見られていることは承知していた。 隊長の腹心という地位についていながら、当の隊長の信頼を勝ち得ていないことに気づいていた彼は最初から、藍染が彼を疑いの目で見てくる可能性を想定していたからだ。 寧ろ、彼が完璧に己を律し、その場に立っていることができていたのは、彼へと吹き付ける藍染の視線の中に混じっていた不信感の細かな粒に常日頃から身を晒していたおかげとも言えた。 だが、それでも、視線が絡み合ったその瞬間、無様に足がふらつきそうになる。 あまりにもあからさまな動揺を示しそうになった己に、彼は内心で舌打ちした。 これは栄養失調のせいだと願望に即した断定を脳裏で繰り返しながらも、そんな自分に彼はどこかうそ寒さを覚える。 本当は、自分は単に弱っているだけだと知っている。 一人では抱えきれない行為の重さに呻吟し、ともすれば、誰かに縋らんとしているだけであることも。 しかし、そんな弱い自分を受け入れたら、すべてが終わってしまうこともまた、彼は知ってしまっているのだった。 自分の弱さを受け入れてしまったら最後、自分を支えている芯は粉々に砕け散ってしまうだろう。 消えていった者たちの苦鳴を聞き流し、自分が救われるためだけに藍染にすべての行為を告解してしまうだろう。 その際、藍染がいかに苛烈に、彼の行為を口汚く罵り、呪詛に満ちた言葉で彼を糾弾したとしても、 失われた者たちがもう二度と生むことのできない関係性が自分と藍染との間に生まれてしまうことは事実だった。例え、それが憎しみであったとしても。 更に、藍染が刑法を司る者に自分の身柄を渡してしまえば、 生きている者の世界の中でのみ有効である法というシステムに則り、生きている者だけで行う審議によって、彼の所業は沙汰されるだろう。 死んだ者の意志は、そこには一切、含まれることはない。 彼の振る舞いの重みは、彼の生んだ悲しみは、今生きている、単なる第三者が彼に与える罰などでは、とても相殺できるものではないというのに。 ……彼は藍染から目を背ける。 己の内部で鍛冶師のように己の所為が生んだ業を鋭く鍛え、内部から己を抉っていく――そんな罰の自給自足こそが、爆破する以外の無為の時に己がすべきことなのだということを、彼はよくわかっていた。 人の生死を操る。そう決めた以上、できるだけ孤独に、なるたけ己の人としての意義を奪い、異形のものとして生きるべきなのだということも。 だが、それでも、悪魔の囁きに等しき甘言が、ともすれば、彼の脳裏に浮かんでしまう。 目の前の上司に縋ってしまえ。 ……藍染を再び見つめていることに気づいた彼は、慌てて視線を降下させた。 爆弾が砕いた土壁の微細な破片を足裏で撫でると、尖った感触がするのに、その異物感も気づけば心を慰撫する効果へと成り代わっていく。 あっという間に現実に慣れてしまう柔軟な心と体を彼は憎んだが、憎しみの先には虚無しか残っていないことに気づき、呆然とする。 そして、取るべき行動を見失った彼は、絶望的な気持ちで空を仰ぐことしかできない自分自身に絶望する。 その平等な青さは彼の心を安らがせたが、安らいでいる自分自身に気づいた彼は、半ば途方に暮れながら、再び視線を藍染へと戻す。 ……視界の中では、藍染が部下たちに囲まれていた。 藍染は何かひと言言われるたびに、怒りに顔を歪めたり、悲しみに顔を歪めたりしていた。 望みは着々と叶っているはずなのに、未だに藍染が彼岸にいるような錯覚を彼は覚える。 彼と自分は、今や平等であるはずなのに、平等感はつゆぞ訪れることはない。 それどころか、彼と自分の間がますます遠のいていくようだ。 彼は焦燥感に囚われる。 やはり、足りないのか、爆破が? ならば、今日もどこかを爆破しなくては。そう、今度はもっと、人が多い場所を狙って。 ……やがて、彼は幽鬼のような足取りで、藍染へと一歩を踏み出す。 事件の輪郭が曖昧で、犯人の目星すらついてはいない今、藍染が求めているのは、何より情報であるはずだった。 ならば、彼の部下たる自分はそれを齎す義務がある。 彼本人が関わった事件ならば尚のこと、今の内に嘘を言って、藍染の認識を撹乱させてしまえば、捕まる可能性はずっと低くなるはずだからだ。 未だ理性は研ぎ澄まされている。自分はまだ冷静だ。何も問題はない。 藍染の前まで歩み寄るだけの力を、藍染の前で演じるだけの力を、そして次なる行為を行うために必要なだけの力を溜めるために、彼は自分を褒めそやし、一時的に自分を甘やかせることを許す。 だが、食を断っているせいか、基本的に浮遊感に支配された彼の足場は時折、雲でも踏んでいるかのように柔らかく、安定性を欠く。 彼の視界は時折、激しく歪んだり、真っ白に染まったりし、彼の脳裏は時折、何の言葉も浮かばない。 そして、彼はまるで生ける屍のように、ただ無為にその場に立ち竦むことしかできなくなる。 