なるものに見える。
松本は、初めて瀞霊廷に入ったときのことをくっきりと思い出す。
あのとき、この街の余りの美しさに息を呑んだものだった。
建物は整然としていて、行き交う人々は凛としていて、嘘のように完璧で。
……だからこそ平然とこの街を歩けるようになるまでには、それなりの時間が必要だった。
隙を見せぬように胸を張りながらも、何かに怯えていた。
ここは私の居場所じゃない。
そう思いながらも、元の場所には戻りたくはなかった。ただただ、どこにも行けない 不安感と寂寥感が、常に胸中で彷徨っていた。
それでも、同じ地を彼も踏んでいると考えるだけで、何となく気が楽になったものだ。
――でも、今はあいつのことを考えなくても大丈夫。
見知ったはずの、でもまるで知らないように見える地へと、 恐る恐る足を踏み出しながら、松本は意味もなく胸を張り、浮かびそうになった 顔をかき消そうとする。
もう、1人で立てるのだ。誰も必要ない。


静まり返った世界を掻き乱さぬよう、その中に体を馴染ませるよう意識しながら、 ゆっくりと歩く。
地に足を下ろすごとに、少しずつではあるが松本は世界に受け入れられていくような気がした。
1人でも大丈夫。こうしてうまく溶け込んでいける。
「何してるんねや?」
だから、不意に聞き慣れた声が耳を打ったとき、乱菊はそれを幻聴だと思った。
こんな夜中に誰かに出会うことなどないはずなのだ。
しかも彼に。
……何よりも先に松本が感じたのは、怒りだった。
背筋に添って差し込んだばかりの虚勢が撓んでしまいそうになり、 月光を浴びて輝く彼の色素の薄い髪を、松本は無言で睨む。
「こんな時間に」
しかし、松本の努力などまるで気づいていない無神経な目の前の人影は そう言葉を続けた。
「ギン……」
「危ないやろ」
たっぷりと松本と距離を保った位置で立ち止まった市丸は 心持ち顔を背けて、囁くような声で呟いた。
「平気よ」
松本もまた顔を背けるために、天を仰ぐ。
途端、クレーターまでも目に鮮やかな月の光が目を焼いた。
どうして、満月なの。
松本は内心で舌打ちし、月を睨みすえる。
今日が新月だったら、お互いの表情が暴かれることなく過ごせたはずだった。
しかし、煌々と白い光を放つ月の下では、隠し立てなど何もできなくなる。
「送ってくわ」
「大丈夫よ。それに、もう少し散歩したいの」
「じゃあ、僕も行く」
「来なくていい」
「僕も行きたいんやから、ええやろ」
どこか怒ったような口調で市丸は呟き、さっさと十番隊の隊舎とも、 三番隊の隊舎とも別の方向に歩き出した。
行きたいのはそっちじゃない。
そう思ったが、松本は結局、勝手知ったる風に悠々と闇を泳ぐ市丸の背を追った。


彼の背をこんなにじっくり眺めるのは、何年ぶりだろう。
たぶん正確な時間など思い出せぬほど遠い昔。
なぜなら、最後に見た彼の背中は、これほどまで高い位置になかった。
身長は必要以上に伸びたというのに、隊長格ともなればそれなりに 裕福な生活をしているはずなのに、彼の背は不健康なまでに細く、 松本は切なくなる。
そして、彼の腰を我が物顔で占領する斬魄刀が、その感情を増幅する。
彼はきっと、松本と出会う前に、何かを、もしくは誰かを斬ってきたのだろう。
この夜中に、酒の匂い一つ漂わせない死神と出会う理由など、それ以外思いつかない。
隊長にまで出世した彼は、隊を統べる者として昼も夜もなく死神という職を 全うせねばならないのだ。
当たり前のことなのに、彼の背ばかり高い割には餓えていた昔とたいして変わりばえのない 肉のない体を見つめているうちに違和感が松本を包む。
――もう少しあなたは満たされるべきじゃないの。
昔とひとつも変わらない白すぎる肌の色と、不健康なまでに痩せたその体は、 今の市丸の身分にはひとつもそぐわない。
「三番隊はどう?」
「どうって言われてもなあ」
振り向きもせず、市丸は肩を竦めた。
「十番隊とたいして変わらないんちゃう?」
本当は、そんな当たり障りのないことを聞きたいわけではなかったのだ。
……そうじゃないの。
そう言いかけた声は半ばで潰え、松本は力なく唇を噛む。
「そう」
代わりに発した虚ろな返答は、しかしなかなか空気と溶け合わぬまま辺りを漂い続けた。


