「本当にかまへんのですか?」
思いがけない言葉が藍染の背を叩いた。
普段の彼にしては細い声だったが、耳は敏感にそれを聞き取った。
「何が?」
変更するつもりはない。そんな意志を目に込めて振り向くと、市丸は珍しくたじろいだ。
「藍染さんがホンマは生きてるいうこと、明かしてしもうて……」
常日頃の彼らしくない含んだ態度は、藍染の眉を顰めさせる。
だが、同時に湧き上がる快感は抑えられなかった。
いつになく歯切れの悪い態度を取る彼の姿は、ひどく気持ちを穏やかにさせる。
「今更、何を言い出すんだ?もしも、このまま僕が死んでしまったことにしたら、僕も君もいったいどうなる?」
じわじわと足先まで満たされていく自信。その痺れるような熱の感覚は久しいものだった。
「それこそ、取り返しがつかないだろう」
「せやけど」
何かを躊躇うように目を伏せる市丸の姿を、優越感を込めて藍染は眺めやる。
「臆病風にでも吹かれたのか、ギン?」
「そないなつもりはないやないんですけど……」
市丸は言い淀んだが、意を決したように目を上げた。
「せやけど、藍染さん、この一歩を踏み出したら、二度と戻れへんことになりますよ」
「戻る?まだ、始まってさえいないのに、君はおかしなことを言うね」
「……結局、そうなんや」
視線をふらつかせ、市丸は泣き笑いのような表情を浮かべる。
「あなたは、リアルに考えてへん」
口調こそ柔らかいものではあったが、内容は紛れもなく糾弾だった。
「私はいつだって現実的に考えているつもりだよ」
吊り上りそうになる眦を宥めながら、藍染はできるかぎり、穏やかな声を出すよう声帯に命令したが、堪え切れなかった怒りの残滓が語尾に滲んだ。
彼のことだ、何かを企んで、意識的に弱々しい声を発し、意図的に悲しげな顔をしているに違いない。
そう考えた藍染は、気を引き締めて、彼の返答を待つ。
粛然と市丸は唇を引き結び、藍染の顔をじっと見つめていたが、やがてがくりと首を落とした。
「僕がいなくなったら、あなたはきっと、あなたが今まで耐えてきた一切合財は、変なことやったんやな、一時の気の迷いやったんやなって思わはるはずや」
やがて、市丸の口から聞き覚えのあるフレーズが飛び出し、藍染は思わず吹き出しそうになった。
行き先は明瞭に見えている。計画は順調に進んでいる。
設計した世界が矛盾と苦痛で満たされているとも知らずに、安全な場所に身を置き、安心と飽食で肥えた額を付けあって、密談を繰り返している彼らを一掃した今、この世界を転覆する以外道はない。
すべては明確で、迷うことなどあるはずもないのだ。
それなのに、嘆息を漏らす彼が、まるで生まれて初めて悲劇を読み、己を重ね合わせて愁嘆する思春期の少女のような言動が藍染にはおかしかった。
「まるで地獄の夫のような口ぶりだね」
堪えきれずに藍染がそう言うと、市丸の表情は落胆に翳った。
出典先をあっさり気づかれてしまって、居たたまれない気持ちでいるのだろう。藍染は今度こそにやにや笑いを止めずに、市丸の青ざめた顔色を鷹揚な気持ちで眺める。
「僕はええんです、最初から道はないんですから」
固形物を難儀しつつも吐瀉せんとする者のように、市丸は顔を顰めた。
「でも、あなたは違う。いくらでも可能性はあらはった。なのに、僕なんかに惑わされ、道を踏み外されはった」
……明日には自分の死体が、正確には斬魄刀が自分の形を模して死体の姿をとってくれるわけだが、それでも他人から見れば自分の死体が、吊り下げられることになっている。
元々の予定どおりであるそれが、藍染にとっては、喜びと怒りのシンボルになりそうだった。
斬魄刀の幻を見せるという能力のおかげで、自分自身が死体の真似をするという情けない姿を見せる必要はないものの、あまりに無様な自分の姿を衆目の元に晒すことは正直、不快だった。
惨めったらしい明日の自分の姿を想像したくないが故に、心を砕いて平静さを保っていた藍染にとっては、市丸の言は明日の自分の姿が「道を踏み外されはった」醜さが露わになるのだと婉曲に言われたように思え、苛立った。
「君なんかに惑わされた記憶はないよ」
「強がるのも、ええ加減にしてください。あなたは……」
「君は自分の影響力を過信しすぎているのではないかな?」
「罪悪感です、藍染さん。罪悪感はすべてをなぎ倒す」
市丸は笑った。必要以上に口角を上げるその笑みが、作り笑いであることを、しかし藍染は知っている。
なぜ、無理に笑う?なぜ、嘘をつこうとする?なぜ、惑わせる?
