不意に澄んだ歌声が耳を打ち、彼は我に返った。
虚ろな時に身を浸していたことに今更のように気づき、思わず舌打ちを零した彼の目に映ったのは、一人の少女だった。
みすぼらしい衣服に身を包んだ彼女は、右手を胸元でぎゅっと握り締めながら、か細いな喉から必死に旋律を生み出している。
彼女の足元には投げ銭用のブリキ缶が置かれているが、街行く人々は彼女を見向きもしない。
それどころか、悪童たちが笑いさざめきながら、紙屑を放り込む始末だ。
しかし、その都度、悲しげにそれを拾い上げ、握り締めると、彼女はもう一度頭から歌を歌い出す。
正直に言えば、彼女の歌声は、すばらしいものではなかった。
貧窮に喘ぎながら何か売るものを探した挙句、結局はこのくらいしか思いつけなかったのであろう。
だが、彼の聞いたことのないその歌は、ひどく美しいメロディーを持っていた。
彼女の歌に耳を傾けるうち、胸に過ぎった慟哭の衝動を、彼は無理矢理、元あった位置に押し込める。
今、泣き喚いてしまったら、何の意味もなくなってしまう。
罪の重みに押し拉がれるのは、すべてが終わってからだ。
死に行く者たちが、彼の死に償いを求めるのであれば、なるべく惨めに死に、 死に行く者たちが、彼の生に償いを求めるのであれば、 薪に身を横たえ、胆汁を舐めてでも生きようと誓ったのだ。
ここぞという時に目を閉じられなかった自分は、終結の時まで、今まで以上に克己的に生きるしかない。
もう二度と、甘えることなく、嘆くことなく、弱さに逃げ込むことなく、2人の愛おしむべき人間を殺した自覚を背負って生き続けなければならないのだ。
だが、封じたはずの自問自答が頭の片隅で始まる。柔らかく耳元を擽っていたメロディーが脆く崩れ落ちる。
もしかしたら、己が弱さを断ち切るために、2人の人間を殺したのではないか?
逃げ場所を無くしたいがために、彼らを殺害したのではないか?
そんな個人的な欲望のために、誰かの命を奪ったのではないか?
己への弾劾は何も生まない。己を傷つける言葉を吐けるのは、自分自身ではなく他者でしかないことを、自分はよく知っている。知っているはずなのに。
刹那、彼の身に、今いる場所も、行くべき場所も、したいと思っていたことも、しなければならないことも、すべてを耳穴から零れ落ちていくような錯覚が起き、彼は思わず耳を塞ぐ。
途端、脳が白くなり、次いで視界が白く染まっていく。
彼は徐々に重くなっていく頭を空へと掲げる自分をイメージしながら、ともすれば崩れ落ちそうになる膝に必死に力を込め、辛うじて立ち続けることに成功する。
……爆破を決意した日以来、意識的に食を断っている彼の体は、時折、こうした空白状態に支配される。
生前と比べれば、空腹を覚える頻度も下がり、多少の断食くらいでは死に至ることもなくなったとはいえ、このまま一欠片も食料を口にせずにいたら、霊力を持つ彼は、空腹感も覚えない一般人とは違い、遠い未来、恐らく餓死することになるはずだ。
とはいえ、彼は、食を絶つことで罪滅ぼしした気になるつもりもなければ、緩慢な自殺を行うつもりもなかった。
肉体を自分を滅するための静かな時限爆弾に仕立て上げさえすれば、彼や彼女の死と自分の死が同価値になると思っているわけでもなかった。
彼にとって餓死はあくまでタイムリミット、この期に及んで尚も決心がつかなかった場合の単なる保険に過ぎなかったのだから。
我意はやはり現前と彼のうちにある。先だって、彼や彼女たちの死に同調できなかったという事実は、そのまま、己の限界を否応なしに彼に突きつけた。
だが、名前すらも知れない誰かを犠牲にすることを決した時点で、己の死すらも目的のための道具として扱う。
「あの……」
傍らで、微かな声が聞こえ、彼は振り返る。
じっと彼を見上げていたのは、今しがたまで歌を歌っていた少女だった。
彼女はおずおずと両手を差し出した。
その薄い掌にのっていたのは、干からびかけた芋だった。
「お腹が空いていらっしゃるのでしょう?」
声帯をだいぶ酷使したらしい彼女の声は、僅かに掠れている。それでも、彼女は歌ではなく、この自分に声をかけることに、余力を使わんとしている。
先刻、封印したはずの慟哭が喉から迸りそうになったがどうにか寸前でそれをせき止め、彼は彼女に微笑みかけ、ごく短く謝意を口にする。
手渡された芋は、ずっしりとした質感をもって彼に自らの存在を訴えた。
その瞬間、彼の内に耐え難いほどの吐き気が湧き上がる。
絶叫しながら、手の中の干し芋を彼方へ放り投げてしまえれば、いっそ楽だっただろう。
だが、どうにか彼は堪え、きつく芋を握り締める。
……代わりに彼は自分の懐から持っている金をすべて引っ張り出し、彼女の掌に乗せると、彼女は驚いたように目を瞠る。
「こんなに受け取れません」
金は兌換の意志を持つ者が持つべきものだ。
すべての欲望を絶とうと願う自分にとって、その価値は寧ろ荷が重過ぎる。
彼は首を振り、彼女に背を向ける。
「あの……、すみません!」
彼の背を向けて彼女が叫んだが、彼は立ち止まらなかった。
他人の命を容易く削り取った罪滅ぼしにもなるまい。
だが、こうした些細な行為でひとつひとつ、俗世から自分を隔離しなければならない。
悲しみに殉じるというのは、とどのつまり、こういうことなのだ。
……彼女から遠く離れると、彼は手にしていた芋を、物乞いをする老婆に半ば強引に押し付け、再びを歩を進め始めた。








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