自分の中に生温かいものへの不快感が常にある。
例えば、この海だ。
水のようにただ冷たいだけでなく、どこか温もりめいたものを感じさせるこの液体。
いや、これは既に液体ではない。一個の独立した生命体に違いない。
だからこそ、人々は海を訪れ、喚起され、回帰したいと願うのだろう。
雄大な体を持つ、慈愛に満ちたこの温みの中へと。
そう、だからこそ、藍染は海が嫌いなのだった。
……波打ち際で手を差し入れる藍染の目の前を、ふと、白く細い足首が横切った。
冷たい白さに塗り潰された肌と細すぎるが故に鋭い印象を与える骨格を持つ足首が駆けると、陽気さよりも陰気さの方が先に立つ。
彼女を縦横無尽に犯しているように見えるからかもしれない。
撓り、くねり、曲がる。
だが、その動きは、藍染の目にどこか艶かしく映り、彼の足首から視線を外せなくなる。
「君が楽しそうでよかったよ」
……彼に悟られる前に、彼の足首から少しでも逸らしたかった藍染は機械的に口を動かすことで、彼の足首にある磁場から視線を引き剥がさんとしたが、どうしてもうまくいかなかった。
「楽しそう?」
彼の足首が動きを止めた。
振り返られたら、彼の足首に魅入られていることがバレてしまうと戦々恐々としたが、彼の足首の腱が藍染に向かった状態で静止したので、 藍染は思わず安堵の吐息を漏らしてしまう。
「海なんか大嫌いですよ。ベタベタして不愉快極まりない」
素直な嫌悪を口にした彼は、荒々しい仕草で何度か海の水を蹴り飛ばしたのち、藍染へと歩み寄る。
大海原は、彼の足で一部を切り取られ、散々にされた挙句、太陽の光をたっぷりと吸わされ、力を失って落下した。
同じく、一瞬、彼の足首が視界から外れることで、その魔力に魅入られていた藍染は解放され、容易に彼の顔を見上げることができた。
「やっと見てくれはった」
……しゃがみこんでいる藍染を間近に見下ろす彼の表情は、逆光のせいで窺えない。
彼の声にはたっぷりの笑いのエッセンスを含まれていたが、内声部にどこか不穏な響きがあった。
彼の安穏を破った理由など、藍染にはひとつしか思いつけない。
――気づかれたのか。
藍染の背筋に寒気が降下した。
思わず身を起こした藍染が改めて市丸の表情を覗き見たときには、既に市丸は喉元にまとっていた不穏の空気を呼気という形で大気に逃してしまっていた。
「藍染さんこそ」
殊更、ゆったりと水平線に視線を投げることで、彼はさり気なく穏やかな横顔を藍染に見せつける。
「不快なんやろ?海が」
……今日は珍しく穏やかな1日で、だからこそ、本来なら叶わないような、隊長と副隊長が同時に半日の休みを取るという思い切った行動ができたのだった。
海へ行こうと言い出したのは、市丸だった。
忙しい日々のせいで視野狭窄の気味のある自分たちが、わずか半日の休みの有意義な過ごし方を考えたとき、隊舎から程よく遠いが故に遠出した感が出るという理由で、なんとなく提案されたのだと思っていた藍染は、市丸が行きたいのならかまわないと思って、彼についてきたのだったのだが。
「確かにそうだけど、だったら、なぜ海なんだ?他に、いくらでも行くところはあったように思うけれど」
「一緒だからです」
己の生理的嫌悪と藍染の理屈的嫌悪を強引に一緒くたにして、彼はにっこりと笑う。
こういう形でしか交じり合えない自分たちに、それでも何某かの共通項を作りたいのか。
だから、海だったのかと藍染は納得する。
「僕は、あなたの子供っぽい嫌悪が好きなんです」
「それは、僕が子供っぽいって言いたいだけなのかな?」
「まあ、それもありますけど」
市丸はいたずらっぽく笑ってみせる。
「僕は、不快感こそが、すべての感情で最も尊いものやないかと、常々思うとるんです」
自分の内心を語ることを意図的に忌避する傾向にある市丸の独白は、実に珍しい。
少しからかってみたい気もしたが、それ以上に続きが気になった藍染は、黙って耳を傾ける。
「嫌悪の衝動こそが現状を打破し得るんだと、そう思わはりませんか?」
だが、彼の言葉は先に続かず、藍染に問いかける形で終わってしまった。
この自分に決定的なことを言わせようという意図だろうと藍染は邪推する。
「確かにそうかもしれないな。現状に満足してしまっている者には改革なんて発想は起こらないからね」
そうはさせるかと思った藍染がさわりだけで留めると、市丸は真面目な顔で首肯する。
「そして、その衝動は、一見、子供っぽいものであればあるほど、破壊力を増すんやないかと僕は思うんです」
ただ、藍染の同意が欲しかっただけらしい市丸は嬉しげな素振りをしてみせ、端から疑ってかかったことを藍染は申し訳なく思う。
――それにしても。
『ベタベタして不愉快極まりない』。
無邪気な嫌悪としか思えなかったあの発言こそ、彼の思想が明確化したものだったのか。
ならば、今まで戯言として聞き流してきた彼の数々の無垢極まりない発言にこそ、彼の本音が眠っていたのかもしれない。
彼が本音を披瀝しない理由は、深刻ぶった理屈めいた発言が彼の耳に装飾的に響くからなのだろう。
直感的に聞こえる言葉にこそ本音があると捉えている彼が『ベタベタして不愉快極まりない』と口にするとき感じる不快と、海の生温くすべてを受け入れる感じが不快な自分の間には、実は差異などないのではないか?
「だから、あなたの嫌悪が好きなんです」
市丸は再び、同じ言を繰る。
「…………」
なんとも言いようがなく曖昧に黙る藍染を見つめていた市丸は、ふと薄い肩を竦めた。
「愛の告白のつもりやってんけど、伝わらへんかったか」
「さすがに、わからなかったかな」
『本当に?』と尋ね返したいところをぐっと堪え、藍染は笑ってみせる。
彼の本音が直球なのは、対藍染以外でと但し書きがつくことを、既に藍染は気づいていた。
でなければ、これまでの彼の意味深な行動の理由がすべて、自分に愛があるが故と誤解してしまいそうになるからだ。
彼の思い人は別にいる。誰かは知らないが、それはわかる。
「そないなこと、ないはずやのにな」
……だが、すべてを切り裂くような白い肌を持ち、すべてを切り裂くような痩せぎすな骨格を持ち、生温い関係性を拒絶する彼とともにあれば、現状を打破できるような気がして胸を高鳴らせた。









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