計画を成就させるために腹を括った、このタイミングで。
……蹌踉きながら、躊躇いながら歩いてきた先に、立ち塞がる一線。
ごく普通の道の延長のようでいて、越えたら最後、決して後戻りできない一線。
そうした類の線が目の前に引かれていることくらい、藍染も既に承知している。
だが、壮大すぎる計画を前にして、臆しない者がいるだろうか?
大多数の者が、恐怖と高揚とが入り混じった感情を抱えるのではないだろうか?
それでも、興奮に我を忘れたふりをしたり、酒で勢いをつけたり、何気ない日常が続いていると思い込んだりして、そうした一線を越えるのではないのか?
実際、明日、自分の見苦しい姿を見られるというつまらぬ事柄に拘泥することで現実から目を逸らし、何気なくその一線を踏み越えんとしていた藍染にとって、わざわざその存在を示唆する市丸の意図がわからない。
「本来、あなたは僕なんかに惑わされるような人やない。でも、弱きを助けたいと願っていたあなたは、一方で弱きを知らないという劣等感を抱いていた。僕はそんなあなたの弱さにつけこんだんです。今まで無意識的とはいえ、特権を貪っていたことを知ったあなたは、罪悪感に苛まれた。だから、あなたは僕に惑わされた」
黙り込んだ藍染から目線を背け、市丸は淡々と言う。
「僕は最初、あなたを最高の贄としか思うてなかった。護廷十三番隊の隊長にいずれなるだろうポテンシャルを秘めていたあなたならば、発言権も増していくあろうと踏んでいたから。先物買いをしたんですよ、僕は。あなたならば、いずれ立派な隊長になると。あなたの罪悪感を利用して、懐柔できるだろうと踏んでいた」
藍染は喉に真綿のようなものが押し込められたような気分だった。
ふわふわとした柔らかい毛羽立ったものに、くすぐったく、いがらっぽく苛まれるような感覚が不快で、藍染はえずきそうになる。
なるほど。
藍染はやっと、市丸の言葉の意味を正確に理解した。
……なるほど。
「君はそうやって僕を貶めるのか」
掠れた声で藍染がそう応じると、市丸は一瞬、心外だというように大きく目を見開いたが、やがて弱々しく首を振る。
「あなたをそないにしたのは僕のせいや。僕があなたを疑り深くしてしもうた」
やはり。
藍染は湧き出ずる苦々しい思いを表層に顕さないように苦心する。
いみじくも、無自覚に藍染が指摘したとおり、彼はやはり自分の影響力を過信しすぎているのだ。
「僕は君の影響下にはいない。少なくとも、僕だけは」
冷淡な口調で藍染は応じる。
「僕はあなたの弱みに付け込んだんや」
自虐的とも言える言葉を尚も繰る市丸を、藍染は痛ましいと思った。
ひたすらに計画の破綻を宣言することを期待しているらしい彼の意図に、だが乗るわけにはいかない。
なるべく尖った返答にするために、藍染は今までに怒りを覚えたことを思い出すことにする。
例えば、市丸を窮乏する世界に放り込んだ誰か。
例えば、市丸を蔑み、いたぶったあの男。
例えば、……この自分。
「私はこんな歪んだ世界を正したいんだ。偶然と運だけで誰かが苦しむような世界なんて真っ平だ。それは、私だけの義憤だ。君は関係ない」
想像力のおかげで、怒声を引き出せた。藍染は安堵を覚えつつも、ひどく苦い気持ちになる。
「あなたに義憤があるのは知ってます。それはもちろん、あなただけのものや。だけど、違うやろ、藍染さん?引くに引けなくなっただけやろ?」
だが、市丸は藍染の怒りに動じることはなかった。藍染は、市丸が戦き、口を噤むと踏んでいたのだが、予想が外れた。
それは、そのまま、どれだけ市丸が藍染に本心を隠していたかを示すバロメーターでもあった。
彼の本心の一端に触れたと思った数々の出来事は、すべて錯覚だったか。
藍染はひどく悲しい気分に陥る。
「君はなぜ、今このタイミングで、私の義憤に水を差すようなことを言うんだ?」
だが、口に出しては舌鋒鋭く藍染は市丸を非難する。
市丸は藍染の顔を見つめた。いや、寧ろ観察したと表現した方がしっくりくらい、まじまじと彼は藍染の表情を隈なく凝視した。
視線を逸らすわけにはいかなかった。藍染は高慢な表情を浮かべ、市丸を見つめ返す。
表情筋で傲慢な形を作ることは慣れっこだったから、藍染にはやすやすと一連の動作を行うことができた。
どうやらうまく騙されてくれたらしく、市丸の表情が徐々に曇っていく。
しかし、藍染のうちに、達成感は微塵も沸きあがらない。