彼はひどく疲れていた。 暖かい布団に包まって、優しい言葉をかけられながら、穏やかに眠りにつきたかった。 不快な夢を見て何度も目を覚ますこともなく、部屋の寒々しさに思わず己を抱きしめることもなく、 朝まで健やかに貪欲に睡眠を貪りたかった。 それが自分に許されないのであれば、せめて、一度、数分でもいいから一から物事を考え直す時間を得たかった。 だが、そんな芽をひとつひとつ、潰しながら歩いてきている自分の目の前は獣道以外の道は拓けていず、休息のための隙間などありはしない。 ……部下たちが離れたあとも、藍染は天を睥睨したまま、身じろぎひとつしなかった。 その石の如き不動な佇まいが、彼の目には眩く映る。 なぜ、こんなことになってしまったのだろう? 不意に彼は慟哭の衝動に駆られる。 彼の直轄の部下として登用された自分は、彼のように現実に根を下ろして生きることだってできたはずなのに、いったい、何が、どこで狂ってしまったのか? だが、それは最も考えてはならないことなのだと彼は頭を振り、脳裏に浮かんだ問いを踏み潰すように藍染の元へ歩み寄った。 彼が歩み寄っていることに気づいたらしい藍染もまた、厳めしい表情で、こちら側に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出している。 藍染へと一歩近づくたびに、彼は喜びにときめいたが、次の瞬間、ときめきの因子が処罰の可能性を見出してしまっているからだと気づき、改めて己の醜さに吐き気を覚えた。 「ここにいはったんですか、藍染さん」 内心の嵐を悟られないよう、落ち着いた口調を人工的に声帯からひり出す。 「ずっと探してたんですけど」 そう言葉を続けながら、彼は思い切って顔を上げ、藍染を見た。 その途端、常々、感じていた視線の内に含まれた不信の粒は、更なる大きさと硬度を持って、彼の皮膚を叩いた。 実体を持たないただの視線だというのに、彼が肉体的な痛みを覚えるほど強烈な猜疑を含んだ目つきだった。 「すまなかった」 謝罪の言葉を口にしたくせに、藍染の視線の中の粒ははますます大きく、ますます尖っていく。 今にも実体を持ち、彼の肌を切り裂いてしまいかねないほど、その視線は濃密だった。 「周辺の住人の話では、今のところ、目撃者はあらへんそうです」 「ここは長らく空家だったらしいから、仕方ないだろうね」 太陽の視線のもと、重い外套を脱ぎ捨てた旅人のように、すべての罪を藍染に告解し、擲つことができたらと彼は閃くように思った。 だが、その瞬間、彼は己の思惟に戦慄する。 無意識下であれ、一瞬でも、今までの行為を罪だと認識してしまった自分自身に彼は気づいたのだった。 罪を罪として受け入れかけた己を許せないという感情は、その瞬間、彼のすべてをなぎ倒さんとばかりに強く吹き荒れる。 だが、一方で彼は、その罪悪感はかねてから彼の内に結実し始めていた心の弱さが呼んだ亡霊のごときものであると知っていた。 本当はずっと願ってきたのだ。 圧倒的なまでに神聖なものの足元にひれ伏し、すべてを告解して許されたいと。 断罪され、贖罪し、新たな存在として蘇りたいと。 そんな存在がいたのなら、そもそも、彼はこんな無謀な計画を立てることはせず、大喜びでそのもののために我が身を投げ出したことだろう。 ……ともすれば跪きそうになる彼をぎりぎりの線で止めたのは、彼が常々抱えていた絶望に他ならなかった。 目的を保ち続けることに挫けそうになったからといって、手近にいたただの上司に、気軽に頭を下げて許しを請おうなど、ナンセンスだ。 気がつけば、自分を甘やかそうとしてしまう。気がつけば、自分が救われる道を模索せんとしてしまう。 それは、いったいなぜだ? 簡単なことだ。痛みが足りないだけだ。 薄く笑って、彼は皮膚を食い破るほど唇を噛み締める。痛みが、彼の内に燻る熾火を炎と化するように強く。 やがて耐え切れなくなったように、皮膚が破れる音がする。 鉄に似た味が舌に触れた瞬間、彼は安堵感に襲われた。 唐突に唇の皮を噛み破った部下を藍染は驚きの表情を浮かべたが、やにわに顔を引き締める。 「市丸」 凛然と自分の名を呼ぶ彼の声を聞いた瞬間、市丸は陶然とした。 何よりもまず、市丸の全身を貫いたのは、喜悦だった。 市丸にとっては、手始めに罪を告白するにはうってつけの最も身近な上司に過ぎなかった藍染は、そのストイックな響きを持つ声によって自らの地位を押し上げたのだった。 もしかしたら、彼ならば……。 ぼんやりと甘い妄想に身を浸しそうになった市丸は、はっと我に返り、 今更のように、唇を噛み破るという浅はかな行動をとった自分を呪った。 back / next
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