ともすれば、過去へと記憶が引きずられそうになることが不可思議だった。
目の前にいる「敵」を倒す未来ばかりを妄想し、これまで生きてきたはずだったのに。
次いで、市丸はそんな自分を嘲るために笑みを浮かべようとして、頬の肉がうまく動かないことに気づいた。
笑みを繰ることは得意中の得意であったはずなのだが、なぜだろう?
おかしいなと市丸は首を傾げようとして、うまく首を動かせない自分の肉体をいぶかしむ。
腕のあたりが妙に熱く重い。
ゆっくりとそれを動かそうとして、市丸は既に自らの所有から切り離されていることに気づく。
背後からひたりひたりと忍び寄る妖しい死の足音を、市丸はそのとき耳にしたような気がして、総毛立った。
まだ、死にたくはない。
まだ、やるべきことがあるのだ。
――そして。
市丸はぼやけ始めた視界に逆らうように、必死に目を凝らす。
あなたに言わなければならないことがあるのだ。


まだ幼子に過ぎなかった市丸が藍染を倒すと最初に決めたとき、彼は強大な敵だった。
だが、彼に近づくにつれ、彼の人柄に触れるにつれ、彼の内心を知るにつれ、市丸の中で、彼の存在は矮小化し、ただの心の優しい死神に成り下がった。
死神ばかりが特権を貪ることを許されるソウル・ソサエティの現状や、死神の探知能力のせいで無残に貪り食われてしまう現世の魂や、くじ運がないばかりに低下層の居住区に住むことを強いられ、飢えてしまった霊力を持つ幼子のことを、彼は誰よりも憂えていた。
ソウル・ソサエティ生まれで何不自由なく育ってきた、いわゆる「いいところの子」であるというのに、彼は現在の間違った世界を変えるために、末端で生活する人間の実情を訴えるべく、四十六室に宛てて、せっせと手紙をしたためていたらしい。
だが、四十六室からの返答はついぞなく、彼はやがて、四十六室、ひいては、ソウル・ソサエティそのものに絶望したらしい。
そんな折り、崩玉という物質が浦原の手により生み出されたことを知った彼は、それならばソウル・ソサエティを転覆できると判断し、思い悩んだ末に、行動することを決意したらしい。
「らしい」というのは、それらはすべて彼の述懐にすぎず、市丸が目撃していない彼の行動は所詮、彼自身の言次第でいくらでも美化し得るからだ。
それでも、彼が自分のことのように義憤を覚えていること、そして、そのために彼が世界を変革するという決意に至ったことくらい、面従背背で藍染と接していた市丸でもよくわかった。
実際、彼は暇さえあれば市丸を伴い、せっせと流魂街を訪れた。
特に最下層近辺の地区には足繁く通い、お得意の人当たりのいい笑みでたちまち住人の信頼を獲得すると、同じく下層地区出身の市丸にとっては、聞くだけ無駄としか思えないような愚痴まで、彼は神妙な顔で傾聴した。
部下によって処理された書類も、まるで新規の書類のような按配で目を通し、救われ損ねた魂がいないか、虚が復活する可能性はないかを執拗に確認し続けた。
そのせいで、五番隊は残業が多すぎるとクレームが来たことさえある。
それらの行動は崩玉を創生するためのポーズに過ぎなかったとは、だが、市丸には思えなかった。
本当に真摯に、彼のできる範囲で痛みを負う人々を減らそうと苦心し続けた彼は、その裏で悪食な崩玉のために、無辜な人々の力を奪い、時には命をも奪うのだ。
彼の思う正しい世界を成就させるための必要悪として、彼は無為な殺戮を肯定し、その咎をその背に折り重ねていった。
市丸があの子のために藍染の前に膝を折り、藍染の言うままに彼の無為な殺戮の願いを叶えていくことと、まるで違いはない。
市丸にとっての指針があの子であるように、藍染の指針が崩玉だっただけなのだ。
たぶん、自分たちは似ているのだろうと市丸は思う。
そして、こうも思うのだ。
もし、何かが違っていれば、自分たちは本当に親しい友人として、心を許し合うことだってできたのではないだろうか、と。
だが、彼があの子から奪ったものがあるという事実があるかぎり、それは不可能だ。
市丸にとって、それくらい、あの子がすべてだった。