白々とした月の光を浴びながら、互いに数歩の距離を保ったまま黙々と歩く。
なかなか、帰ろうと言い出せないまま、足の疲労感が歩いた距離を、それに要した時間を、 切々と訴える。
次第にだるくなっていく脹脛を剥ぎ取ってしまいたい衝動に、松本は駆られる。
時を感じさせないでほしかった。
このまま、ずっとこうして歩いていたい。
しかし、脹脛の痛みを無視したところで、徐々に西へと傾いていく月の動きは 阻みようがなく、明らかに一歩一歩、朝は近づいているのだった。
数歩前を歩く市丸は、一度も振り向こうともしない。
しかし、松本の歩くスピードが落ちると、自らのペースも落とし、 松本がペースを上げれば、それに応じて足早になる。
数歩の距離を保持しようとする彼の慮りが、ひどく不快だった。
恐ろしいほどの洞察力を持つ彼は、恐らく並んで歩きたくないと思っている松本の意を汲んでいるに違いなく、 しかし、松本の本心からは遠くかけ離れた配慮をしている。
「ねえ、疲れてるんじゃないの?」
寧ろ彼のそんな不必要な優しさに苛立つあまり、声が尖る。
「帰って構わないんだけど」
「僕もちょうど散歩したかったんや。ええお月さんが出てるしな」
松本の苛立ちを丸め込もうとでもするかのように市丸の返答は穏やかだった。
「帰りたかったら、言うて。送ってくさかい」
「……まだ、帰る気はないわ」
「ならええけど」
だから、そうじゃない。
そんな当たり障りのない、誰とでもできるようなつまらない会話を彼だけはしたくはない。
だったら、いっそ、自分の前から消えてほしい。今すぐに。
……がくがくと足が震え出し、一歩を踏み出すことすら難儀した松本は、ついに立ち止まった。
相変わらず市丸は松本から数歩離れた足を止め、振り返る。
「ねえ」
「何?」
「別に私に付き合うことないのよ。適当に切り上げて帰るつもりだし。 疲れてるんでしょ?早く帰りなさいよ」
「疲れてへんよ」
「嘘!」
不意に涙が零れそうになって、松本は両の掌で顔を覆い、思わず大声を上げた。
「疲れてないわけないじゃない!早く帰りなさいよ。お願いだから帰ってよ!」
「なんやの?突然」
ふと、ひんやりとした感触が両の手首を包み込んだ。それはじわじわと熱を帯び、 松本の体温と溶け合った。
彼の声が自分の側で聞こえる、と気づいた瞬間に、松本は涙腺が緩むのを抑えられなかった。
「なんであなた、あのとき私を助けたりしたの」
掌で顔面を隠したまま呟くと、掌越しに市丸が息を飲む音が聞こえた。
「いっそのこと、最初からほっといてくれればよかったのに。そうすれば……」
今まで押し込めてきた言葉が、反乱を起こした瞬間だった。
「乱菊」
「ごめん」
市丸が何かを言いかけたが、松本はそれを阻むように謝った。
今は、市丸にどんな言葉もかけてほしくなかった。
何を言われても、すべて言い訳に聞こえてしまいそうだ。
……そのとき、白い光が肩に降りかかる感触を、松本は確かに感じた。
やっぱり、今日が満月でよかったのかもしれない。
両手で顔を覆ったまま、松本は少しだけ笑う。
今、市丸が何を考えているのか、それは空の上で白い光を放つ月だけが知っている。
その冷たくも柔らかい光に触れていれば、何もわからないながらも、今は十分な気がした。
「……そろそろ、帰りましょう。疲れたわ」
鼻を啜り、零れ落ちてしまった数滴の涙をどう誤魔化そうか松本は思案しながら呟く。
「そうやね」
魚のようにしなやかに松本から身を離し、市丸は月を見上げた。
「明日、もし遅刻したら、ギンに奢ってもらうことにするわ」
そう言いながら、松本はゆっくりと顔を上げる。
「うわ、こいつ、金の話しよった。折角の散歩が台無しや」
そろそろと視線を彼の首筋に沿って持ち上げていくと、月を見上げる彼の顔は、 微かに笑みを湛えていた。
それだけで今は十分だ。
松本は再びそう考え、市丸に追い越すために大股で一歩、足を踏み出した。









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