歌が聞こえたような気がして、市丸はそっと耳を澄ました。
一瞬、彼が歌っているのかと思ったが、よく考えてみずとも、思慮深さが服を着て歩いているようなあの男が、 今この瞬間に歌うわけがない。
気のせいだと結論づけ、市丸は耳を閉ざしたが、柔らかい布団に頬を押し付け、静かに息を殺していると、やはりどこからか旋律ががささめいてきているのだった。
いったい、どこから聞こえてくるのだろう?
気になって、よくよく耳を凝らすと、幼子の微かな歌声が、障子の隙間から射し込む陽光に乗るようにして、この部屋へ紛れ込んできていることがわかった。
感情の機微など理解できない年代なのだろう。どうやら闇雲にがなっているらしい少年の歌声には抑揚というものが欠けている。
それ故、この陰鬱な部屋にまで容易に届いているのだろうが、その傍若無人な響きと途切れ途切れに聞こえる状況から、最初、市丸は彼が異国の歌を歌っているものだと思いこんでいた。
だから、不意に聞き覚えのある一節が、内に押し入ってきたとき、市丸の全身に雷に穿たれたかのような衝撃が走った。
……ああ、この歌を知っている。
そう思った途端、市丸の胸は締め付けられるように痛む。
これは、あの子が口ずさんでいた歌だ。
それに気づいた市丸は、反射的に、息を詰め、聞こえなかったふりをする。
だが、一度、気づいてしまった懐かしいメロディーはもはや、市丸が耳を傾けずとも、勝手に市丸の耳を犯し、鼓膜を震わせる。
いつしか市丸は、声には出さず、口だけを動かして、子供の声に合わせ、歌っていた。
――志を果たし、いつの日にか故郷に帰ろう。
そうか、そんな歌詞だったのか。
……無邪気だったあの頃、何の気なしに歌い飛ばしていた歌詞はまるで積年の恨みとばかりに、市丸にしぶとく絡みつき、離れようとしない。
絶叫の衝動を押さえ込み、市丸はただただ息を潜めた。


……最後の瞬間の後、身を離した彼の打ちひしがれたような表情が、市丸の目に焼きついて、未だに離れない。
たかだか、人一人犯したくらいで、なんて絶望的な顔をするのだろう。
まず脳裏に閃いたのはそんな思いだった。そのくらい、彼の表情は不快だった。
まるで、今まで何でもないと思っていた、かつて自分がされたすべての行為が、自分がしてきた振る舞いすべてが、 否定されているようだった。
思うがままに自分を蹂躙しておきながら、なぜ彼が傷つくのだ?
この場合、傷つくとすれば、寧ろ自分であり、彼ではないはずだ。
それでも、罪悪感は、市丸の胸を焼き続ける。
自分は何もしていない。彼の誘いに応じ、酒を飲み、酔い潰れてこの部屋に辿り着いただけだ。
その末に実った結末に、自分の意志は何の関与していない。
行為の最中だって、何度も抵抗した。
力を抜いた瞬間もあったが、それは単に抵抗に疲れただけで、それ以上の意味はないはずだ。
だが一方で、事実がそんな単純な等式で成り立ってはいないことを知っているのは、傍から見れば一点の曇りもない被害者である自分だけだと市丸は知っている。
……今まで、多かれ少なかれ苦痛を支払うことで、必要なものが手に入るのなら、丸儲けだと思っていた。
物を手に入れる正当な手段である、金という媒介物を僥倖でしか手に入れること叶わなかった市丸は、そもそも、金を信頼などしていない。
唯一、確実に支払いの手段になりえるのは我が身しかなかった市丸にとって、 一時的な肉体の痛みくらいで望むものが手に入れられるのであれば、寧ろ願ったり叶ったりだったのだ。
計算高く立ち回らなければ食い殺されるような世界に生きてきた者のそれはいわば処世術であり、金の代わりに痛みを差し出すことに市丸は今まで何の疑問も抱いていなかった。
だからこそ、その自分を否定できない以上、自分は抵抗しなかったようなものではないのかと市丸は思わずにはいられない。
……そういえば、合間合間に、それとなく彼の劣情を煽る行動を意図的にしていたような気がする。
彼が自分を裏切らないために、自分の肉体を捧げようと思った瞬間も、どこかにあったような気がする。
我が身に染み付いていた、計算高く立ち回るという行動が、己の好悪をも超えたところで働く自己保身の念が、いつのまにか彼を唆す形で動いていたのではないか?
だとすれば、被害者は彼の方なのだ。
事実、自分を無理やり犯したくせに、悠長に障子の隙間から外を眺める彼の佇まいがひどく清廉であることが、市丸をより一層の不安へと突き落とす。
悪びれることなく煙草でも蒸かしてくれていれば、痛みを支払ったことのない者の当然の末路だと嘲笑うことも、心置きなく被害者としての立ち位置を獲得することもできたのだが、 彼の背からひっきりなしに立ち上るのは苦悩の靄であり、その事実が市丸を混乱させるのだ。
代々続く家柄のおかげで、尸魂界でまっとうに生きてきた彼は、知識でしかあの地獄を知らない。
その清冽さが育ちのよさの一点につきるのだとしたら、金ですべてを買ってきていたが故のことだとしたら、それはひどく不平等だと思う。
だが、夜を完全に洗い流した朝の光を浴びて、身じろぎせずに立っている彼の姿がひどく目映くて直視できない。
支払いはすべて済ませているはずなのに、彼のようにあの光と何の躊躇もなく真っ向に対峙できることが、今の自分にできるとは到底思えない。


……ふと、強烈な吐き気にも似た衝動が胸を焼く。
ここから飛び出したい。大声でわめきながら、あの障子を破り、光の中へ飛び出したい。
燦燦と照る日の光を全身に浴びながら、帰路につくのだ。


でも、どこへ帰ろうか?


旋律は続いている。胸は郷愁に疼いていく。
だが、行き着く先の風景がまるで見えない。
いや、違う。自分は故郷と呼べる場所を、昨日、あの瞬間に、自ら捨ててしまったのだ。
あの静かに歌う声の隣を。あの夕日に染まる白い頬の傍らを。
今更、郷愁なんて、反吐が出る。
……やがて幼子の声は止み、再び世界は森閑とする。
まるで自分のために用意されたかのような静けさだ。
市丸は布団の温みの中で失笑し、わざと寝返りを打った。
糊のきいた敷布は、意図以上に大きな音を立てる。弾かれたように彼は振り向く。
曖昧な笑みを用意し、市丸はゆっくりと身を起こす。
こうして、自分は新しい故郷を手に入れるのだ。
吐き気がする場所を。不快な場所を。離れがたい場所を。




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