彼のいない閨に1人、身を横たえた藍染の目の前にあるのは正方形だった。 整然と並ぶ真四角を親しみとともに見上げていたこともあったのに、今は苛立ちしか覚えない。 この天井を見つめながら、1人、睡魔を待てというのか。 ともすれば舌打ちを零しそうになる我が身を堪え、藍染は整然と正方形が並ぶ天井を睨み据える。 今までの行き違いを、愛故の喧嘩だと捉えるほうが暴力的すぎるような気がしてきた。 行き違いとは感覚の違いであり、生活の違いであり、個性の違いであり、それを積み重なることで人は別離を思いつくのだから。 愛しいという気持ちのみですべての怒りがクリアになる技法がもしもあるのなら、是非とも獲得したいものだと藍染は思う。 彼と自分の生きてきた道筋はあまりに違いすぎる。 だからこそ、彼の道筋があまりにも美しく目に映ったからこそ、彼に憧れ、彼を愛した。 それでも、現実は、生活は常に現前にあり続ける。 愛が現実を吸い込んだのか、現実が愛を取り込んだのか、彼を包んでいたはずの眩さはいつしか消え去ってしまった。 だが、彼は存在する。夢でもない、幻でもなく、藍染の「恋人」として。 恋愛漫画的に言えばハッピーエンドと形容されるような状況だ。 しかし、その現状こそが藍染を苦しめる。 ハッピーの先にある今は、いったい何と名づけられるのだろう? 彼は今日も帰ってこないことが、藍染を不安にさせる。 彼から自由を奪うことは、彼の魅力を損なうことと同義であることは十二分に承知しているのに、 愛という言葉が持つ重みを彼の足首に巻きつけることで藍染が知らない彼の行動を阻みたいと思ってしまう。 いっそ、彼への思いを愛だと規定しなければよかったのかもしれない。 愛とは重さだ。愛とは負担だ。 それを理解できない彼こそが間違っているのに、彼を真正面から糾弾できない自分は、 それだけ彼を愛しているのだと言わねばならない一方で、 彼がそれだけ自分を愛していないのだと言わねばならない。 互いに苦しむことなく、気が向いたときだけ、上っ面な恋を囀る。 そのくらいの曖昧な感情を抱いていられれば、自分も彼も幸福に生きていられたのかもしれない。 それが、ただのモラトリアムに過ぎなくとも、限界まで引き伸ばしていれば、 もうしばらく、彼の傍らで楽しく愉快に生きていられたはずだった。 彼のいない今、彼の体を腕に抱けさえすれば収まるくらいの日常の下らない憤りが、己の体内で沸騰し、 残滓が気泡と化し空中に舞っていくようだ。 きっと、彼が帰宅したのち、自分は寝言を模して、恨み言を繰ることだろう。 吐き出したい苛立ちは体内でとぐろを巻き続け、いつだって放出先を求めている。 怒りはしぶとく臓腑で蟠って、吐き出さないかぎり、溜まり続けるだけであるし、 彼を傷つけたくはないのに、彼を傷つける文句を探している自分を止められないのだ。 彼に対する不満や憤りを自分本位に吐き出し、寝言という言い訳が前提となる以上、彼は言い訳を口にすることはないだろう。 だが、彼は藍染の寝言が嘘であることを見抜き、苛立ちを覚え、苛立ちを孕むことだろう。 その代わり、藍染の行動と同じ行動を彼はとり、同じ轍を彼は踏むのだ。 そうして互いに相容れることのない応酬は、いつか憎悪に成り代わるだろう。 吉良との打ち合わせだと、出て行くときに彼は言っていた。 その言葉自体には嘘はなさそうだったが、もはや、自分は事実などはどうでもよいのだ。 今まで発散できないまま、雪のように体内に積もった怒りが、肌を突き破らんばかりに暴れ出している現状が耐えられなかっただけなのだ。 理性が呆気なく吹き飛ぶほどの怒りが芽生え、藍染はその瞬間、ほっとする自分を発見したのだ。 あまりにも隙のない彼の隙を突き、彼の優位に立ちたかった。 自分の内に日々沸騰していた怒りを暴発させるための正当性を得たかった。 彼があまりにも自由で勝手で、あまりにも幸せそのものに見えた。 もちろん、彼が幼い頃は辛い日々を過ごしてきたことは知っている。 そして、自分が彼を飢えに苦しむことのない、幸福な日々を送らせてやりたいと願ったことも嘘ではない。 だが、彼が自分を排除した世界で幸福そうな姿を見せると、藍染は憤りを覚えてしまう。 ……そうした発想自体、ひどく不健全な発想であることくらいは、重々わかっている。 しかし、彼の世界は自分を元に成り立っているのだと自惚れたかった。 お気楽そうに見えるのは、彼のポーズであることは知っているが、それでも、あまりにのん気な顔をされると、 どうしても、彼の上司である自分は苛立ってしかたないのだ。 いや、違う。彼が自分なしでも楽しく過ごしてしまえることに劣等感を覚えるのだ。 儚げだった幼子の彼と、今や自分の立場は逆転している。 どうして、こんなことになってしまったのか、今となってはわからない。 彼が、自分が、穏やかな日々さえ送れさえすれば、あとはどうでもいいと思ったこともあったのに。 天井が歪んでいればよかったのにと藍染は思う。 そうすれば、それを発端にして、燻るこの居たたまれなさを炎と化せられたかもしれないのに。 この曖昧さを、どうして伝えられるだろう? ……夜半すぎ、足音を忍ばせて帰宅した彼が、程なく藍染が寝入る閨に忍び込む。 冷え切っているはずなのに、なぜか、温みが棚引いているその体を間近に感じながら、 藍染は身じろぎさえできずにいる。 彼は自分たちの間柄を愛と言った。 それを信じ、自分たちはここまでに至ったはずだった。 だが、その規定が自分たちを引き裂くのであれば、一体、何を信じるべきだろう? |