あの子が体内に孕んだ痛みは、もしかしたら全世界の痛みに比べれば些細なものなのかもしれない。
だが、あの子が流した一筋の涙が、正しい世界を構築するための足場となってしまっているかぎり、市丸は藍染の構築せんとしている世界を容認するわけにはいかないのだ。
あの子がたゆまぬ笑顔を浮かべ続けられる世界を構築することが自分の第一義であるかぎり、彼と市丸の道は隔たってしかるべきだった。
あの頃と同じくらいまで、憎しみを高めなければ。
来る日のため、刃のごとく、研ぎ澄ませていなければ。
なのに、なぜ、彼の後姿を見るにつけ、共感にも似た感情が湧き上がってきてしまうのだろう?
彼への憎しみがあまりに強すぎて、混乱しているのだと、強引に結論付けることで、どうにか自分の中の整合性を保たんと市丸は苦悶した。
だが、あまりに強引過ぎる結論付けをしているという自覚を最初から持ってしまっている時点で、市丸は彼への共感を無意識に肯定してしまっているともいえた。
なぜなら、自分はひどく偏りすぎているのではないだろうかという疑問が市丸の脳裏から絶えず離れなかったからだ。
あの子は果たして、自分だけが笑っていられる世界を是とするとは思えなかったし、その世界が、彼女の知らない、だが市丸が葬った何十人とも知れぬ死神の血によって構成されていると知ったとき、彼女がそれを喜ぶとは思えなかったからだ。
彼女の幸せが永続的に続く未来を与えてあげたいと思っただけなのに、それは嘘ではないはずなのに、どこかで何かが歪み、意図から遠く離れてしまったような気がする。
だが、どう修正すれば、正道にたどり着けるのか、市丸にはわからなかった。
そんなとき、藍染の耳殻から首筋へのラインを見ると市丸は安心した。
何も語らず、何も変わらない彼の表情や所作とは裏腹に、耳殻や項で赤く色づいているできものや、日を追うごとに鋭利な形に痩せ削れていく顎の線は如実に彼の衰えを感じ取ることができたからだ。
彼も惑い、悩み、何かを捨て、何かを諦めて、彼の道を歩いていることを唯一物語るそれらを、唯一、つぶさに目撃できたのは、彼の数歩後ろを常に歩く市丸だけだった。
自らを異形化してまでして、彼が描いた未来図について、もっときちんと聞いておけばよかったと今になって市丸は後悔する。
あの子を傷つけた彼を許す未来など存在しない以上、無駄に心を揺らしたくなくて、彼の言葉を聞き流してしまっていたけれど、彼の言葉を聞いてしまったが最後、自分を支えていた根本が瓦解するような気がして、思わず、彼から遠ざかってしまったけれど、彼が自らの肉体という代償を支払ってまでして作ろうとした未来が、どんな未来なのか、せめて、もっと深く知っていれば、もしかしたら、何かが変わっていたのかもしれない。
あの子の涙を藍染が彼の道に染み込ませさえいなければ、いくらでも滅私して、彼のために最後まで奔走しただろうに。他意を抱くことなく、彼の野望に自分のすべてを捧げることさえ、なずまなかったのに。
藍染が築いた足場の内に、あの子の涙が一筋であれ染み込んでいるかぎり、決して藍染と自分の道は交わることはないのだ。
市丸は悲哀さえ覚えながら、傲然と顔を上げ死神たちを否定し続ける藍染の項や顎の線や耳殻に現れる憔悴のあとを、じっと見つめ続けていたのだった。


憎み続けることと同じくらい、愛し続けることは難しい。
あの子の笑顔を間近で見たのは、いつだったのかさえ忘れてしまった。
本当はそばにいたかったのに、今となってはすべてが遠い。
そして、今、自分の目の前で立ち塞がっているのは、彼だけだった。
だからこそ、あなたに言わなければならないことがあるのだ。


どうやら、愛と憎は、時に双生児のごとく似たような形をとることがあるらしいと、そのとき初めて、市丸は気づいたが、どんなに目を凝らしても、彼の顔は判別できなかった。












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