市丸はゆっくりと目を覚ました。 先ほどまで見ていた、細部の記憶はないが幸福だったことだけはわかる夢が、額の裏辺りで未だ凝っている。 乾いていた喉を宥めるために市丸は立ち上がり、水で喉を潤したが、その間ももう一度、眠ることばかり考えていた。 あの夢の続きを見たい。 焦るあまり、コップの傾け方に失敗した市丸は、自分の口に許容量を越えた水を流し込んでしまい、顎や首筋や衣服をしとどに濡らしてしまった。 途端、覚えた、現実のひんやりとした肌触りに、市丸は総毛立つ。 覚醒が間近にまでにじり寄っているような気配に襲われながらも、市丸は必死で体内に蟠る眠りの泡を掻き集め、胸元に抱きしめながら、眠っていた己の形を象った布団に沿うて、再び身を横たえた。 同じ形を取ればきっと同じ夢が見られる。 そう信じ、市丸はしばらく身じろぎひとつせず息を潜めていたが、眠りの精が再び舞い降りてくる感覚はついぞ訪れなかった。 だんだん、身動きできないことが苦痛になってくる。 首筋のあたりが痒くてたまらないような気がしてくる。 つい先ほど起き出したときは感じなかったのに、今更のように尿意を催してくる。 市丸は諦め、身を起こした。 ……そう、つまりは、現実に戻る時間なのだ。 数日の間、曇天に拘束されていた空は久方ぶりに解放され、覆うものは何一つなく、青い裸体を晒している。 清々しいはずのこの天気を、しかし市丸は睨め据える。 この鮮やかさが窓の隙間から滑り込み、まるで海岸の岩を削る荒波のように、徐々に市丸を侵食し、覚醒へと至らせた元凶なのだ。 お別れを言わなければ。 実際、彼はよくやった。 些か、よくやりすぎたくらいだ。 彼を、もっとずっと不出来な男だと市丸は定義していた。 簡単に弱音を吐き、簡単に頭を垂れ、なかったことにしてほしいと懇願してくる男に違いないと。 いっそ彼が市丸の想像どおりの情けない男であれば、最後まで一緒にいることができたのにと、市丸は苦く思う。 だが、市丸の予想は大きく外れ、彼が市丸に言葉で何かを訴えてくることは、つゆぞなかった。 殺すべき人物を無言で殺したあとには必ず、市丸の閨に侵入し、冷えすぎた指先を市丸の脇や腿に押し付け、震えながら眠りに落ちようとする。 彼のぐらつきを自分好みの方向へと傾けさせるには、自分の性的な魅力が必要なのだと思っていたから、あえて市丸は彼を誘い、堕落させんとした。 しかしながら、彼は震えながら市丸の背を抱きしめるだけで、市丸の誘い水にのることはあっても、率先して性行為を行おうとはしないことが、市丸を混乱させた。 セックスなしの夜が最長記録を更新するたびに、市丸は彼が不意に何か仰々しいものを見返りとして要求してくるのではないかと戦いた。 ――彼は市丸が与える快楽を首輪代わりに首に巻きつけ、鷲使いに使われる鷲のように必死に獲物を捕獲しているのだ。 彼が市丸にとって都合のいい存在であり続ける最も自然な理由を、市丸にはそのくらいしか思いつかなかったし、逆にそれ以外の考えが浮かばなかった。 男も女も性的な快楽からは決して逃れ得ないというのが、市丸が己の人生から獲得した認識であったし、実際、市丸が出会ってきた者は誰1人として、そんな市丸の定理から逸脱することはなかった。 だが、違ったのだ、彼だけは。 彼が市丸の媚に焚き付けられて欲情し、恙無くセックスまで持ち込むことができてしまったとき、市丸の内にはやっと対価を支払えたという安堵感とともに、 決まって、侘しさにも似た感情が発泡する。 今まで己の感情すべて、完璧に制御下においていた市丸は、その感情の不純物を直視できなかった。 自分は彼に何かを期待したくなってきてしまっている。 持ち前の冷静さから市丸はそう判断したが、理由を追求するより、何も気づかなかったふりをする選択肢を選んだ。 