彼の悲しみに感応したのが、そもそもの間違いだったのだ。
 彼の幼馴染も、彼の副官も、感じ取れなかった彼の悲しみ。
 彼自身はまったくうまく隠し通しているらしいそれを、藍染だけがまざまざと感じとれた。
 彼の悲しみに官能を覚えたのが、そもそもの間違いだったのだ。
 蓋を開けてみれば、彼の悲しみが派生した原因こそが、藍染だっただけに過ぎなかった。
 幼馴染や副官には徹底的に押し隠す悲しみを、彼は藍染を見るときだけ、少しだけ露わにすることを自分に許しているように見え、自分に心を許しているためだと誤解していた。
 計算高い彼は、自分の憎しみが藍染を養分に育っていることをアピールするためだけに、わざと少しだけ漏出させていたに過ぎなかったのだ。
 孤独であった藍染は彼の疑似餌にみごと食らいついてしまった。
 他人から薫る悲しみなんて、結局、自分本位にいかようにも判断できる。
 自分の悲しみは所詮、自分で引き受けるしかないのだと気づいたときには、すでに彼を愛していた。
 彼のアピールは実を結んだが、まさか藍染の恋愛感情をも釣りあげるとは思いもよらなかったのだろう。
 愛していると告げるたび、彼は戸惑っているように見えた。
 しかし、彼にとってはこの上ないは好期であったはずだ。
 愛に目を晦まされている藍染の寝首をかくチャンスなど、いくらでも転がっていたはずだ。
 それでも、彼は手を下さなかった。
 それは、彼の愛の何よりの証左ではなかったか?
「でも、僕は愛してなかった」
 それでも、彼は頑なに己の愛を否定する。
「あなたのことを切り刻む夢を、毎日見ていたんですよ、僕は」
 彼は薄ら笑いを浮かべ、毎夜、執拗に繰り返す。
「夢くらい見せてくれてもいいだろう?」
 彼の執拗な責めに耐え切れず、藍染は思わず、そう漏らす。
「夢くらい?」
 大仰に肩を竦め、彼は溜息をつく。
「今、僕は言ったはずや。毎夜、あなたを切り刻む夢を見たと。ねえ、藍染さん? 僕には安らぎの場なんかなかった。あなたにも、今なら、それがわかるはず」
「わかるよ、よくわかる」
 藍染はそう答える。
「私は君を殺した」
 言葉にはえぐみがあり、吐き出す際、藍染は思わず咳き込んだ。
「だが、君は私の妄想のはずだ。妄想であれば、私に優しくしてくれたっていいはずだろう?」
「そうやって、好きな形に僕を規定しはることがあなたの愛ですか」
 妄想のはずなのに、市丸は毒々しい返答を吐き出す。
「あなたは結局、自分しか愛してへんかった。僕のどっかに自分を投影しはってただけや。 湖に映った自分に恋して、湖に飛び込んだ、ナルキッソスよろしく、あなたは自分の悲しみと僕の悲しみが同じだと思いたかったんやろ?」
 華奢な腕を伸ばし、市丸は藍染へとにじり寄る。
「湖へようこそ」
 市丸の唇が藍染の唇間近に近づいた瞬間、市丸は笑いを含んだ声でそう言った。
 思わず、突き出した唇は彼の唇が触れたはずなのに、何の感触も藍染は感じられなかった。
 自分の想像力の限界を感じ取り、藍染は唇を噛む。
 ……もっと彼と沿いたかった。その願望は暴走し、夜毎に市丸がやってくるようになった。
 視界を覆われているからこそできる妄想に浮き足立っていられたのは最初だけだった。
 致命傷を与えながらも、黒崎一護の到来によって、彼の死を見届けなかったことをいいことに、 囚われ、視界を奪われた瞬間から、専ら妄想の力で、勝手きままに、彼に望む言葉を言わせてきた。
しかし、妄想の市丸はいつしか、藍染をじわじわと責め立てるようになった。
 それは自分の罪悪感か。それは彼の残留思念か。
 なんであれ、彼は死しても尚、藍染を受け入れることはない。
 それでも、毎夜の彼の到来を待ち望んでしまうようになった。
 彼は夜毎に蘇り、藍染を罵るために会いに来る。
 そうやって、死したあとも彼を利用する。自分の精神の均衡を保つためだけに。
 彼が知ったら、それこそ嘲笑うことだろう。


 あくる日、藍染の自殺を阻止するための猿轡を忘れていたらしい番人が藍染に猿轡を噛ませた。


 なぜか、それ以降、彼が藍染の許に訪れることはなかった。
 しかし、彼の来訪が途絶えることなど、ありえるわけがない。
 彼の言葉を封じるようにして、彼を従わせてきたのだ。
 彼が藍染に対して言いたいことなど、山のようにあるはずだ。
 一度の訪問などで、彼がすべてを言い尽くしているはずがない。
 ……そう思った藍染はふと、総毛立つ。
 彼はもう既に復讐を終えてしまったのではないか?
 いや、ただ一度の来訪だけで終わるだけで彼が自分に対しての復讐を終えるわけがない。
 それだけのことを自分は彼にしてきたのだから、何度でも何度でも、彼は我が許に訪れ、呪詛を唱え続けるべきなのだ。


   それから、何日、何事もなく過ごしてきただろう?
 視界を奪われているせいで、カウントの仕方さえ、よくわからない。
 ただ、わかっていることといえば、彼はついぞ訪れることはないということだけだ。
「それでも、愛していたんだよ」
 暗闇に閉ざされた視界の向こうと死の世界とが繋がっていることを期待し、藍染は独りごちる。
「愛なんて、結局は、自慰行為とさほど変わらないのかもしれない。けれど、苦しい気持ちは今だってあるんだ。 君がいない今だって」
 視界のない世界には虚無しかない。それでも、藍染は言葉を紡ぐ。
 そうするしか、自分も実際に存在していることを確定できないからだ。
「勾留された今ならわかる。君の妥協こそ、君の愛だった。頼むから、もう一度、蘇って、私を批判してくれ」



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