この自分の本音に気づいてくれるのではないかという期待が打ち破られた喪失感と、一刻一刻足場を失っていくような焦燥感に襲われ、ひっそりと鳥肌が立っただけだった。
「この一歩がどれだけ重いものなのか、藍染さんはわかってへんからです」
市丸の声色だけは唯一、平静だったが、語尾が微かに掠れている。声だけは平静を保とうという並々ならぬ意志の一端が窺い知れた。
「あなたは知らんのです、こんな局面の一歩がどれだけの意味を持つか。もう二度と戻れないということが、どういうことか」
「知ってるよ」
堪えきれなくなった藍染は思わずそう呟き、取り繕うために二の句を繰る。
「いつだって、もう二度と戻れない時を過ごしているはずだよ、我々は」
なるべく平時的に柔軟的に聞こえるように口調を穏やかにしたつもりだったが、市丸は頑なに首を振った。
「そういうことやない。修正できる現実と、できない現実が、この世にはあるんです」
「違う。そういう日々を送っているんだ、常に我々は」
「あなたは何もわかってへん!」
市丸はそう叫んだ。まるで断末魔のように鋭く短い叫びだった。
「いや、私は十全にわかっているつもりだよ。そもそも、私は既に、四十六室を皆殺しにしただろう?君の捨て身の努力のおかげでね。その現実があるかぎり、僕を諫めることなどできないはずだよ、ギン」
これではまるで、あのときの再現だと藍染はぼんやりと思う。
あのとき、藍染のために肉体を擲った彼は、今度は藍染のために精神を擲とうとしている。
「君は傲慢だ」
藍染が駄目押しの一言を漏らすと、市丸は項垂れ、嘆息した。微かなその吐息は、しかし深い絶望感に彩られていた。
「……僕は何もわかってなかったんや」
しばらくの間、市丸の溜息が棚引くだけの沈黙がその場を支配していたが、やがて、市丸は掠れた声でそう呟いた。
「恵まれた生を享けながら、弱者に理解を示すあなたは、この世界において類稀なお人やったのに、僕はそれに気づかなかった。あなたは何も知らずに、そのままでおってくれさえすれば、それでよかったのに、僕はわかってへんかった」
「……君は自分を過剰に評価しすぎている」
口では市丸をそう嘲りつつも、藍染はいつしか奇妙な形に絡まってしまった彼と自分とを繋ぐ紐帯を正しい形に直しておかなかったことを、今更のように悔いた。
彼の肩を叩いて、「違う、君のせいじゃない」と言える関係性を築く機会はいくらでもあったのに、それを黙殺したのは自分だった。
……彼の自己評価は奇妙に歪んでいる。
不幸はすべて自分のせいだと思っている彼は、自分が不幸だと思う事象の原因に限って、すべて自分の内にあると思いたがる。
この誤った現実認識は、そのまま、彼の過去に直結している。
それは、救われることのない生活と連綿と続けてきた彼なりの自己防衛の術だったのだろう。
要するに、彼は少年時代から何ひとつ変われていないのだ。
そして、彼を救いたかったはずなのに、藍染は彼の歪みを取り除くどころか、彼をますます混迷の森へと追い込んでしまった。
義憤。
先ほどから何度も口にしたその単語の後味がひどく苦かったが、唾液とともに吐き出したいという欲望を、藍染は舌を噛んで必死で堪える。
そうだ、義憤など端からなかった。
彼が指摘したとおり、自分は彼に罪悪感と劣等感を持っていただけだ。
恵まれた世界で安穏と生きてきた自分は、四十六室となんら変わらない。それが疚しくてならなかった。
何より、彼がこの自分をそういう目で見ているであろうことが耐えがたかった。
彼と同じ位置に立ちたかった。彼と同じ目線で世界を語りたかった。彼を包む真摯な世界に関わることで、自分も真摯な人生を生きたと錯覚したかった。
違う、これは君のせいじゃない。
君が思っているほど、この自分は純真に計画を推進しようとしてはしない。
お願いだから、計画の発動を高尚な行為のように捉えないでほしい。
どうしようもなく単純で自分勝手な願望のために自分は動いたに過ぎないのだ。
だから、君は罪悪感に囚われる必要などないのだ。
「とにかく、明日は計画どおりに頼むよ」
……しかし、藍染が実際に口に出したのは、こんな愚もつかぬ言葉だけだった。
後ろめたさ故か、ぼろが出ることを恐れる故か、自分でもよくわからないまま、藍染は市丸から逃げるように踵を返す。
「藍染さん!」
市丸の呼びかけが藍染の背を叩いたが、それを弾き返すように藍染は無駄に背を反らし、大股で一歩を踏み出した。





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