頭上では眩いくらいに太陽の光が降り注いでいるのに、雨が地を叩く音がする。 俗に言う天気雨かも知れないと藍染は思い、ふと何かを思い出しそうになった。 そういえば、晴れているのに、ひっきりなしに雨が降りしきる光景を誰かと見たことがあるような気がする。 記憶を喚起しようと目を閉じると、なぜか、瞼の裏では市丸が頻りとこちらを気にする素振りを繰り返していて、記憶の遡行を阻害する。 些か、市丸の残像が目障りに思い始めた頃、藍染はひとつの記憶を掘り返した。 ああ、そうか、だから市丸だったのか。 藍染は合点がいくと同時に、市丸の残した怨念にも似た執念を思い、慄然とした。 ……あのとき、天気雨は珍しいから、断じて執務室などに篭っているべきではないと、市丸は頑強に言い張って、譲らなかったのだった。 明日が提出期限の書類を山ほど抱えていた五番隊隊長と副隊長には、散策に費やせる時間など捻出できるはずもなかったのだが、まるで自分こそが陽射しの化身であるとでも勘違いしてしまったらしい市丸は、雨が陽光に紛れてさらさらと降り出したことを知るや否や、そわそわと落ち着かなくなった。 侘び寂びなどをまったく解さない割りに、市丸は天気や季節の変化には敏感に反応した。 気温や天候の変化が、そのまま、己の食事を確保できるか否かにかかってくるような生活が当たり前だった彼にとって、それは自然な反応なのだろう。 藍染はそんな風に、シリアスに市丸の行動を捉えていたのだが、黄色く染まったイチョウの葉っぱを隊首室に持ち込み、「これ、1枚だけ落ちてたんです。初落葉です」と胸を張る姿を見て以降、彼が環境の変化をただ単に楽しんでいるだけなのだと知って、脱力したものだった。 彼の行動を意味深に捉えるのは、もしかしたら藍染の悪い癖だったのかもしれない。 だが、幼い彼が覚えていた痛みを知らないということは、藍染に劣等感を与えていた。 痛みを伴う少年時代を過ごした市丸と、幸福なる少年時代をただただ享受していた藍染とでは、年齢こそ藍染の方が上ではあるが、経験という点においては、圧倒的に市丸の方が優っていた。 市丸が副隊長に組み込まれた際、藍染がいの一番に感じたのは恐怖だった。 本当の痛みを知らないお前が隊長の任に着くのかと、市丸に罵られることが怖かった。 自分は自分なりに、痛みを覚えている人々を救うべく奔走したという自負はある。 だが、市丸は所詮貴族の子息たる自分が思いもよらないような痛みを体内に抱え込んで、成長してきたに違いない。 その想像こそが、藍染を脅かす最たるものであった。 「君のような人を救いたい」などと大層な野望を口にした昔の自分は、あまりに若かった。 あの頃の自分と今の自分は違う。 その差異によって、市丸に失望されることを、藍染はなによりも恐れていたのだった。 市丸が少なくとも、表向きはなんら変わることなく、目の前に現れたことによって。 イチョウの葉っぱ1枚で一喜一憂できる彼のことだ、天気雨が降り出したとしたら、裸で外に飛び出し、喜びの舞でも踊りだしかねない。 だから、あくまで五番隊の体面のために、藍染はあえて口を噤んだのだった。 「藍染さん、天気雨ですよ」 だが、藍染の内心の葛藤など知らぬ市丸は、まるで自分が天気雨を起こしたかのように誇らしげな口調で口火を切った。 「ああ、みたいだね」 穏やかな口調で相槌を打ちつつも、藍染はそれを聞き流す。 「ああ、みたいだね?」 既に気が急いているせいか、市丸の声が早くも尖る。 「何悠長なこと言ってはるんです?天気雨ですよ、天気雨!」 「確かにそうだけど、この書類が……」 市丸が言うほど天気雨の重要性を見出せない藍染は、言葉を濁しながらも、それとなく五番隊が今置かれている状況を示す。 「天気雨は珍しいんやから、こんなとこに篭ってるべきやないんです」 だが、藍染の婉曲な意志表示をまったく感じ取っていない市丸は、机を叩かんばかりの勢いでそう力説する。 「それはわかるけど、でもね、ギン……」 「虹も見られるかもわかりませんよ」 「いや、確かに虹は見たい気持ちはわかるけどね……」 「ソウル・ソサエティで天気雨が見られるんは、5年に1回ですよ!」 誰が取ったとも知れない、うさんくさい統計を市丸は持ち出し、藍染に暗に外出を迫る。 「だったら、ギン、君1人で行ってきたらいい。僕は書類が気になるから」 「……あなたと一緒やないと」 市丸が呟いた言葉に、藍染は色めく。 もしかしたら、彼は自分とともに。 