「ええ天気ですね」
市丸の声に我に返った藍染は、書類から窓へと視線を移した。
ずっと書類と向かい合っていたせいか、白く目映く光る窓は、藍染の目に鮮やかすぎた。
瞳を鋭く突かれたような感覚に襲われた藍染は、慌てて目を瞬かせる。染み入るような痛みが、目の縁に涙を浮かばせた。
やっと窓の外の明るさに目が慣れたところで、藍染は市丸へと視線を転じる。
彼は机に顎を乗せただらしない姿勢で、じっと窓の奥の情景を見つめている。
書類が皺にならないよう予めずらしてあるのは、 さすが副隊長だと言えないこともないが、これでは完全に仕事を放棄していることを上司に見せびらかしているようなものだ。
まあ、朝から延々と書類を片付けてきたのだ。休憩も兼ねて、少しだけ外の空気を吸いに行くのもよかろう。
「そうだね、散歩でも行くかい?」
そう藍染が提案すると、市丸の足元あたりで大きな音がした。
それは、市丸が弾かれたように立ち上がったため、椅子が反動に耐え切れず、床に叩きつけられた音だった。
「いきましょう」
先ほどまでのだらけた様子が嘘のように、市丸は機敏に椅子を直すと、大きく伸び上がり、首やら肩やらをぐるぐる回し始めた。
彼の若い肢体は、窓の外の光景並みに目映い。
この薄暗い部屋に彼を長らく留め置いてしまったことを、藍染はなぜだか申し訳なく思った。


「ホンマ、ええ天気やな」
若木のような彼の体は、表に出た途端、急速な光合成を始めたかのように、刻一刻と瑞々しさを増した。
急に力が漲ってきた我が身に、我ながら戸惑っているかのように、市丸は珍しくもない隊舎近辺の風景をしばらくきょろきょろと落ち着きなく見回し、何に納得したのか、ひとつ頷くと、せかせかと歩き出す。
「そんなに早く歩くと、早く戻ってくる羽目になるよ」
「そうやった」
彼の早足に驚いた藍染が思わずそう声をかけると、市丸ははにかみ、藍染の傍らに戻ってきた。
その瞬間、我ながら不可思議な感覚だと思ったが、自分に注ぐ陽光の密度が上がったような気がして、藍染は内心で首を捻る。
日の光は誰にも平等に降り注ぐものだと思っていたのだが、実はそうではないのかもしれない。



「あ」
不意に市丸が立ち止まり、饅頭屋のショーウインドーを覗き込んだ。
そこには「新製品、納豆饅頭」と書かれた札が立てかけられている。
饅頭に目がない市丸は、途端に相好を崩した。
藍染も饅頭は嫌いではなかったが、納豆饅頭などという胡散臭い代物に対しては、まったく食指が動かない。
「本気か?」
「うまそうとか、そういう問題やないんです!」
思わず藍染がそう尋ねると、なぜか市丸はムキになって力説する。
「もうこれは、矜持の問題ですよ。僕が食べたことのあらへん饅頭がこの世にあるいうことが何より許しがたいんです」
それはもう、饅頭が好きとは言わないのではないかと思ったが、藍染は黙っておいた。
「藍染さんも食べます?」
「いや、いい」
市丸の問いかけに若干被り気味に藍染が断ると、市丸は不満そうに口を尖らせた。
「……買ってあげるよ」
市丸の機嫌を損ねると、後が怖いことをよく知っている藍染がそう言うと、
「ホンマですか?」
市丸は心の底から嬉しそうに破願した。
副隊長である市丸の収入は決して安いものではないはずだが、ひとたび奢ってもらえることになったやいなや、彼の愛想も機嫌も格段によくなった。
だが、たかだか饅頭1個でここまで笑顔を安売りされるとは思わなかった。
納豆饅頭自体には未だ引っかかりを覚えていたが、饅頭代を払いながら、奢ってやってよかったと藍染はしみじみと思う。
買い求めたその場で納豆饅頭に噛り付いた市丸は、藍染の予想どおり、一瞬、不味そうに顔を顰めたが、慌てて飲み下すと、取り繕ったように満足げな表情を浮かべた。
奢ってもらった手前、自分に合わない味だったと述べることが彼にはできかねたのだろう。
基本的には傍若無人な彼だが、意外とそういう繊細な部分も兼ね備えているのだ。
彼のそんな作り笑いを、藍染は微笑ましく見やる。


いつまでもこんな風に毎日が続けばいいと心から願う自分がいる。
でも、それは不可能なことだ。
数々の痛みを黙殺し、安寧の泥に沈むことを、恐らく彼は許さない。
だが一方で、机に顎を預けた怠惰な姿勢で窓の外を眺めやっていた彼が、納豆饅頭を1個奢られたくらいで満面の笑みを称えていた彼が、 ちっとも納豆饅頭を食べ進めることができなくて必死に奮闘している彼が、変革を願って藍染を弄ぶ時の彼よりももっとずっと、生き生きしているように見えるのだ。
彼もどこかで、こんな退屈で平凡な毎日を紡いでいきたいと思っているのならば、自分はこの後に待つ悲劇を少しでも、引き伸ばしたいと思う。
逃避だと罵られてもいい。もしも彼がこんな何でもない日常を欲しているのであれば、自分は。


「こんな風に、僕らはいったいどこまで行けるんだろうね?」
「…………」
藍染がそう呟くと、市丸は顔を顰め、納豆饅頭に視線を落とした。
顔色を変えてしまったのは、ひとえに納豆饅頭が不味さのせいだといわんばかりの市丸の仕草だったが、生憎、藍染はそんなものに惑わされるほど、 彼を知らないわけではない。
彼に現実を思い出させてしまったことを、藍染はひどく悔いる。
せめて、今日くらいは心行くまで彼に笑っていてほしかった。
そして、同時に藍染は恐れ戦く。
普段の彼のように、自分自身や藍染の甘えを削ぎ落とすような残酷な発言を繰るのではないかと。
だが、市丸は半分ほど残った納豆饅頭を見つめながら、微かに笑んだ。
「まあ、どこまで行けるかはともかく」
饅頭の皮が声帯を覆ってしまっているかのような、もそもそとした口調で市丸は呟いた。
「連れ立つことくらいなら、いくらでもできるんちゃいます?」
虚を突かれた藍染が市丸を凝視したが、市丸の視線は納豆饅頭に固着したまま、動くことはなかった。
……彼はなぜいつだって、絶妙のタイミングで胸を突く言葉をさらりと吐いてしまえるのだろう?
優しさに満たされた辺りの雰囲気も手伝って、藍染は慟哭したくなる。
だからこそ、彼の幸福を何よりも願ってしまうのだ。
「そうだな、ああ、そうだ」
「……僕かて」
「えっ?」
「いえ、なんでも」
何事かを言いかけた市丸が振り切るようにいつもの胡散臭い笑みを顔に貼り付け、その途端、藍染は優しい時間が終わってしまったことを知る。
「さ、帰りましょう。愛しの書類ちゃんが待ってはる」
市丸は深刻さを孕み始めた空気を睥睨するように視線を走らせ、だが口では冗談めいた言を繰り、歩を進め始めた。





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