藍染がその霊絡に気づいたのは、本当に偶然だった。 その少年は、あばら家の土間の隅で、両手で脛を抱え、膝に顎を乗せた姿勢で座っていた。 そして、彼の視線の先には、うつ伏せに倒れた彼自身の死体が転がっている。 背中にある大きな刀傷が致命傷となったのだろうそれには、すでに蛆がわき、 周囲には虫が飛びかっている。 あまりにも凄惨な風景だった。 本来ならば、人間は死ぬとすぐ、死神の介錯の元、霊魂は流魂街に召されることになる。 死んだことが理解できなかったり、成仏を拒否したりした場合、虚化する前に、 死神が彼らを成仏させることになる、はずなのだ。 死体が腐るまで、彼がそこに留まり続けたというのは、報告書が円滑に回らなかったか、 その書類がどこかで失われたか、どこかの隊が見落としたか、それ以外の理由はない。 端的に言えば、自分たち死神の怠慢が原因なわけで、 何にしても、幼い彼にとっては、残酷このうえないことは間違いなかった。 「……初めまして」 藍染は内心の動揺を押し隠して、静かな口調で彼に挨拶した。 彼はしばらく無反応だったが、やがてふと顔を上げた。 「おっちゃん、今のって、僕に言うたの?」 「ああ、そうだよ」 ゆっくりとあばら家に足を踏み入れると、腐りかけた肉の匂いがぷんとした。 「じゃあ、おっちゃん、僕が見えるんやね」 彼は笑みを口元に刻んだ。それは、自分の死体のそばに座り、腐った自分の肉体を 見つめていたとは思えないほど、静謐な笑みだった。 「君を迎えにきたんだ」 本当は、彼に気がついたのはただの偶然に過ぎないのだが、藍染は嘘をついた。 「迎えに……」 噛み締めるように彼は呟いた。 「おっちゃん、もしかして、……様?」 そして、彼はふと耳慣れぬ人物名を口にした。 「……様?」 「お父ちゃんとお母ちゃんが言うてたんよ。死んだら、……様が神様の元に連れてってくれるって」 やっと合点がいったと同時に、藍染は彼の死の理由が、なんとなくだが、わかったような気がした。 そういえば、聞いたことがある。 現在、人間界ででひっそり信仰されている宗教の中には、預言者が神の子になるまでの 遍歴が経典となっているものがあるということを。 そして、その宗教は現在の日本では迫害の対象になっていると。 ということはつまり、彼はその宗教の信者の息子であったということだ。 恐らく彼はその犠牲となって、若すぎる死を迎えたのかもしれない。 「なあ、お父ちゃんとお母ちゃんのこと、ちゃんと天国に連れてってくれたん?」 彼は眉間に皺を寄せて、激しい不安を表現した。 「……僕は残念ながら神様じゃないから、君のお父さんとお母さんが、 天国に行けたかどうかは、わからない。すまない」 「じゃあ、おっちゃんは何なん?」 「僕は、死神だ」 「しにがみ?じゃあ、神様の一種なんやないの」 安心したように、彼はにっこりと笑った。 「……様は神様と友達やって、お母ちゃんが言うてた。僕は、ようわからないけど、 お母ちゃん、いっつも言うてたよ。……様は神様とお友達やから、ギンがええ子にしとったら、 ……様が神様のいる天国に連れていってくれるって。……様が忙しいから、おっちゃ……」 おっちゃんと言いかけて、彼は慌てた。 さすがに、神様にむかって、おっちゃんは失礼だと思ったのだろう。 「神様が来てくれはったんやな」 藍染は純真に自分を見つめる彼の視線が痛くて、目を逸らした。 彼が1人で成仏できなかった理由もまた、この瞬間、わかったような気がする。 待ち続けていたのだ、彼は、ずっと。自分を天国に連れて行ってくれるはずの男を。 何よりも苦しくつらかったであろう、かつて自分自身であった存在が、 腐りゆくさまを見つめながら、 両親に教えられた生前の教えを守り、悪いことをしないように膝を抱えて。 ……しかし、そんな彼に対してだからこそ、藍染は、自分が彼の期待する神を僭称することが どうしてもできなかった。 「……僕は君の言うような神ではないんだ。死神というのはただの呼称で、 君のいう神という存在には程遠い」 そう言いながら、自分の無力さに膝を折りたくなる。 何区にもわかれた流魂街。地区によって治安はバラバラだが、どの地区に流されるかは、 生前の善行は無関係だ。 瀞霊廷がきちんとバランスを保つことができるように、ただそれだけのために、 アトランダムに魂は振り分けられてしまうのだから。 彼の行き着く先が、彼にとって天国か地獄かなんて、それこそ神にしかわからない。 「じゃあ、悪魔なん?僕が悪いことばっかしとったから、 僕を地獄に連れていくんか?」 彼は、ひどく打ちひしがれたように肩を落とした。 「何か悪いことをしたの?」 そう尋ねる自分ほど醜い自分はない、と藍染は思った。 自分は期待しているのだ。彼が、何かひどい犯罪を犯していることを。 そうすれば、あまりにひどい地区に彼が行くことになっても、 罪悪感を覚えずに済むという、それだけの理由で。 「お母ちゃんの言うこと聞かへんで、ちっともお手伝いせえへんかった」 彼は、生前仲良くしていたらしい友人の名前を挙げた。 「……とね、遊んでばっかやったから、よう怒られた」 彼はあまりにもたわいない自らの罪を苦しげに藍染に告解し、 藍染は当然の帰結として、胸が痛くなるほどの慙愧の念に襲われた。 「……違うよ。君はこれから、天国でも地獄でもない、流魂街というところに行くんだ」 「るこんがい?なんや、そこ?いい所なん?それとも、悪い所?」 藍染は一瞬、言葉に詰まった。 「今、住んでいる世界と変わらない……と思う」 運命と偶然と弱肉強食が支配する、この世となんら変わらない世界。 違うことといえば、死ぬことがないくらいだ。 「そうなんや」 少しだけ残念そうな表情を見せたが、彼はゆっくりと立ち上がった。 「死んだら、もっとええ世界が待っとると思うてたけど、そうでもないんやね。 みんな、死んでもうたのに。ええ世界がある言うて、みんな、死んでもうたのに」 いい世界がある、そう信じて自ら命を絶っていく者たちの姿が、まざまざと、まるで、 実際に見てしまったかのように鮮やかに、藍染の瞼の裏に浮かんだ。 「……すまない」 藍染は、思わず彼に詫びた。 「本当にすまない」 「なんで、謝るん?」 不思議そうに、彼は藍染を見た。 「おっちゃんのせいやないんやろ?」 「…………」 そうだ、と言うために口を開いたものの、 絶対に自分のせいではない、と言える自信が藍染にはなかった。 選ばれし者が住まう瀞霊廷に身をおきながら、その返答は、 あまりに無責任すぎる気がした。幼い彼の、無邪気な問いかけに対して。 世界は明らかに間違っている。 自らの死体のそばで座り続けた彼は、漠然と藍染が考えていた真実を、 白日のもとに晒したのだった。意図せず、その行動をもってして。 ……藍染は、ゆっくりと彼のもとに歩み寄った。彼のそばには腐敗臭のする死骸があり、 蠅がぶんぶんと弧を描いて飛び交っていたが、そんなことはもはや、気にならなかった。 一心に藍染を見つめる彼の前で跪き、その小さな体を抱きしめる。 「おっちゃん、どうしたんや?」 彼の背はひどく華奢で、藍染は涙が出そうになった。 まだ幼く無垢な彼が苦しむ必要など、今までも、そしてこれからもないはずなのに。 どうして、かくも、世界は残酷であり続ける? 「……僕は君に誓うよ。もしかしたら、このあと君が向かう世界は、 今と変わらない、いや、今よりももっとひどい世界かもしれない。 でも、僕は君のために、そんな世界を変えようと思う。 どれくらい時が必要かはわからないけれど、これだけは約束する。 だから、それを信じて、待っていてくれるかい?」 