「あなたと一緒やないと、僕だけサボってるみたいやないですか」 「天気雨を浴びると5年は死なへんらしいですよ」 戸外へと続く扉に手をかけながら、市丸は藍染を振り返った。 「……それは君の創作だろう?」 さすがにげんなりして、藍染がそう指摘すると、市丸はにやにやと笑う。 「ようわかりましたな」 「……わからないわけがないだろう」 「でも、あんな陰気な部屋ばっかりに篭ってはったら、陰気な思考ばっかしてまいますよ。今の藍染さんに必要なんは新鮮な大気と息抜きやと、僕、常々思うてるんです」 「君は息抜きしすぎだと思うけどね」 「手厳しいですな、藍染さんは」 藍染が投げつけた言葉もどこ吹く風で市丸はさらりと受け流し、扉を押し開けた。 その瞬間、目の前に広がった世界の有様に、藍染は思わず、息を飲む。 輝かしくも清浄な世界が、藍染の視界いっぱいに広がっていた。 雨にけぶる陽光はいつもの鋭さを和らがせ、陽光に照らされた雨はいつもの陰鬱さを和らがせ、丸みを帯びた、柔らかな世界がそこにはあった。 「理屈なんか吹っ飛びますやろ?」 そう振り返る市丸の表情も、いつもよりも柔らかい色彩を帯びている。 だが、藍染は一瞬であれ、目を奪われそうになった自分を市丸に気づかれたくなくて、咳払いでごまかした。 自分が求めている世界が、こんな穏やかで優しいものであってはならないという専ら自戒のために。 「確かに」 なるべく誠意を尽くした返答をしたつもりであったが、市丸は失望をありありと顔に浮かべた。 「でも、まあ、ありがとう」 慌てて、藍染は市丸に礼を言う。 「確かに、いい気分転換だ」 急いで言葉を繰る藍染を眺め、老成したように重々しくゆっくりと、市丸は首を振る。 「……今はなんとも思わなくても、かまへん」 「えっ?」 「いつか、重要な局面で、この景色を思い出してくれれば、それでええんです」 「どういう意味?」 「この景色は、藍染さんにとって、きれいやと思わはります?」 藍染の質問には答えず、市丸は更に問いを重ねてくる。 「思うよ」 言いたいことを暗に匂わせようとする市丸の態度に腹を立てつつも、なんとなく場の雰囲気に即して、素直に藍染が答えると、市丸は嬉しそうに笑った。 ついさっき、市丸の態度に苛立っていたはずなのに、その笑みを見た瞬間、藍染は怒りを忘れた。 「変な光景やと思うけど、でも、きれいやな」 「ああ」 淡い陽光に透ける市丸の耳殻と、ゆったりと刻まれる雨のリズムと、淡く白い世界と、濃厚な緑の匂い。 『いつか、重要な局面で、この景色を思い出してくれれば、それでええんです』 言霊のように反復する市丸の言葉を遮るのは、パタパタと一定の間隔でリズムを刻む雨音だった。 ……間断なく雨は音を刻む。雨音に比例するように、視界は霞がかっていく。 『いつか、重要な局面で、この景色を思い出してくれれば、それでええんです』 市丸の言葉は、まるでキーワードのごとく、藍染の脳裏を揺さぶる。 あの光景を見せることで、市丸は藍染に世界の美しさを指し示そうとしたのだ。 辛苦を舐める生を送ってきた彼が辛苦を忘れる手段として使ってきた天候や季節の移り変わりという自然という名の劇場を、市丸は藍染に体験させることで藍染の暴走を落ち着かせようとしたのだろう。 金を使った娯楽というものをまるで知らない彼にとっては、外へ飛び出して、世界を眺めることだけが、癒しであったのだ。 今、思うと、彼はこういう形で、藍染の行くべき方向を傾けようと苦心していたのかもしれない。 藍染が自分に覚える劣等感は、有名無実なものだと、暗に訴えようとしていたのかもしれない。 無邪気に天気を気にしているように見えたあのときの彼は、一方で、来るべきカストロフィを正確に予知し、復讐のためにこっそり牙を研いでいたのだから。 彼の言うとおり、もっと身近なもので心が慰められれば、この雨音は聞かずに済んだのかもしれない。 それでも、自分の選択は間違っていなかったと藍染は思う。 天気雨のような、珍しい気象に頼るより、もっと大切なものを手放すことの方が耐えられなかったから、彼を斬ってまでして、今、ここにいるのだ。 この世界は変えるべきだ。 彼のような幼子がこれ以上、悲しむことがないように。 天気雨がどんなに降り注ごうとも。自分の視界がどんなに曇ろうとも。 『天気雨を浴びると5年は死なへんらしいですよ』 「君の言葉は嘘ばかりだ……」 藍染はそう独りごち、己が作った血だまりの中にどっと倒れこんだ。 |