それを受け入れてしまったら、自分の世界が180度変わってしまうことは明確だったし、そうなったら早かれ遅かれ、恥と罪に耐え切れず、自死するより他なくなると予めわかっているからだ。 ……己の欲望の赴くがままに市丸を扱うだけだった連中と彼はまるで違う存在なのであれば、辛酸を舐めていたあの頃に出会えていればよかった。 ずっと求めていた存在に、今、このタイミングで出会ってしまったことこそが、この巡り合いが過ちであった証左なのだろう。 あまりの皮肉に、市丸は1人、ひっそりと笑う。 今より少しだけ若かった頃、もう少し人を信じることができれば、もう少し優しさに縋ることができれば、きっと何かが変わっていたはずだし、 そうすれば、彼に寄り添いながらも何事もなく笑っていられる未来の可能性だって、僅かながらも拓けていたかもしれない。 だが、既に硬直してしまっている市丸の世界には、彼を捨て去るか、彼を懐柔するかの二択しか残されていない。 市丸の思惑に操られるがままに無私の局地で刀を振るった彼には、まだ余地がある。 だが、市丸には自分の行為すべてを肯定する以外に道はない。 とどのつまり、彼とともに救われる未来を、市丸はとうに無くしてしまっているのだった。 ……市丸は首を伸ばし、天を仰ぐ。 このタイミングで拓けているのが、この蒼天なのだとしたら、 鷲使いとしては鷲使いらしく、鷲がまだ現実と折り合える力があるうちに解放すべきなのだろう。 だとすれば、今日は絶好の別離日和だった。 ふと、市丸の目に入ったのは、いつぞやに藍染から買ってもらった納豆饅頭の包み紙だった。 いや、「ふと」という言い方は、本当の意味において正しくはない。 なぜなら、市丸は予め目の届く位置にその包み紙を置いておいたし、ここ数ヶ月、薄っぺらいセロハン紙が誰かに捨てられていないか、微風に吹き飛ばされていないか、何気ない素振りで何度も何度も確認していたから。 そして、今この瞬間も、いかにもそんなものの存在すら忘れていたような態を装いつつ、そのセロハンに視線を送る自分に対し、演技めいたうそ寒さを感じていたから。 彼との別の繋がりがあったという証を「偶然に」目撃することによって、決意をまた先延ばしにしようという児戯に他ならない。 彼が自分を策略家と評する理由が、なんとなくわかったような気がした。 「あなたがそう言うのなら、そうなんでしょうな」 セロハンを取り上げながら、市丸は独りごちる。 ……きっと彼は、最初こそ傷つき激高するだろうが、やがて別離を受け入れるだろう。 夢魔に取り付かれていたも同然の彼が覚醒し、現実を取り戻したとき、こう思うに違いない。 市丸との出会いは間違いだったのだと。 そして、自分ばかりが引きずり、苦悶し、彼を焦がれたところで、彼はどこかの令嬢と手と手を取り合い、かつて自分に向けた笑み以上に満ち足りた笑みを彼女に振りまいてしまうのだろう。 そんなのは許したくないと思うのに、そんな充足感に満ちた笑みを彼が湛えられるのであれば、受け入れたいと思ってしまう自分がいる。 今の自分が彼に齎し得る笑みの限界を知ってしまっている今、遺書のように、彼のこれ以上の幸福を願ったところで、罰は与えられまい。 神と呼ばれる存在がもしも本当にあるのであれば、寧ろ、是が非でも受け入れるべきなのだ。 これが、自分の最後の願いなのだから。 もはや、市丸が彼へと手渡し得るのは整った結末だけだ。 ならば、できるだけ取り繕い、できるだけ彼が心地よく旅立てるよう、心を配って、表情を作ろう。 今や、自分ができることなど限られている。 セロハンをごみ箱に放り込み、それが着地するまでの僅かな間だけ、市丸は本心を表すことを自分に許す。 ――ここまで欲することになるならば、最初から彼を選ばなかったのに。 |