奇妙なほど静かな、ある意味厳かともいえる沈黙が、藍染と彼に降り注がれた。 ひどく貧相なあばら家も、傍らの死骸も、どこか聖性を纏って見えるほどに。 「おっちゃんの言うてること、いまいちようわからへん。けど……」 やがて、ゆっくりと彼が藍染の耳元で呟き、 まるで最後の審判が下されるときのように、藍染は息を詰めた。 「おっちゃんがええ人なんや、ってことは、なんとなくわかるわ。 だから、僕、待とう思うねん」 「……ありがとう」 藍染は救われたような思いで彼から身を離し、腰に下がる斬魄刀の柄を掴んだ。 「なんやの?」 恐らく、斬られたときの記憶が蘇ったのであろう。彼は怯えた顔をして、後ずさった。 「斬りはしない」 安心させるように藍染は微笑み、柄の先を彼に向けた。 「これを額につけると、君は流魂街に行くんだ」 「そっちを、額に……?」 恐る恐るといった態で、彼は藍染に近づいた。藍染は不安がらせないように、 笑みを絶やさぬまま、彼が徐々に近づくのを待った。 手が触れられる距離まで彼が近づくと、怯えさせないように細心の注意を払いながら、 そっと手を伸ばし、彼の肘を掴む。 彼は小さく息を飲んだ。 ……斬られたときのショックが、そうさせたのだと藍染は思ったのだが、 「おっちゃん、待ってや!僕な、大切なこと言い忘れててん」 彼が漏らしたのは、そんな一言だった。 「なんだい?」 「僕の名前」 虚を突かれて、藍染は彼を見た。 「言い忘れててん、僕の名前」 彼の真摯すぎるほど真摯な眼差しに、半ば気圧されながら、藍染は問う。 「なんていうのかな?」 「市丸ギン、ゆうねん」 言い終えると、市丸は安堵と藍染に対する信頼が混ざり合った穏やかな表情になった。 「ギン、か。いい名前だね」 名前がどうの、というよりむしろ、彼のひどく穏やかな顔を歪めさせないために、藍染は言う。 「そうや。ええ名前なんや。ギンっちゅうのはな、耶蘇様がお生まれになった日に、 母ちゃんが外に出たら、雪が降ってて世界が銀色に見えたからって、つけてくれたんやで」 どこか自慢げに彼は言い 「おっちゃんは、なんて名前なん?」 と、首をかしげた。 「僕は、藍染惣右介っていうんだ」 「ふうん」 市丸少年にとって、藍染の名は、たいして感銘を受けなかったようで、 曖昧に頷き、続いてにっこりと笑った。 「僕が言いたかったんは、それだけや。もしかしたら、おっちゃんが 僕になんかしたとき、僕が全部忘れてたら、おっちゃんに、 名前教えられへんからなあ」 ……子供の魂魄を流魂街に送ったことは何度もあるというのに、 彼にだけ、ひどく心惹かれた理由が、その瞬間、藍染はわかったような気がした。 「忘れないよ、絶対に」 心から藍染は答えたが、彼はそれをどう捉えたのか、笑んだまま何も言わなかった。 藍染は柄の尾を、何も言わない彼の額に当てた。 途端。 白い光が一閃した。 久方ぶりに霊体という、非日常を抱え込まない生活を取り戻したはずなのに、 あばら家は、先ほど以上に老いてしまったかのように見えた。 今にも崩れ落ちそうな家から出ながら、藍染は思う。 もしかしたら、彼の存在がこのあばら家を「家」たらしめていたのではないのかと。 その証拠に、生命の息吹を完全に失われてしまったこの家は、すでにただの木の残骸にしか見えなかった。 あとは朽ちていくだけであるはずのこの家が、 しかし一方でどこか満足げな表情を浮かべているように、藍染には思えた。 彼が彼のまま天に召されたのは、この自分が体内で慈しんだからだという自負。 ……恐らく、この家が祈ってやまないであろうことを、この家の代わりに藍染は口の中で唱えてみる。 「願わくは、できるだけ幸福な世界に彼が召されますように」 うちのサイトのお話はこの話が元になっているものが多いです。 ……なんというか、すみません。 |